Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

創価有縁の天地北陸・新潟 人材の大波が開く 日本海の新世紀

2001.7.26 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

前後
1  インドの詩聖タゴールは、雄々しく歌った
 「見わたすかぎり 怒涛がさか巻いている。
 その怒号の中に 船長の声がきこえる──
 『前進だ、前進だ、新しい岸に向かって。』(「渡り飛ぶ白鳥」片山俊彦訳、『タゴール著作集』1所収、第三文明社)
 日本海の波と風を受けて、二人の創価の大師匠は、この世に誕生した。
 初代会長・牧口常三郎先生は、新潟の荒浜(現在の柏崎市内)の生まれ。今年が生誕百三十周年であられた。
 二代会長・戸田城聖先生は、北陸・石川の塩屋(現在の加賀市内)の誕生である。
 一九八四年(昭和五十九年)の八月下旬から九月の初めにかけて、私は、偉大なる両先生に縁深き、この天地に、連続して走った。
 私は、八月二十三日、二年ぶりに北陸へ飛んだ。
 そして、最初に入ったのは富山であった。石川の金沢で開催される、第一回「北陸平和文化祭」への出席が今回のメーン行事となるが、その前に、なんとしても富山に来たかった。
 前年の秋に行われた「富山平和文化祭」には、都合で出席できなかった。私は、その分も取り戻そうと、固く心に期して、富山文化会館に向かったのである。
 移動の車中、北陸長に、北陸青年部の頼もしき成長ぶりを聞いた。
 さらに、翌二十四日は、文化祭の本番に向けて、皆の体調を整えるため、練習を休みにしていることを知った。
 当初、その日は、利賀村の富山研修道場を初訪問する予定が組まれていた。しかし、私は、研修道場の訪問は一日遅らせ、石川・富山の青年部の代表との勤行会をしようと提案したのである。
 この八月二十四日は、私が戸田先生を師と仰ぎ、広宣流布の大道に突入していってより、第三十七回の入信記念日でもあった
 常に、そして何処にいても、わが師の決然たる面影を胸に浮かべ走る私の生命は、絶えず躍動し、希望に燃えて前進していた。
2  急な呼びかけであったが、翌日、優秀な三百人の男女青年部の代表たちが、颯爽として、我らの牙城の富山文化会館に集ってくれた。
 皆、文化祭に向けて奮闘中の青年たちである。出演者も、運営の役員もいた。日焼けした顔が”青春の勲章”のようにまぶしかった。
 恩師は、よく言われた。
 「どんなに辛いこと、苦しいこと、悲しいことがあっても、時がたてば、”なぜ”、あんなものに苦しんだのだろうかと思うものだ」
 私は、この教えを通し、青年たちに指導した。
 ”現在、どれほどの苦難に直面していても、絶対に挫けてはならない。断じて、断じて負けてはならない!”と。
 苦労しながら戦った分だけ偉大な自分を創造できる。
 途中がどんなに苦しく、辛くとも、粘り抜いて、今日を勝て! そして、最後を勝て!
 勝てば、いっさいの労苦は黄金の宝に変わる。
 文化祭もそうだ。広宣流布の多様な活動も、社会改革の正義の闘争もそうだ。
 かのタゴールも、人間が人生から学びうる最大の教訓について、こう述べている。
 それは、「この世には苦しみがあるということではなく、苦しみを活用するかどうかはわれわれ次第であり、苦しみは喜びに変わるということである」(「サーダナ」美田稔訳、『タゴール著作集』8所収、第三文明社)
3  次の日、私は、富山研修道場に立ち寄ったあと、石川に移動した。
 金沢滞の二日目の、八月の二十六日は、「北陸平和文化祭」の当日であった。
 太陽を雲が柔らかくさえぎる、絶妙の天気であった。
 会場の石川県西部緑地公園陸上競技場に着いたのは、開会四十分前である。
 わが宝の青年たちを、そして、北陸の全同志を讃えたい私は、フィールドに飛び出し、何度も両手を広げて振りながら、一周した。
 会場には、石川、富山の両県下から、多くの来賓を招き、出演者も含めると、実に総勢五万人の方々が参集されていた。
 文化祭は、生命の闘争が創る人間性の光彩だ。
 来賓席の私が”静の戦い”とすれば、フィールドで躍動する地元メンバーにとっては”動の戦い”である。
 師弟の共戦の心は、無限の勇気を呼び覚まし、見事な民衆の使命と歓喜の絵巻物の祭典を、皆に感嘆させながら描いていった。
 その二年前(一九八二年)の富山訪問の折、私は、帰り際に、富山県長に言った。
 「私が使った机に色紙が入っているから、あとで、あけて見なさい」
 富山文化会館に残した、その色紙には、北陸の同志を常に見守る思いを込めて、こう認めていた。
 「師弟不二」──。
4  石川から東京に戻った四日後の九月一日、私は、今度は、新潟に向かった。
 翌二日に、第一回「新潟青年平和文化祭」が開催されることになっていた。
 私が新潟の文化会館に到着した晩、県の青年部長、男子部長、女子部長があいさつに来てくれた。
 不眠不休で準備を進めてきたのであろう、疲労の色がにじみ出ていた。
 私は、皆を労いながら、重責を担うリーダーたちであるゆえに、あえて言った。
 「指導者は、どんなことがあっても、疲れた姿を見せては、ならないんだよ」
 ここ一番という時に、大将がくたびれていては、士気が上がるわけがない。
 戸田先生の厳しい訓練を受けきってきた私は、どんなに体調が悪くとも、皆の前で、疲れたそぶりは、微塵も見せないと決めてきた。
 同志を守るための、そして勝利の指揮をとるための幹部であるからだ。
 疲労を残さぬように知恵を働かせることも、大切な責任感である。ゆえに幹部は、まず自らが厳然と祈り、満々と生命力を躍らせることだ!
 晴ればれと率先垂範で戦い、皆の疲れを吹き飛ばし、喜悦の波動を広げていくことが、幹部の使命であることを断じて忘れてはならないだろう。
5  翌日の文化祭は、開始直後に雨まじりの強い風が襲ってきた。
 ちょうど、未来部が演技中であったが、負けずに演技する健気な姿に、会場の熱気は高まっていった。
 幸い、この雨風は、不思議にも十分ほどでやんだ。
 文化祭の圧巻は、男子部の組み体操。その中心は、「スーパー五段円塔」である。
 実は、彼らがめざしてきたのは、最難関の「六段円塔」であった。
 二年前、関西が打ち立てた六段円塔に負けじと、練習を重ねてきたが、万一の危険性を考え、本番では五段円塔に変更になったようである。
 しかし六段円塔を夢見てきたメンバーは、総合リハーサルでは、執念と熱意で六段円塔に挑戦。堂々と永遠に讃嘆されゆく、団結の勝利の大塔を打ち立てたことを、後世のために記しておきたい。
 そして本番では、六段円塔の五段目まで組み、そこに三人が乗るという、「スーパー五段円塔」を披露してくれたのである。
 この日、会場の新潟市陸上競技場は、時折、砂塵を巻き上げ、強い風が吹いた。市内の最大瞬間風速は、一八・六メートルにもなった。
 あの強風の危険があるなかでの力強き颯爽とした青年たちの奮闘は、今もって我々は忘れることができない。
 その風も、立体的な人間大ピラミッドを呼び起こす、壮大な隊列の組み体操の時には収まっていた。
 幾たびとなく不屈の闘魂で挑んできた、五段円塔を中心に、七十四基の三段円塔が遂に林立した。
 その瞬間、パックスタンドの人文字は、私の揮毫による「人材の波」という文字を、大きくまた大きく、美事に描き出してくれた。
 ことに集いし青年たちは、まさに学会の大難の嵐を越えて、湧き起こった若き「人材の大波」であった。
 著名な来賓の方々が「涙が出てたまらなかった」と語りながら帰っていかれた姿は、終生、私たちの心から離れることがないだろう。
 御書には仰せである。
 「火に薪を加える時は盛んに燃え上がる。大風が吹けば求羅という虫は倍増する。(中略)法華経の行者は火と求羅のようであり、薪と風とは大難のようである」(一一一六ページ、通解)
 広宣流布の英雄にとって、大難は、正義の証明だ。
 悪口罵詈が何だ! 陰険な策謀が何だ! 迫害が何だ!
 日本海の荒波で結ばれた、われら創価の団結は、何ものにも、断じて負けない!
 北陸の石川の同志よ!
 富山の同志よ!
 そして、新潟の同志よ!
 よく戦ってくれた。
 よく成長してくれた。
 盤石な勝利の人材の大城を、勝鬨と共に築き上げてくれた。
 日本海の新世紀は、堂々と始まった。私は嬉しい。
 牧口、戸田、両先生も、心から賞讃され、安心しておられるにちがいない。
 私は朝夕に、皆様のご健康を、ひたすら祈るのみだ。

1
1