Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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小林町のわが家 生涯 広布のため 同志のため

2000.5.1 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  五月三日が近づくと、いつもさまざまなことを思い出しながら、妻と語る。
 現在の学会本部をつくる際に、私は、「会長室を、一番小さく、一番質素にしてもらいたい」と、こう言った。
 後世のことを考えれば、自分も戒め、これからの指導者にもわからせて、自覚させていきたいからであった。
 私は、次のような和歌を認め、この会長室に留めた。
  わが運命
    かくもあるかと
      決意せば
    惑うことなし
      恐れることなし
 大きな額は置けないので、小さな小さな額に飾らせてもらった。
2  これまでも何回か紹介したが、私が会長に就任した時に、妻の言ったことが、昨日のように思い出される。
 「今日は、わが家のお葬式だと思っております。
 思う存分、創価学会のため、学会の皆様のために尽くしてください」
 晴れの日大講堂に、二万人の同志が集った、歴史的な五月三日の会長就任式。
 その夜も、わが家は、つつましい食事であった。
 妻は「お祝いのお赤飯でも、と思ったのですけれども、お葬式にお赤飯はおかしいですから」と深い面持ちで、下を向きながら苦笑して言った。
 その時、私が妻に語った言葉の一つは、「子供たちは、一生涯、学会と共に、学会と運命を共にしていくように頼む」であった。
 妻は、「全部、わかっております。それがもっとも正しい人生です」と、明快に言い放った。
 私は、さらに続けた。
 「子供たちには、学会精神の真髄ともいうべき『鉄の意志』『鉄の忍耐』『鉄の勝利塔』を建て抜いていきなさい」
 微笑みながら、妻は頷いた。
 「その通りです。牧口先生、戸田先生のことを、よく教え抜いていきます」
3  会長就任の朝は、大田区小林町(当時)の小さな自宅から、妻の母が呼んできてくれたタクシーで、総会に向かった。
 かつて戸田先生は、アドバイスをしてくださった。
 「大作は、しょっちゅう、日本中を、広宣流布のために駆けずり回っている。
 将来は、世界中に行かなければいけない。留守のことが心配だから、白木の実家から二、三十分の所に居を構えた方がいい」
 この家は、当時、百万円の価格であった。
 そのうち五十万円は、妻の実家の白木家からお借りして、あとの五十万円は、毎月一万円ずつ月賦で払うという条件で、住まわせていただいた。
 それは、本当に簡素な家であった。
 夏は蚊が多くて、蚊取り線香が欠かせなかった。冬はバラック建てのようなので、子供が凍えてミイラになってしまうのではないかと、笑ったりした。
 明るくて、前向きで、和楽の一家であった。
4  会長になってからも、この自宅から蒲田駅までは、いつも自転車で行った。
 そこから国電(当時)を乗り継いで、学会本部のある信濃町まで通ったのである。ホームや電車で、よく学会員の方々にお会いした。
 夜は蒲田駅に着き、駅から、また自転車に乗って帰った。
 ただ、どうしても遅くなることが多いので、自転車置き場の店が閉まる前に、妻が先に行って、自転車を出して待っていてくれた。
 いつも、駅での待ち合わせの時間は、おおよそ決めて連絡をとっていたが、時には、二、三時間も過ぎてしまったことも何回となくあった。
 「待ちくたびれましたよ。約束の時間と、随分、違います」と叱られることもあった。
 そこから、私は自転車を押し、妻は歩きながら、「疲れた、疲れた」と言って、さまざまなことを語り合いながら、帰途についたものである。
 この駅での待ち合わせのために、三人の幼い子供たちを寝かしつけて抜け出してくる″すばしっこさ″は、忍者の霧隠才蔵のようであると笑いながら、帰ったものだった。
 電車がなくなって、タクシーでまっすぐに帰る時には、翌朝に備え、あらかじめ、妻が自転車を取りに行ってくれていた。
5  家に着くと、薪でたいた、丸い小さな湯船に入って、疲れを癒した。
 夜遅くに勤行・唱題すると、その声が、かなり外に響く家であった。近所の人も、学会に大反対で、随分、「うるさい! うるさい!」と、言っていたようだ。
 妻は、班担当員、地区幹事などを務めていた。班や地区のメンバーがよく打ち合わせに見えた。
 近隣の人たちは、何をやっているんだろうと思っていたようだ。子供三人を連れて、最前線で動いていた。今でも、当時のことがあるから、子供を抱えて戦っている方のご苦労がわかると、妻はよく言っている。
 わが家から少し離れたところに、学会員のご夫妻がおられた。
 雨で家の前の道に水があふれた時など心配して、よく様子を見に来てくださった。私たちが、今も感謝の心で忘れることのできない同志である。
 また、近くの駄菓子屋さんのご夫妻も入信された。気さくな方で、よくしてくださった。
 遠くの親戚よりも近くの友人である。
 こうして、少しずつ、わが家の近辺も同志の連携が増えていった。
 その後、道路拡張による区画整理で、わが家が信濃町に引っ越したため、疎遠になってしまったが、皆、ありがたき懐かしい方々ばかりであった。
6  小さな小さな、わが広布の城である会長宅にも、多くの人が来られた。
 著名な方々が、いくら近所で聞いて探しても、あまりにも小さく質素な家なので、見つからなかったこともあったようだ。
 それはそれとして、多くの同志が、日曜日とか、夜遅くに、指導を受けに来られたり、または、「懐かしく寄らせていただいた」と言いながら、それなりの思い出をつくっていかれたようだ。
 私も「只今、臨終」の精神を忘れず、できうる限り、夫婦で明るく、学会の方々をお迎えしたつもりである。
 みな、広宣流布という大目的に走っている友であり、大胆に折伏行をしている友である。
 あらゆる難関を切り開いていく広布の友である。
 みな、創価の旗を高らかに、社会のなかで掲げて、戦い抜いている友である。
 私も妻も、尊き同志を、魂と魂が融け合っていけるように、声高く、語り励ました。
7  切実な悩みをもち、苦しんで、指導を受けたいと言って、午前二時、三時ごろ、また早朝にも、電話が入ってくることもあった。
 四国方面、中国方面から、ある時は、九州や北海道からもあった。眠くて、非常識だなと思ったこともあったが、それは口に出さなかった。
 当時の学会としては、すべての人びとが切迫した悩みを抱えている時代であったからだ。深刻な、社会状況、経済状況、政治状況のなか、みな、苦難に直面していた。
 私は、それを一つ一つ、丁寧に指導していった。真剣勝負の戦いであった。
 しかし、その多くの人びとが、やがて、一年後、五年後、十年後に、「このように勝利しました!」「このように乗り越えました!」という報告をくれるようになっていったのである。
 私たちは、仏法の慈悲というものの一端を、行動で実証していくことができたと、今もって、夫婦の誇りとしている。

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