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日蓮大聖人・池田大作

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伝統の任用試験 世界最高の哲学を学ぶ喜び

2003.8.1 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

前後
1  「学ばずは卑し」とは、これまで幾度も綴らせていただいた言葉である。
 かつて、ある日本の高名な裁判長が語った教訓に感銘し、私なりに自戒の言葉としてきたものだ。それは、私の胸に突き刺さり、今でも離れることはない。
 ともあれ、学会伝統たる教学部の「任用試験」が、来る九月七日に日本全国で実施される。
 二十一世紀に入って二回目の任用試験であり、ここ数年に入会されたニューメンバーの受験者も多い。また、学生部、高等部の若き英才の諸君も少なくない。
 なかには、今になって試験を受けるなんて思ってもみなかったという、ご高齢の方もおられるだろう。試験は苦手だと、及び腰の人もいらっしゃるかもしれない。
 しかし、仏法を学ぼうという求道心そのものが、勝利の信行であるといってよい。全員が「幸福と平和の博士」であり、「人間主義の哲学博士」である。
 私も、青年時代より、昼夜分かたぬ激闘のなかで、寸暇を惜しんで教学を学んだ。カバンには常に御書や「大白蓮華」を入れ、よく電車のなかでも勉強したものだ。
 「戦いのなかで学ぶ」というのが、私の日課であった。
 同じような同志が数多くいることは、よく知っている。
 日々、一行でもよい、一節でもよい、御書を拝し、日蓮大聖人の烈々たる大精神に触れることが、青春の勝利への活力となったのである。
 先輩の皆様方は、大切な受験者の方々を心から励まし、温かく応援していっていただきたい。
2  振り返れば、第一回の任用試験は、一九五二年(昭和二十七年)十二月に実施されている。
 まさに“五十年の伝統”をもつ学会の任用試験である。
 試験問題は、「南無妙法蓮華経とは何ぞや」という根本命題をはじめ、佐渡御書の「仏法は摂受・折伏時によるべし」を解釈せよといった記述式であった。
 教学の研鑽を通し、「広宣流布の宗教」である日蓮仏法への確信を深め、荒れ狂う社会にあって、破邪顕正の大哲学者に成長してほしいとの願いがみなぎっていた。
 教学の深化は、信心をさらに深め、自分自身の使命の自覚を促し、広宣流布に生き抜く闘魂を燃え上がらせてくれるものだ。
 信心は常に戦いだ。第六天の魔王どもとの戦いであり、日々、臆病や惰性、慢心など、自らを不幸にする己心の魔との戦いだ。
 教学とは、その精神闘争の武器であり、自己錬磨の明鏡である。破折精神なき教学、実践なき教学は、結局、観念だけのことだ。ゆえに口先だけの教学は邪道である。
 邪道というのは、成仏の道にあらずして、堕獄の迷路に陥ることだ。あの愚劣にして反逆者となった元教学部長のごとく、閻魔の呵責に悶え、永遠に嗤われる末路が待つのみだ。
 「行学の二道をはげみ候べし」と仰せの通り、「行」と「学」が両輪として働いてこそ、正しい仏法である。
3  私は、この第一回の任用試験の日に、「助教授」の任命を受けた。そして翌年の聖教新聞の新年号に、「世界最高の哲学を学ぶ喜び」と題し、堂々と論陣を張った。
 ――世の中には、経済学や政治学、社会学、法律学など様々な学問があり、その専門家がいる。しかし、いずれの学問も、人生(生命)を離れては存在し得ない。また、社会現象にせよ、経済現象などにせよ、それらを作り動かし、かつ感じるのは生命である。
 生命を離れて宇宙なく、社会も、国家も、世界もない。ゆえに「生命哲学」こそ個人並びに世界平和の根本となるはずだ。
 その「生命」を説いた最高哲理が、御書全集には明らかにされている。人類の先駆けとして、我々は、この大哲学を学べることは、なんという喜びであろうか――と。
 御書は、末法万年を照らしゆく、万人が生き抜く勝利の経典である。永遠の希望の経典であり、日蓮大聖人の大師子吼でもある。
 「声仏事を為す」と仰せの通り、人類を救済しゆく慈悲と正義の大音声である。
 朗々と御書を拝し、教学を学べば学ぶほど、わが生命に太陽が昇る。生き抜く勇気がわき、「人生」と「社会」を見る眼も磨かれる。
 人生の途上における様々な苦難にも、ただ翻弄されるのではなく、そこに積極的な「何のため」という意義を汲み取り、雄々しく立ち向かっていける。「難を乗り越える信心」にこそ、仏法の真髄があるのだ。
 戸田先生も、私が懸命に綴った論説を一読され、「いい論調だ」と、笑顔でおっしゃってくださった。
4  米ハーバード大学で四十年にわたって総長を務めたエリオット博士は退任後、明治の終わりに来日した時に、「日本の思想界には一大問題がある」と、鋭く指摘した。
 “それは、日本の国民および個人として「正義」を行わせるに有効な宗教はあるのかという大問題だ”(『エリオット博士演説筆記』東京ハァーヴァード倶楽部、参照)と。
 「悪」を排し「正」を行う意志を涵養する宗教は何か。人類に善行を促す新たな動機となる大思想は何か――。
 日本の既成宗教に対して、鋭く急所を突いた問いかけであった。いな、九十年たった架でも、なお重大かつ根本的な問いかけといってよい。
 この問いに自信をもって答えられない宗教・哲学は、自らの無力を告白するようなものであるからだ。しかし、もし博士が、日蓮仏法を正しく知っておられたならば、膝を打って共鳴されたのではあるまいか。
 正義を為すことは、邪悪と戦うことと表裏一体である。非難・迫害などの試練があることは必然なのだ。そのなかで“生命に及ぶ迫害があろうとも、自ら信じる正義は貫き通す”と、不動の信念たりえてこそ、真の哲学の名に値しよう。
 「始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり」――今回、任用試験の教材にもなっている御書には、まさにそうした人間として真髄の生き方が示されていると、私は確信する。
5  近代イタリアの思想家マッツィーニは喝破した。
 「あらゆる革命の根底には宗教または哲学がある」(『人間義務論 他二篇』大類伸訳、岩波文庫)
 まったくその通りだ。だからこそ、時代の変革をめざす者は、いかなる宗教・哲学を基盤にするかを厳格に問わねばならない。
 世の中は、ますます乱世の様相を深めている。日本の知識階層は、民衆のその不安や叫びを、少しなりとも知るべきだ。それを知らん顔しているのは、卑怯であり、真の学者ではない。
 この危険千万な社会であればこそ、いかなる人生の苦難にも屈せず、生き生きと未来を切り開いていく「希望の哲学」「勝利の哲学」が絶対に必要なのだ。
 ドイツの詩人ノバーリスの名前はご存じと思うが、彼はこう言っている。
 「真の哲学の正しい原理は健康を作り出し自由に朗かに且若々しく――力強く賢く且善良にしてくれる原理でなくてはならぬ」(『断章』上、渡辺格司訳、岩波文庫)
 いよいよ、仏法の人間主義の哲学を人生の羅針盤とした新世紀の指導者が、陸続と躍り出ていくべき時代に入った。
 一九五六年(昭和三十一年)、常勝関西の源流となった「大阪の戦い」にあたり、私が真っ先に手を打ち、全力で取り組んだのが「任用試験」であった。
 一人でも多くの同志の方々が、「信心はすごい」「仏法は偉大だ」という確信をつかみ、信仰の勇者として成長していかなければ、広宣流布はできないからだ。
 今また、教学研鑽の喜びをもって、同志を励まそう! 皆で、新しき平和と哲学の闘士を育成しよう!
 そして、共々に幸福のために戦おう!
 学会は哲学で勝つ。慈悲と哲理の人材で勝つのだ!

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