Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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わが魂の「戸田大学」 師と共に歩んだ黄金の青春

1999.11.26 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  一九四九年(昭和二十四年)――ちょうど五十年前の春、時に、戸田先生は四十九歳、私は二十一歳であった。
 先生は、心血を絞り抜いた遺言のごとく、烈々と叫ばれた。
 「師と運命をともにする弟子たれ!
 師と苦楽をともにする弟子たれ!
 師と目的をともにする弟子たれ!
 師と勝利をともにする弟子たれ!
 師と生死をともにする弟子たれ!」と。
 その時の先生の悲痛な声が、今でも耳朶から離れない。
 創価学会の前途には、やがて、三類の強敵の嵐が吹き荒れんとし、崩壊の危機に向かっていた時であった。
 その場には、先生を中心として、私をはじめ、二、三人の直弟子がいた。
 西神田の木造建ての、懐かしき旧学会本部であった。
2  しかし、残念なことに、現実には、先生が、そして学会が、最悪の窮地に立たされた時、多くの弟子たちは皆、逃げた。
 また、身は逃げなくとも、皆、心が逃げた。
 しかし、私は、断固として、逃げなかった。微塵も動揺しなかった。
 私は、先生と、死を覚悟して戦ってきたから、何も恐れなかった。
 私には、後悔がまったくない。今でも。そして一生涯。
3  ともあれ、私の青春時代の学校は、戸田城聖という「人間学」の天才の個人授業であった。
 政治、経済、法律、漢文、化学、物理学……古今の百般を徹底的に教えていただいた。
 つまり「戸田大学」である。
 先生は、「今日は、何の本を読んできたか?」「今、何の本を読んでいるか?」と、よく聞かれた。
 そして、厳として、
 「それでは、読んだ本の粗筋を言ってみよ」と尋ねられた。
 私は、心から困った。
 また、胸を刺される思いで、苦しい時もあった。
 しどろもどろで、本の粗筋を語った時もあった。
 先生の返事は、いつも簡潔であられた。
 「そうか、わかったよ」
 それだけである。
4  漢文の勉強の時である。
 「唐の有名な詩人は、誰がいるか?」
 「杜甫、李白がおります」
 「ほかには、どうか?」
 「白楽天、王維……」
 「ほかには?」
 先生は、畳みかけるように問われた。
 私は、顔が青くなり、赤くなり、沈黙が続いた。
 「君は詩人じゃないのか?」
 私は、やっとの思いで、
 「王勃という詩人もいたような気がします」
 とお答えした。
 「それでは、その詩人の代表的な詩を知っているか?」
 これには窮した。
 かろうじて、
 「海内知己を存せば 天涯も比隣の若し」(天下に自分のことをよく知る人がいれば、天の果てほど離れていても隣にいるようなものだ)との詩句を申し上げた。
 先生は、にっこりとしてくださった。
5  また、ある日、ある時の漢文の時間に、突然、聞かれた。
 「『誠心を開き、公道を布く』という名句がある。その意味を言いたまえ」
 私は、完全な答えではなかったが、おおよそ、「誠意をば人びとに表現し、そして公明正大な道を広く行き渡らせることである」と答えた記憶がある。
 「だいたい、いいだろう」
 先生は、にこやかに笑われながら、すかさず言われた。
 「出典は、どこだ?」
 「確か、『三国志』だったかと思います」
 先生は、黙って横を向いて、ちょっと頷いただけであった。
6  また、ある日、ある時――。
 「君は詩人だから、ホイットマンは、よく知っていると思うが、ちょっと聞いてみたい」
 「いや、あの……」あとは、言葉が出なかった。
 「ホイットマンについて、少し話してみろ。
 いつの時代の人物であったのか?」
 「ウォルト・ホイットマンは、一八一九年の生まれだったと思います」
 「そうか。どういう詩が有名だね?」
 「『大道の歌』とか、『開拓者たちよ! おお、開拓者たちよ!』でしょうか。
 『″人の自主″をわたしは歌う』といった詩も有名です」
 「それでは、その中から、君が好きな詩を、二、三行でもいいから、詠んでみなさい」
 背中から、涙のように冷や汗が出た。
 私は、「開拓者たちよ!」の詩の一節を暗誦した。
 「……わたしたちはここにぐずぐずしてはいられないのだ、愛する人々よ、わたしたちは進軍しなければならない、わたしたちは危険な矢面に立って耐えきらなければならない」(『詩集 草の葉』富田砕花訳、朝日新聞社)
 じっと聞いていた先生は、鋭いまなざしで言われた。
 「そうだ。何があっても、我々は進軍するのだ! 私は進むぞ。君も進め! 永遠に前へ」
 火を噴くような、厳しき声であった。

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