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日蓮大聖人・池田大作

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1 家庭の揺らぎ  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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2  家庭教育の主役を演じる母は偉大
 池田 そこでまず、社会と教育の問題、なかんずく社会の教育力について考える際、絶対に避けて通ることのできないのが、家庭です。青少年教育はもちろんのこと、とくに就学以前の幼児教育にあっては、家庭教育のはたす役割は決定的な重みをもっています。その主役を演ずるのは、何といっても母親でしょう。
 サドーヴニチィ 母である女性が、子どもの教育や盤石な家庭作りに対して、何にも代えがたい極めて重要な役割をはたすという池田博士のご意見には、私も全く同感です。少なくとも、人類が自分たちのことを人間と認識するようになった時からずっと、そうであったと思います。それこそが、私たちが文明と名づける、かの輝かしき人間社会の発展の成果をもたらしたと確信しています。
 池田 一説によれば、母子の関係は、人間に限ったことではなく、2億年前の、ほ乳類の誕生にまでさかのぼることができる。しかし、父親の歴史は霊長類には多少見られるものの、5百万年前の人類の誕生以来のことにすぎないともいわれています。母子関係の方が40倍もの長きにわたっており、この点からも、母親というものの存在の重みが分かります。そのかけがえない存在感は、家族関係がしっかりしている時よりも、昨今のように“ゆらぎ”や“崩壊”が取りざたされてくればくるほど、クローズ・アップされてくるのではないでしょうか。
3  文明の利器がもたらした「母と子の疎外」
 サドーヴニチィ その通りですね。少し前まで、少なくとも20世紀中頃までは、子どもの教育や若者の行動のことを語るときに、「母乳とともに身につけた」という譬喩をまさに適切な表現としてよく用いたものです。
 ただし、この母である女性の役割が、現代の科学技術革新の始まり、つまり、1940~50年代のころから、大きく変化してきたことに留意すべきであると私は見ております。その変化は、母と子が互いに疎外された状態と、とらえていいのではないでしょうか。母と子の間に、いかに多くの人工的な夾雑物が入り込んできたことでしょう。
 池田 そうですね。文明の利器は、母親たちを多くの点で家事、育児の重荷から解放しました。それは、必然的な成り行きであって、生じた時間的余裕を、自らの人間的成長や親子の創造的な触れ合いに活用していくことも可能になりました。事実、そのような、“女性の世紀”の担い手にふさわしい、偉大にしてたくましい母親の姿を、私は数多く見てきております。
 反面、おっしゃるように、母と子の疎外という現象をもたらしていることは否めません。
 サドーヴニチィ 私たちの幼少時に比べ、今は、いたるところで人工食品が用いられ、おかあさんのおっぱいの代わりに、さまざまなおしゃぶりやその他の道具が使われるようになりました。そして、子どもは、電動式ゆりかごに寝かされ、おびただしい数のおもちゃに囲まれています。そのほとんどが、単にサイズを小さくしただけの大人の世界のものです。
 母親たちの関心事は、多くの場合、子どもをいかにこうした人工的なもので囲むかにあります。
 池田 日本でも、24時間営業のコンビニエンス・ストアに行けば、ぜいたくさえいわなければ、さまざまな食料品がレディー・メードでそろっていたり、便利なことこの上ない。
 しかし、その反面、母親の体温の温もりを感じさせる“おふくろの味”などという言葉が、郷愁をもって語られたりしています。
 サドーヴニチィ ロシアでは、ある程度余裕のある家では、大抵、ベビーシッターを雇っています。そして、子どもは、やっと肉体的に自立してきたころにはすぐに義務教育に入れられてしまいます。小学校に入学する年齢は、この50年間で2歳引き下げられ、8歳から6歳になりました。ロシアの幼稚園に設置されている、いわゆる「小学校予備クラス」をいれれば、5歳に引き下げられたといってもいいかもしれません。
 池田 ある意味では抗しがたい時代の流れかもしれません。だからといって、親の、とくに母親の子どもへの関わりの大切さが変わるはずがない。そこに、この問題の難しさがあります。お金やものがいくらあっても、心のふれ合いは得られません。そうした社会の流れのなかで、愛情の正しいスタンスの在り方を見つけるのは、意外に難しいのではないでしょうか。
 サドーヴニチィ おっしゃる通りです。母親が疎外されていくプロセスは、市場経済の論理から見てみるとハッキリしてきます。
 経済学者にとって、国内総生産に表れてこないような、子どもの喜びや、母が子をあやす行為などは何の意味ももちません。
 経済の世界で大事なのは、市場で販売することのできる商品やサービスで満足させられる需要や欲求だけです。そして、社会自体も、他人の欲求を経済的に満足させるという行為によって生計を立てている勤労者だけを認める傾向にあります。そして、経済活動を行う人間は、思いつくだけのありとあらゆる不満感を、市場の商品やサービスへの需要にうまく転じながら、お金を稼いでいるのです。
 池田 そうした偏向に対する反省から生まれたのが、“アンペイド(unーpaid)・ワーク”あるいは“シャドー(shadow)・ワーク”と呼ばれる、主として女性が担ってきた無償労働に光を当てようとする試みですね。
 そうした動きは以前からありました。日本では、1995年、北京で開かれた世界女性会議の行動綱領を受けるかたちで、無償労働を数量化させ、統計や政策に反映させようとする試算が、さまざまな角度からなされています。無償ゆえの尊さを、わざわざ数量化(有償化)するのも、愛情を損得づくに換算するようで味気ないと感じる向きもあります。とはいえ、女性や母親にしわ寄せされすぎてきた“無償労働”を、当たり前のことと受け止めていてはならない。とくに男性側は、そうした意識改革を怠ってはならないと思います。
4  ロシア版”ニュー・リッチ”の家族の光景
 サドーヴニチィ 私は、母親疎外の問題は、たとえ、母親に経済的保証が与えられ、家事が軽減されたとしても、おさまるどころか、さらに拡大されるにちがいないと確信しています。
 疎外の現象は、家庭全体に及んでいると思います。社会の規範も変化しています。少なくとも、西洋的民主主義の国ではそうだと思います。社会がグローバル化(もしくは西洋化)することによって、この傾向が薄れていくと断言するには、まだその根拠が十分ではありません。逆に、強まっていくという論拠の方が多いのです。
 池田 まったく同感です。
 欧米ほどではないにしても、日本も、そうした「規範の変化」から例外ではありません。そのような流れを前にして、母親は、また父親は、どのような役割を果たしていけばよいのか――いわば新たな家族、家庭の在り方を求めて、とまどいながら“海図なき航海”を余儀なくされてきたのが、日本の現状といってよいでしょう。
 サドーヴニチィ そうした傾向は、昔から伝統的に家庭が社会の重要な核の役割を果たしてきたロシアでさえ、はっきり現れてきています。
 ロシアに、「プローフィリ」(横顔)という雑誌があります。その2000年の第9号に、あるロシアの若い家族に関する記事が掲載されていました。私は、そのご夫妻がモスクワ大学経済学部の卒業生であったことからも、その記事に興味を持ちました。
 池田 現在のロシアのエリートの家族ですね。
 サドーヴニチィ ええ。その一部を読みあげてみましょう。
 ツカノフ・イーゴリ、ナターリヤご夫妻は、一般的なヨーロッパ風の家庭で、中流の上。夫婦ともに、金融業界で同じように活躍している。よく働き、世界中を駈け回り、お互い顔を合わせるのは休日。6歳の息子の面倒はベビーシッターがみている。
 夫・イーゴリさん「ロシアでは、子どもを育てるのは母親で、母親が最初の教師でもあるというのが常識になっていますが、西欧には、ベビーシッターの制度があります。プロのベビーシッターは、特別の免許を持っており、それぞれのキャリアは簡単に調べることができます。ですから、良いベビーシッターを見つけて、子どもを良い学校に入れて、正しいレールを敷いてあげれば、子どもは正常に成長します。我が家のベビーシッターは、息子のニキータと週5日間過ごしていますので、実質的に家族の一員となっています」
 池田 今までのロシアでは見られなかった家族の光景ですね。
 サドーヴニチィ 続けて、妻・ナターリヤさん「私たちが結婚したとき、夫のイーゴリは、私にいくつか条件を出しました。たとえば、テニスを覚える、スキーが滑れるようになるなど。先日も一緒にスキーに行きましたが、主人が激しい坂を滑ろうと言えば、怖いと思っても、滑りました」
 イーゴリさん「私たちが一緒に過ごす日々は、私たちにとって一番大切な時なのです。いつも、家族3人でテニスクラブに通っています。テニスの後は、どこかのレストランで、数時間かけてゆっくりランチをとります。ただ、ぶらぶら散歩するのもいい……。それから、友達の家に遊びにいきます」
 これは、ほんの一例です。
5  他者への共感が社会を健全にする
 池田 経済革命の波に乗って成功を収めた、いわゆる“ニュー・リッチ”と呼ばれる、比較的若い人々に、そうした傾向が顕著に見られるようですね。ひところのイデオロギー全盛時代には、それは“小市民(プチ・ブル)”的な生き方として排斥されてきました。私は、古めかしいイデオロギーを是とするつもりは毛頭ありません。しかし、ロシアに限らず、グローバリズムの一枚看板といっても言い過ぎではないリッチ志向、拝金主義に、危ういものを感じています。
 第一に、そこには、“他者”への共感性が欠落しているのではないでしょうか。ロシアでも、“ニュー・リッチ”と呼ばれる人々は、ごくわずかなはずです。一方、年金生活者をはじめ、ぎりぎりの窮乏生活を余儀なくされている人々は少なくないはずです。数年前、モスクワやサンクトペテルブルクのストリート・チルドレンの惨状が日本で放映され、私も胸を痛めました。各国でも貧富の差はますます広がる傾向にあります。弱い立場の人々への共感――仏教では、それを同苦する心といっています――なくして、社会の健全さは保たれません。
 サドーヴニチィ おっしゃる通りです。ロシア社会が(自然の厳しさなどの)様々な困難を克服してくることができた根底にも、他者を思いやる伝統がありました。その社会傾向は、希薄になりつつあります。
 池田 第二に、彼らの安楽な生活が、いつまで続くのか、保証の限りではありません。よしんば、稀な僥倖に恵まれて“リッチ”で居続けることができたとしても、老い、病み、そしていつかは確実に死を迎えるという運命(仏教では、それを生老病死の四苦といっています)を避けて通ることはできない。そうした人生の関門に直面した時、安楽ばかり求め続けてきた“ニュー・リッチ”的幸福感、人生観がいかに脆く、無力であるかを痛感させられるはずです。
 そして第三に、家庭の教育力という点では、彼らの子どもにどういう影響を与えていくか。貧しい時代よりも、物が豊かに出回っている時代の子育ての方が格段に難しいということは、日本の教育状況が直面している最大の課題でもあります。
 サドーヴニチィ 重要な視点です。ロシアの若い世代への適切な助言であると思います。
6  未来の家族はどうなるのか
 池田 ところで、総長はドニエプル川(欧州第2の長流を誇る)の支流沿いの小さな町、クラスノパブロスカのお生まれですね。
 サドーヴニチィ 「町」とおっしゃいましたが、実際は「村」なんです(笑い)。
 私が生まれた時、村には10軒の家しかありませんでした。私の両親は字を書くことも読むこともできませんでした。「教養のある第一の世代」――ロシアでは、こういう言い方をするのですが、私たちがまさしくそうでした。
 私は成長してからは炭坑夫として働きました。その後、1958年にモスクワ大学の門をくぐることができ、以来、ずっと大学におります。
 池田 尊い歴史です。本当の「人生」を、「人間」を知っておられる総長の背景が、わずかながらも理解できます。
 農業や家内工業を中心にした農業文明から、大量生産、大量消費を基調とする、産業革命以来の工業化、近代化への流れは、「職」と「住」の分離を原則としました。それが必然的に大家族制度の崩壊から核家族化への流れを引き起こしました。
 日本も明治以来、確実に、またかなりの急テンポでその道を歩んできました。それが、急速に加速されたのが、1960年代にはじまる高度経済成長の時代です。
 そうした流れのなかで女性や母親に求められたのが、“猛烈社員”で仕事一本の夫を支え、家事・育児に専念する、いわゆる“良妻賢母”型の生き方でした。そして、現在、経済の行きづまりとともに、核家族や猛烈社員、良妻賢母といった在り方も大きく変わってきました。
 サドーヴニチィ 現代のメガ・トレンド(巨大な潮流)として、核家族もまた次第に消滅する現象が起こってきています。それは、「工業社会」が何か新しいものに変わりつつあることを一番はっきりと示す指標の一つです。この新しい社会は今のところ「脱工業化」(もしくは「情報」)社会と呼ばれ、そこへ移行する過程は、「グローバリゼーション」(もしくは「西洋化」)と名づけられます。
 こうした「情報社会」における家族形態に関してよく言われている意見をまとめてみますと、大部分の人が、「核家族」は崩壊し、その代わりに、夫婦の役割が極めてあやふやで、子どもの出産や教育は重視されないような家族が形成されていくだろうと予想されています。
 池田 「未来の家族はどうなるのか」との問いかけに、著名なアメリカの未来学者アルビン・トフラー氏は、こう答えています。
 「第三の波の文明では、ある特定の家族形態だけが、長期間にわたって主流を占めることはなくなるであろう。家族は多様化の時代に入る。人間がみな、画一的な家族生活を営むようなことはなくなり、ひとりひとりの人間が、一生の間に、その人ならではの、言ってみれば、自分で“あつらえた”家族形態を、いろいろ経験するのが当たり前になるであろう」(『第三の波』鈴木健次他訳、日本放送出版協会)と。
 私も、そのような多様化の流れは必然であると思っています。
 サドーヴニチィ 「工業社会」の生活形態がまだかなり残っている現代社会ですが、すでにトフラー氏の予想を裏付けるような現象がすでに種々見うけられます。
 池田 そこで、もっともポイントとなるのは、その流れのなかで、人々がどのように幸福感を感じとっていけるかです。私は、外面の形態よりも、むしろ人間の心、内面の在り方に、多様性が豊かに花開いていけるかどうかのカギがあると思うのです。
 サドーヴニチィ 同感です。従来の「核家族」と並んで、さまざまな家族形態が見られるようになりました。
 たとえば、同性結婚による家族。経費節約や単純な性関係を目的とした共同生活の延長線上に形成される「家族」。
 また、契約結婚や、集団結婚、複数の家族の集合体もあります。また、父親と母親が離れた町で暮らし、働いている場合もあります。
 池田 以前は考えられないような形態もありますね。
 サドーヴニチィ ええ、「情報社会」にあって一番多い形態として専門家があげる「複数の両親がいる家族」です。
 この「複数の両親がいる家族」は、親がそれぞれ離婚し、連れ子と一緒に再婚を繰り返した結果として生じるものです。そして、再婚後に生まれる子どもにとっても単純な家族関係ではありません。
 池田 先進国に多く見られるケースですね。建国期のアメリカ民主主義を見聞して、古典的ルポルタージュ『アメリカの民主主義』を著したA・トクヴィルは「民主主義時代には、あらゆるものの動きのうちでも、めだって動いているものが、人間の心である」(井伊玄太郎訳、講談社)と述べています。
 家族形態の流動化は避けられないにしても、それで、人間の幸、不幸は決まらない。しかし、人間の心まで不信や不安に揺れ動いてしまえば、不幸という以外にありません。
 200年近い歳月を経ても、トクヴィルの古典的考察は光を失っていません。私が「人間の心、内面の在り方」を強調するゆえんです。
 サドーヴニチィ なるほど。
 「複数の両親がいる」家族形態が、情報社会においては「典型的な家族」になると専門家が断言する理由は、アメリカでこうした家族が多くなっており、1980年代初頭にすでに25%のアメリカの子どもが、こうした家庭で育っている、とされるからではないでしょうか。
 アメリカは、グローバル化の最大の推進力といわれています。「経済的複婚」とも呼ばれるこうした現象が、西洋化している国々に広がらないと考えるのは無理でしょう。
 池田 確かにアメリカの影響は大きくなっています。
7  夫婦を支える“無償の愛”
 サドーヴニチィ 民族的な家族の伝統が根強い国や社会において、こうした「経済的複婚」現象に対抗できるものは何だと思われますか。また、こうした「核家族」の崩壊に抵抗すべきなのでしょうか。
 池田 「経済的複婚」という言葉が、どこまで市民権を得ているのか私はよく知りません。
 いずれにせよ、夫婦の絆というものは、家庭というコミュニティーを形成する一番重要な基盤となっているものです。夫婦が、互いにはじめは他人同士であることから出発するという点では、善かれ悪しかれ血縁関係という結びつきを最初から所与のものとしている親子以上に、それは端倪すべからざる意味合いをもつものです。
 その絆を決定づけていくのは、総長がお好きなO・ヘンリーの小品が描いているように、“無償の愛”というものでしょう。それが、終始、経済的要因に引き回されているというのでは、危うい限りです。
 サドーヴニチィ 現代のロシア、とくにモスクワなどの大都市も、そうした風潮と決して無縁ではありません。
 池田 そのような時流を軌道修正していくには、社会全体の価値観の転換が不可欠ではないでしょうか。
 かつて、経済成長にひた走る日本人を皮肉って「エコノミック・アニマル」と呼称されましたが、日本に限りません。アメリカ滞在経験の長い日本のある経済人が、数年前、「かなりハイ・レベルの教養を身につけたアメリカの友人までが、多かれ少なかれ、マネー・ハンター的雰囲気をかもし出している」と嘆いていました。
 サドーヴニチィ そうした状況は、次代の人々の精神性を貧しくするのではないかと危惧します。
 池田 そのためにも、ますます教育が重要です。だからこそ、私は、2000年に「『教育のための社会』目指して」と題する「教育提言」(本全集第101巻収録)を世に問いました。
 社会の歪みは家庭とともに教育の場に端的にあらわれます。
 一言でいえば、日本の場合、近代教育システムの歪みをもたらした最大の要因は、“富国強兵”や“殖産興業”といった国家社会の目標がまずあり、本来、人間の全人的成育、人格形成を目指すはずの教育が、そのための手段に貶められてしまった。目的であるはずのものが、手段になってしまっている点にある――目先のことに一喜一憂するのではなく、この本末転倒をどう正すのかが、教育改革の根本に据えられなければならないと思うのです。
 家族の問題も、その本末転倒のしわ寄せをもろにかぶったものであり、したがって、近代工業化社会の行きづまりとともに、家族としてのはたらきや、コミュニケーション不全が問われているのも、当然の帰結というべきです。
 サドーヴニチィ おっしゃる趣旨は、よく理解できます。
 池田 前に触れたように核家族以前に、もどれなどというつもりはないにしても、新しい家庭のあり方をどう創造していくか、そして「社会のための教育」から「教育のための社会」への軌道修正を、どう風通しよく行っていくかが、試みられなければならない、と私は信じております。
 サドーヴニチィ 池田博士の年来の主張は、私も興味深く拝聴しました。私も、家庭の重要性を認めるに少しもやぶさかではありません。
 池田 「経済的複婚」に象徴される流れに身を任せていれば、経済の論理はますます猖獗をきわめ、家庭、家族という安らぎの場、生命の安全地帯は消滅の危機にさらされること必定でしょう。そうなれば「人間」は、ますます逼塞させられ、家族の絆なども、断ち切られてしまうことを、私は恐れます。
 家庭における教育もそうです。とくに最近の少年犯罪の性格は、従来と異なり、“良い家庭”の“良い子”が、突然、考えられないような凶行に走ってしまい、大人たちを驚かせ、途方に暮れさせるものがある。その背景には、家庭の漂流化、液状化という大きな要因が横たわっています。
 「第三の波」に翻弄されて、近代工業化社会のもたらしたひずみや矛盾を、拡大再生産する愚だけは犯したくないものです。
8  「子どものいない文化」に未来はない
 サドーヴニチィ そこで、重要と思われる設問をあげたいと思います。
 マスコミでも、文学や評論でもよく騒がれている「子どものいない文化」にはどう対処したらいいのでしょうか。
 「子どものいない文化」がまぎれもなく存在することは、多くの具体的な事実が物語っています。それは、単に子どもを持ちたくないという家庭が増えていることや、結婚年齢が高くなり、子どもはひとりだけに自ら制限し、まれに2人までの場合もある、というような状況にみられます。
 また、未婚のまま子どもを持ちたいと願う女性や、セックスがもたらす結果など考えず、父親になる覚悟もない男性たちがいることもあげられます。
 池田 当然のことですが「子どものいない文化」が蔓延すれば、人類は衰滅していく以外にない。行きつく先は「未来のない文化」しかありません。それを「文化」と呼ぶに値するものかどうかは別問題として――。
 さまざまな理由があるにしても、未来に生きる世代が犠牲になっても、自分たちだけ、自分たちの時代だけ良ければよいという、エゴイズムの蔓延があるといっては、言い過ぎでしょうか。
 サドーヴニチィ 深刻な問題です。
 池田 レミングという小動物は、集団をつくって大移動します。途中、野を越え山を越え、植物を食べ荒らしながら一直線に行進し、海岸に到着するとそのまま海中になだれ込み、集団で溺死してしまう、といいます。
 周知のようにドストエフスキーは、『悪霊』のなかで、宗教的規範を喪失し、エゴイズムという悪霊にとりつかれた人々の動態を、このレミングのイメージに仮託して、不気味に描き出しました。「子どものいない文化」などという荒涼たる心象風景を前にすると、私は、思わず、100年あまり前の文豪の予言者的な筆致に、奇妙なリアリティーを感じてしまいます。
 サドーヴニチィ それと同時に、今日のロシアで「子どものいない文化」が急激に根づいてきている背景には、母性の喪失というよりは、ひとえに厳しい経済状況があるように思います。
 子どもに関してよくこんな話を聞きます。「自分のためなら、まだ子どもはほしくない。食べさせていけないから。国家のために子どもを産むのは、もうこりごりだ!」というのです。
 池田 日本でも、経済的理由で子どもを持たない夫婦も増えています。なかには、自分たちの生活水準を落としたくないという場合もあるようです。
 サドーヴニチィ 国家統計委員会のデータによりますと、1992年12月現在では、子どものいない夫婦で、子どもがほしくないと思っているカップルは8%にすぎません。ところが、1994年末の調査では、出産可能年齢でありながら子どものいない女性のうち、24%が子どもをもちたいとは思わないと答えたのです。今、このような調査を実施したとしたら、もっと高い数字が出るでしょう。
 池田 昨春、日本の新聞で、ロシアの直面する人口急減問題が報道されていました。(「産経新聞」2002年8月14日付)
 ソ連崩壊当初、毎年10万~40万人ずつ減っていた人口が、ここ数年は毎年70万人と急減し、このままでいけば、2010年には、ロシアの人口は1億3千万人に、2050年までには7千万人にまで減少してしまう可能性がある、ということでした。
 プーチン政権は、昨年10月に実施したソ連崩壊後初の国勢調査の結果を受けて、人口急減対策に、本格的に取り組むようですね。
 サドーヴニチィ プーチン大統領も、“100年の大計”に立って、真剣に取り組んでいくものと思います。
 池田 日本も同じような問題があり、様々な対応策が求められています。
 サドーヴニチィ 私のデータが正しければ、日本も、出生率(1人の女性が一生の間に産む子どもの数)は、戦後は4・5人だったのが、1・4人を切っています。人口を維持するのは2・1人以上でないといけません。
 池田 その通りです。急速に進む人口の高齢化と相まって、少子化問題は、21世紀の日本が、かかえる最大のアポリア(難問)の一つです。いずれにせよ、一にも二にも政治の責任です。経済的要因を主因とする「子どものいない文化」を放置しておくことなど、現代社会にあってはならないことです。
9  核家族と高齢化社会の行方
 サドーヴニチィ 国により、人によって、置かれた環境や教育の違いで「子どものいない文化」に対する見方も様々のようです。
 以前、ロシアの新聞(独立新聞の付録紙「暮らしの輪」、1999年9月15日付)に紹介された記事に、ブッシュ大統領の元顧問で、現在ヘリテージ財団( Heritage Foundation )の上級特別研究員の心理学者パトリック・フェイガン氏のこの問題に関する考え方が掲載されたことがありました。氏は、民族の精神性と平安、宗教感情や、ロシアの幸福な未来にまで言及しながら、「全体の繁栄を妨げている原因はただひとつ、どこの国も女性があまりにも多く大学に行くようになり、仕事をするようになり、一人の女性が(一昔前のように)10人ずつ子どもを産むことができなくなったためである」という手厳しい指摘をしています。
 さらに、「この醜態に拍車をかけているのが、シングルマザーを保護しようとする偽善ぶった社会保障であり、青少年に性教育をし、女性が自覚できたときだけ子どもをつくれば良いという考え方である」と述べていました。この意見は単に極論と片づけられない、アメリカではかなり一般的となっていると見る人々もいるようです。
 池田 女性の高学歴、キャリア・ウーマン志向を“悪”ときめつけるのはどうかと思います。
 また、その先頭を走っていたアメリカなどでは、歯止めが、かかりつつあるのも事実のようです。フランシス・フクヤマ氏の「『大崩壊』の時代」には、次のような記述があります。
 「大崩壊がすでに終わり、規範の再構築の過程がすでに始まっていることを示す証拠があちこちで見られるようになった。(中略)その代表がアメリカである。アメリカでは1990年代の初めにピークに達した犯罪発生率が15%以上も低下し、離婚率は80年代初めに見られた最高の数値から低下し、未婚女性の出生率も増加傾向に歯止めがかかった」(鈴木主税訳、早川書房)と。
 サドーヴニチィ そうですか。しかし、グローバリズムの流れを俯瞰してみると、「核家族」は今後、残ってはいかないだろうと思えてなりません。
 おそらく、従来の常識的な意味での「家族」という単位は、高齢化社会には対応できないものなのでしょう。高齢化は、ますます進むと予測されています。今日、世界の80歳以上の人口は7千万人以上にのぼります。それが、2050年には3億7千万人になる見込みです。専門家の予測によりますと、高齢者の増加は、スイスでは400%、アメリカは800%、オーストリアは900%、日本は1300%だということです。
 池田 2002年の4月、国連は第二回となる「高齢化に関する世界会議」を20年ぶりに開催しました。今や、人口の高齢化は地球規模の問題です。介護の問題をはじめ、高齢化社会のもたらすさまざまな課題に、従来の「家族」だけでは対応しきれないのは事実です。もし対応を強いられると、家族に負担がかかりすぎ、思わぬ悲惨な事件が、日本でもしばしば起きます。たとえニュースにならなくても、家族、日本ではとくに妻が、多大な負担をかかえ、犠牲を強いられている事例は膨大にのぼると思われます。介護保険制度の整備など、日本政府もようやく重い腰を上げはじめましたが、高齢化社会が駆け足で迫ってきているのですから、政治、行政サイドの手当に少しの猶予も許されません。
 サドーヴニチィ なにも日本一国に限ったことではありません。ロシアでも、また他の諸国でも高齢化社会への取り組みは急務を要するところです。
 池田 もちろん、家族の絆はますます大切です。早い話が、老人ホームでいかに恵まれた生活を送っているお年寄りであっても、自分の子どもや孫(いない場合は別ですが)が、何カ月も何年たっても訪れてくれないとなれば、寂しいし、家族の絆というものは、いかに親密な友人、知人であっても、埋めきれないものがあるはずです。
 制度的、経済的な面だけでなく、人生の総仕上げの時期を、荘厳な夕日の如く、満ち足りて飾っていける社会を模索していくことが大切ではないでしょうか。
10  人工問題解決の方途と倫理観
 サドーヴニチィ 「家庭」というテーマのしめくくりに、人口問題に言及してみたいと思います。
 現在、増加しつづける地球人口を如何に抑制するかという問題が、地球的課題となっています。この課題は、子どもが生まれない、増えないようにするということですから、本質的に母性や育児とは相容れない性質をもっていることになるのですが、現代社会は、その解決方法を生物学、医学などの先端科学に期待しています。生命を扱う科学に対する社会の不信感や反感があるのも、ここにその原因があると思っています。
 池田 世界銀行の推計によれば、現在の地球全体の人口は63億人ですが、このまま推移すれば、2030年には80億人、2050年には90億人に達するといいますね。人口問題は深刻です。
 サドーヴニチィ 一方、あらゆる世界宗教は、伝統的に子どもを産むことを奨励しつづけています。地球上の人口を調整するのは、人間の仕事ではないと言わんばかりの態度です。つまり、聖書の言葉を借りれば、「神が与え給い、神が召し給う」のだから、出産時の母体と新生児、また幼児の死亡率がたとえ高いとしても、その点には積極的に改善する手段をとろうとしないことで、消極的な人口抑制をはかるに留まってしまうのです。
 池田 それに対しては少々、異論があります。日本人の宗教観を背景にした諺に「子どもは天からの授かりもの」とありますが、これは決して、医学などの人為的な手立てを排するものではないのです。
 しかし、どんなに人為的な手立てを講じても、最終的には自分の自由にならぬ領域がある。そこに自分の力を超えた“大いなるもの”“永遠なるもの”のはたらきを感じて、敬虔に祈りをささげる――これは、人間としての尊い姿勢であり、自然な感情の発露でしょう。「人事を尽くして天命を待つ」「神は自ら助くる者を助く」等々、皆、同じような“知恵の言葉”だと思います。
 サドーヴニチィ 科学者にも、そうした敬虔さ、倫理観は大切です。
 池田 そうですね。むしろ、医学の技術などの発達のおもむくままに、遺伝子操作など、何でも自分の思うとおりにしようという人間の傲慢さ、自然の摂理さえも破壊するエゴイズムの専横の方が、よほど危険ではないでしょうか。
 サドーヴニチィ おっしゃるとおりです。そこに難しさがあります。
 現在、人口問題を解決するために、二つの方向性がかなりはっきりと打ち出されています。第一に、家族の人数を制限する法律の制定、これは強制手段です。第二に、教育・啓蒙運動です。これはそれぞれの家庭で家族計画をたてることを目的としています。第二の道の方が人間的なように思えますが、これも人工避妊の手段を活用しないと実現はありえません。
 池田 中国政府がとってきた“一人っ子政策”もそうですね。これも、苦渋の選択だと思います。自由にしておけば、食糧、エネルギーなど、重大な社会問題につながってしまう。大変なジレンマだと思います。
 サドーヴニチィ 全体として、第一の道も、第二の道も、人間の権利と自由を狭めるような抑制措置であり、万人のための人権を万人によって守るという自由主義の理念とは相容れないように思えます。
 では解決の糸口はどこにあるのでしょう。どこかにあるはずなのですが、もともとこういった問題はすべていわゆる「第三世界」から発しているのだから、「第三世界」の中で「悪」を根絶するべきだ、という考え方があります。
 池田 たしかに先進国側には、そういう意見もありますね。
 サドーヴニチィ グローバル社会が考えるどのモデルを見ても、人口問題の責任はすべて発展途上国にあるとみなしており、社会的・物理的な出産制限措置も途上国を対象として提案されているのです。それが強制的である場合もよくあります。
 しかも、重視されているのは出産を制限することであって、母子の死亡率を下げることではないのです。
 池田 アメリカやヨーロッパ、そして日本やロシアを含めて、人口は軒並み減少の一途をたどっています。人口抑制ということが、第一義的には、発展途上国の課題となってくることは、その次元では、やむをえないかもしれません。だからといって、それを「第三世界」にのみ押しつけておけばすむような性格のものではないことは、明らかです。貧困をはじめとする人口爆発の原因となる構造的矛盾の多くに、先進諸国は深く関わっており、責任を免れることはできないからです。
 サドーヴニチィ その意味からも、グローバリゼーション思想の宣伝の中で、「人間の質」、人間がもつ質の管理というテーマは注目すべきものです。先ほど申し上げた「貧困心理」現象もこの問題ともっとも密接に関わっています。国連の発表によると、地球人口のうち、エリート的存在の20%が世界消費全体の86%を占めています。
 一方、底辺の20%を成す最貧困層の消費はわずか1・3%です。あまり知られていないことですが、世界全体で貧困層の7%から14%は先進国に住んでいます。豊かな西側諸国の国民のうち、およそ1億人が「第三世界」の最貧困層と同じレベルなのです。
 池田 憂慮すべき現実です。
 サドーヴニチィ 世界全体で小学校に行けない子どもは1億2500万人います。さらに1億5000万人の子どもたちが中途退学しています。
 これはユネスコが発表した2000年の教育問題に関する報告で述べられているものです。世界中の子どもたちを小学校に行けるようにするためには、10年間、毎年80億ドル必要です。しかし、これは世界全体の軍事費のわずか4日分にしかならないのです。読み書きのできない大人の数はいまや10億人近くにのぼっています。
 池田 ストリート・チルドレンとか、チャイルド・ソールジャーなどの言葉を耳にすると、本当に悲しく、憤りを覚えます。政治の貧困のしわ寄せは、まず子どもや母親、老人などの社会的に弱い立場にある者に集中してきます。
 1989年の国連総会で「子どもの権利条約」が採択されましたが、各国政府がその内実化のために真剣に取り組んでいかなければ、“絵に描いた餅”に終わってしまいます。グローバリズムの先頭を走るアメリカが、ヨーロッパに比べて格段に多くの最貧困層をかかえているという事実がそれを示しているのではないでしょうか。
11  貧富の差の拡大と教育の機会均等
 サドーヴニチィ 貧困が、犯罪の増加、麻薬の常習、教育の欠如、家庭の崩壊などを引き起こす温床になるという悪循環は、ロシアにとっても、他人ごとではありません。
 近年、我が国では、富裕層に生まれたか、貧困層に生まれたかによって、その人間の知的レベルが決まってしまうという乱暴な考え方が強まってきております。
 これは、肉体労働が過去の社会ほど評価されなくなった今、受けた教育の内容で人の一生が大きく左右されることと直接関係しています。
 池田 そのとおりです。社会の構造が変わってきています。
 サドーヴニチィ 教育は、他の多くの国と同様に我が国でもどんどん高価なものになりつつあります。そのために多くの若者にとって学校や大学への扉は閉ざされたものとなっているのです。こうした一種の「悪循環」が起こってきており、それはますます深刻化してきています。教育を受けなければ、どこにいっても使いものにならないし、一方、大学は垣根が高い、というわけです。
 いろいろな国や国際機関がありとあらゆるアピールをしていますが、実際には教育がどんどん有償化されてきているために、教育を受ける機会の不平等がいたるところでますます広がってきていると思います。
 池田 貧富の差の拡大が、そのまま教育を受ける機会の均等性を欠くものになっているということですね。
 サドーヴニチィ ええ。少なくともロシアについていえば、これはまぎれもない事実です。ロシアの小さな地方都市に住む青年がエリート大学に入るのはなみたいていのことではありません。ここにすでに不平等が存在するといえるでしょう。
 池田 教育は、機会均等を理想とすべきです。貴国でも無料であるべき公立の特別学校(7歳から15歳)に有料クラスが開設され、そこに入ると、通常20数人のクラスなのに、6、7人の少人数教育が受けられるという例もあるそうですね。その代わり、2年間で学ぶことを1年間でカバーするハードな学習プログラムが課されている、と。
 また、エリート私立学校も数多く生まれているとも聞いています。しかし、その中には、高級車で校門まで送り迎えされ、先生の給料を上回るようなお小遣いを与えられている生徒もいると報じられていました。大なり小なりこうした傾向は各国にも見られます。
 サドーヴニチィ 残念ながら、そのようです。
 私は、グローバル化をめざすさまざまな計画のうち、もっともよく知られているものをいくつかじっくりと読んでみましたが、どれひとつとして、貧困層の教育の展望について、ある程度説得力のある、具体的な回答を与えてくれるものはありませんでした。グローバリゼーションがすでに進んでいる以上、これは急を要する問題です。
 池田 全く同感です。上位1%の人々が、国富の半分近くを所有するというアメリカの実情が示すように、グローバリズムは貧富の差を必然的に拡大させる構造的要因をはらんでいるからです。
 サドーヴニチィ 今の時点ではっきりと私にわかっていることがひとつあります。それは、グローバル化する社会に住む人間に求められる姿は、セルフメード・マン――つまり、自分で自分を作る人間、学歴などに頼らず自己決定できる、自律的な個人ということです。
 これは独立したテーマとして個別にとりあげた方がよいと思いますので、このあと教育を含めたコンピューター化の問題を語るところで、部分的ですが触れてみたいと思います。
 池田 必ずしも、良い意味ばかりではないでしょうが、「セルフメード」ということは、巨大な官僚システムの中で、すべての指示や決定が数値目標として上から与えられ、自分たちは、それを無難にこなしていればよいという、他人任せの生き方とは対極に位置しているものと、私は推察しています。
12  ”縁起”が示す家庭のもつ教育力の重要性
 サドーヴニチィ 池田博士、あなたは教育が手段であるか、それ自体が目的であるか、という問いを投げかけられています。この問題について、私もいろいろ考えてみました。すでに申し上げたとおり、教育は一面においては人格を育み、幸福と出世を約束するものであるといえます。社会も大学を批判的にみながらも、やはり教養ある人間を必要としています。一方、池田博士は人格を抑圧する教育システムについて憂慮されていましたが、私もそのご意見にはまったく賛成です。
 池田 新しい世紀を、どう平和と共生の方向へ向けていくか。その焦点はやはり教育です。教育改革は、日本でも最重要課題の一つです。どんな国であれ、教育こそ、国の未来を決する根本です。
 サドーヴニチィ 先日、私はモスクワ市の小・中校の教師との会合に出席しました。そこにはモスクワ市の学校から500人の教師が来ていました。その席で私は、教師という仕事について、我が国の教育、我々のめざす目的について語ったのです。その時に、私の頭にあったのは、池田博士と今ここで話題にしているようなことでした。
 池田 多忙を極める総長が、そうした教育のための真剣な活動をされていることもよく存じあげています。
 サドーヴニチィ 私は子どもの徳育という意味での教育と、知的発達の可能性について発言しました。最も感性が発達し人格が形成されるのは、5歳から15歳くらいの間であることをまず考えなければなりません。もっとも私は、子どもの人格教育はもっと早くから始めなければならないと考えていますが――。
 その会合では、(ロシアにおいて)子どもの人格教育のおよそ40―50%は家庭に責任がある、青年教育においては青年同士の啓発、つまり青年のリーダーから受ける教育の割合が20%、教師による教育は約30%、という数字があげられました。
 池田 そこで、家庭のもつ教育力というものが、なぜ重要なのか、もう一歩踏み込んで考察してみたいと思います。
 仏教の世界観の一つに“縁起”がありますが、互いに“因”となり“縁”となりながら“生起”している世界(リアリティー)が、もっとも凝結しているのが家庭にほかなりません。
 “縁起”の世界は、生きとし生けるものはもとより、山川草木に到るまで“因”となり“縁”となって無限に連なっていくわけですから、「関係」の無限性あるいは普遍性を、その特徴とします。仏教がしばしば、人類愛をも超えた宇宙的ヒューマニズムを体現しているとされるゆえんです。
 サドーヴニチィ 以前にも話されていた、モスクワ大学における池田博士の講演(「人間――大いなるコスモス」)の論点ですね。
 池田 ええ。それと同時に、“縁起”の世界は、「宿命」の有限性、個別性という側面をもつことを強調しておきたいと思います。日本人に生まれ、ロシア人に生まれるということも、男性に生まれ、女性に生まれるということも宿命です。有限性、個別性の世界です。そして、その宿命性をもっとも濃密に体現しているのが、家庭ではないでしょうか。なぜなら、どのような家庭に生を受けるかは自分では分からない、つまり誰も親を選ぶことはできないからです。家庭というコミュニティーを形成する決定的なところに、自分の意志や努力ではどうしようもない、宿命というファクターが介在してくるのです。
 そして、「関係」の無限性、普遍性は、「宿命」の有限性と表裏一体をなしており、さらにいえば、後者(有限性)を通してしか、前者(無限性、普遍性)の人類的、宇宙的ヒューマニズムもリアリティーももたないというのが、「縁起」観です。
 サドーヴニチィ 宇宙的ヒューマニズムを最も身近なものに具現化するというアプローチは、たしかに時代を先取りしているかもしれません。
 池田 話が抽象的になりましたが、隣人愛の困難をいうイワン・カラマーゾフの逆説は、まさにそのことを意味しています。
 「どうして自分の身近な者を愛することができるのか、僕にはどうしてもそれが理解できないのだよ。身近な者だからこそ、僕の考えでは、愛することができないので、愛することができるのは遠い者に限ると思うんだ」(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』小沼文彦訳、筑摩書房)と。
 したがって、血縁という宿命的な絆で結ばれた、ある意味では逃れようのない、家庭という場での幼少時の人格形成が、とりわけ重要になってくると思います。そこで良き“原型”が形作られてこそ、長じて心広々とした、円満にして健全なる人格形成も可能となるでしょう。トインビー博士は、私との対談で、人格の「決定的な形成」がなされるのは5歳までで、なかでも、その時期の母親の影響の大切さを力説しておられました。
 この家庭の教育力が、今、危機に瀕しているといわれますが、総長のお考えをお聞かせ下さい。
 サドーヴニチィ 家庭の教育力は、両親がいかに人間として成長しつづけているかに象徴されるのではないでしょうか。家庭教育というと、子どもを親が教育すると考えるのが普通です。それはそうなのですが、私は、子どもが親から影響を受けるだけでなく、むしろ、親自身が子どもを育てることを通じて成長していく場合に、家族は絆を強め、安定すると思います。
 池田 まさに子どもは親自身の鏡です。
 サドーヴニチィ 子どもが親に与える影響は特別なものです。例えば夫婦喧嘩をしても、子どもがいることで、親として節度を自覚させられ、お互い譲り合って仲直りをする場合は多々あります(笑い)。
 自分の言い分だけに固執せず、家族という最も身近な人のために自制心を涵養することは、とりもなおさず円満で寛容な人格へと成長していくことでもあります。
 池田 大切なポイントと思います。だからこそ、私は、人間が人間と成るために不可欠の、かけがえのない場である家庭というコミュニティーが大切であると思います。とはいえ、かつての大家族制度に帰れといっているのではありません。時代の流れというものがあり、それは不可能でしょう。法律や制度も相対的なものです。時代により、国や民族により多種多様です。
 それでも今のような社会の住人になることが、はたして人間の幸せなのか、一度は問い直してみるべきではないでしょうか。両極化していえば、有り余るほどの物に囲まれながら「学び」からの逃走、「学び」へのシニシズム(冷笑主義)にとりつかれている子どもたちと、勉強したさにアフリカのサバンナを何時間もかけて学校に通い、帰宅してからは貴重な労働力として家事を手伝う子どもたちの目とでは、どちらが生き生きとしているか――私は、グローバリズムが抗しがたい流れであればあるほど、こうした原初の問いを手放してはならないと思います。
13  見直されるべき父親像、男性像
 サドーヴニチィ 教育と家庭を論じる際に一番難しいのは、社会が男性の理論で成り立っていることです。「男性社会」では、妻として、また母としての女性の生き方や家庭の在り方は種々論じられても、男性の責任と生き方を問い直すことは稀です。それはとりもなおさず、男性の価値観をものさしにしているからです。
 池田 家庭の教育力という問題は、グローバリズムの主たる担い手である男性にとって、とりわけ喫緊の課題でしょう。何が真の教育か、家庭の役割は、といった素朴な問いかけです。さらに、これは“猛烈社員”に偏向してきた日本特有のことかもしれませんが、オープンな家庭を単位とした地域のコミュニティー作りも大切です。そして、こうした意識変革、発想の転換は、当然、女性にも歓迎され、共有されてくると思います。
 グローバリズムが進み、家庭のゆらぎや崩壊という、人間が人間であることの根底を掘り崩すような事態が生じていることを見逃してはならないと思うのです。
 サドーヴニチィ 男性たちがどのような家庭像を描いているか、いかなる価値観を持っているか、また過去にはどうであったか、未来においてはいかに変化していくか。そして、その男性の価値観は何によって作られてきたのか。それを吟味する必要があるのではないでしょうか。夫、父親として男性の責任と役割、求められる姿については、これまで取り上げられ、論じられることが無かったように思われます。
 それでも男性は、「一家の主」でした。また今後も当分の間、あるいは未来永遠に「一家の柱」であり続けるだろうと推測されます。
 池田 どうしても男性の意識変革が焦点になりますね。本当に難しい時代です。
 サドーヴニチィ 家庭における男性の役割はもっと論じられるべき重要な問題なのです。このように申し上げるのは、男性の成長と、その家庭への責任を特に強調しておきたいと思うからです。
 男性がいかに在るべきかがこれまで問われないままにされてきたのは、男性は「男に生まれただけで優れた存在だ」という考え方が支配的だったことによると思われます。
 ピタゴラスが「善は、秩序と光と男性を創った。そして悪は、混沌と闇と女性を創った」と言いましたが、それから2500年を経た今も、この身勝手な男性の意識はそこからあまり成長していないといえば言い過ぎでしょうか。
 池田 日本のある霊長類学の権威(河合雅雄・京都大学名誉教授)は、父親の条件として*①*自分の属している集団を防衛すること、*②*集団の生活を維持するための経済活動をすること、*③*子どもの養育にあたること、の3つをあげています。(『サルから人への物語』小学館)
 注目すべきは、第3の子どもの養育、という点です。
 これに関しては、ゴリラやニホンザルのような他の霊長類の父親の方が、人間の父親よりも、よほど熱心であり積極的だというのです。こうした家庭における父親不在の現象は、とくに“職”と“住”が分離しがちであった工業化社会において顕著であった。おっしゃるとおり、父親像、男性像というものが見直される時期に来ていると思います。
 だからこそゲーテは、男性原理が支配的であった近代精神の行きづまりを巨視的に展望するなかで、男性的な自我の比類なき体現者であったファウストが盲目となり破滅していくのに対し、「永遠の女性」(『ゲーテ全集』2、大山定一訳、人文書院)をもって救済の手をさしのべているのでしょう。
 そうした意味もふまえ、私は、21世紀は「女性の世紀」であると訴え続けています。

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