Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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1 使徒と民草――無限の活力への信頼  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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12  人間総体、人類全体の解放をめざして
 池田 マルティには社会的プロジェクトがなかったとする見方への、あなたの反論に、私も共感します。
 社会的プロジェクトや青写真を過度に明確化することは、大きな危険をはらんでいます。なぜなら、それは、生々流転しゆく「現実」と必ずどこかで適応異常を起こし、そのさい、みずからを「現実」に合わせて矯めようとせず、みずからに合わせて「現実」を強引に裁断しようとするからです。いわゆるユートピア思想やメシアニズム(救世主信仰)の怖さです。
 それが、近代史にどのような爪跡を残してきたかは、あらためて指摘するまでもないでしょう。
 おっしゃるとおり、社会の“深層”である民衆の側に徹して身を置くこと――この根本の一事を、どこまで貫けるかが、あらゆる革命思想の試金石ともいえるでしょう。
 先ほどふれたミシュレが問うたのも、まさにその一点でした。
 マルクス主義革命が、プロレタリア階級(無産者・労働者階級)の独裁と、所有制度の打破をめざしたのに対して、ミシュレの革命観は、人間総体、人類全体の解放を志向するものでした。
 ヴィティエール マルティは、マルクスを評価しつつも、マルクス主義的な革命観の弱点を、よく知っていました。
 池田 一部の階級の勝利も、それが他者を排除する“独裁”であるかぎり、決して人類の解放につながらない。むしろ、新たな抑圧と抗争の火種とならざるをえない。
 ミシュレは、このことを鋭く見通しておりました。
 問題は、民衆が所有関係から疎外されているという経済的状況だけではなく、一部の人間(階級)の特権化と、差別や憎悪を生む社会の構造そのものにあった。
 したがって、ミシュレの構想する革命は、政治、経済に限らず、教育、文化などのあらゆる次元にわたるトータルな革命であり、この根源的な人間自身の「精神革命」であったと私は見ております。彼にとっては、社会主義革命も、その“一部分”“一過程”にすぎなかったのです。
 ミシュレは、学生への講義で「革命は外的な表面上のものであってはなりません。(中略)革命は人間の奥底に行き、魂に働きかけ、意志に到達しなければならないのです」(前掲『学生よ――一八四八年革命前夜の講義録』)と語っています。
 この言葉は、マルティの「独立の問題とは、形式の変化ではなくして精神の変化である」(前掲『キューバ革命思想の基礎』)という命題と、まったく同じ地平に立っているといえましょう。
 彼らのような総体的な民衆革命の構想者にとって、必要以上のプロジェクトや青写真に執着することは、無益であるばかりか、有害ですらあったはずです。

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