Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

1 使徒と民草――無限の活力への信頼  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

前後
11  確かな目だけが民衆の真実を見抜く
 ヴィティエール ここで少し、マルティの革命家としての思想について話を進めることとして、重要な演説の一つである「タンパとキーウェストの式辞」(一八九二年)を取り上げてみたいと思います。
 「民衆は火山のように、見えないところで孜々として営みを続けている。確かな目のみが、その民衆の真実を見抜くだろう。
 ある日、山は火の冠を戴き、真実はマグマのように、あえぎつつも力強く、その勢いはとどめようもなく、噴火が近づくまではみずからの真実に気づかない、この世の温和で能弁な人々を、山の頂点にまで押し上げるのだ。
 深部に息づき、時満ちて頂上へ駆け上る様の、何とすばらしいことか!」
 こうしたイメージ(すでに十分すぎるほど、イメージによって思考してきました)は、イスパノアメリカの解放についてマルティがいだいていたイメージ、すなわち勢いを秘めた、深部で形成される、火山に擬したとらえ方と、ぴったりと重なってきます。その概念において、民衆は土壌というよりも、歴史的深層であり、積年の不正義によって蓄積された神秘の火であり、使徒の“見者”の眼のみが察知することができ、ある日、革命的高揚のなかで抑えきれずに爆発するものです。
 池田 時を得て噴出してくる民衆のすさまじいエネルギーが、眼前に展開されてくるような、絵に描いたようなイメージですね。卓越した詩人の面目が躍如としております。
 日蓮大聖人は「見者の眼」のことを「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」としております。この「時」とは、たんなる平面的に去来する時間の経過ではない。そのとき、民衆が心の奥底で何を望んでいるかを、意識の表層を突き抜けて、あなたのおっしゃる深層次元で見抜いていかねば事は成就しないであろう、との戒めです。
 それにしても、その「時」を見誤り、“マグマ”に押し流されていった指導者の何と多いことでしょうか。
 ヴィティエール ええ。(南米)大陸で、すでに知られていたことですが、(革命という)“大惨事”の不意打ちを受けて旧体制が壊滅してしまうという教訓を、まだまだ骨身にしみていなかったキューバの人々に対して発した、マルティの警告は、“民衆とともに連帯することがもっとも大切である”ということでした。なぜなら、マルティにとって、“民衆”とはたんなる住民でもなく、あらゆる階層の集合体――もとより、彼らを分断させたり対立させたりすることを、マルティは極力回避していましたが――でもなく、まさに“抑圧された人々”だったからです。
 「他の(ラテンアメリカの)あらゆる地域と同じように、私たちの祖国で社会的なるものがすでに政治的なるもののなかに含まれている(社会事象のすべてが政治化する)こと」を認識していたマルティは、だからこそ、シモン・ボリバルの功績に関する社会的、政治的総括を行う一年前、論文「われらのアメリカ」(一八九一年)において、ためらうことなく、こう述べたのです。
 「圧制者の利益と支配慣習に反対する制度を確立するためには、被圧迫者たちの共同戦線を張るべきであった」(前掲『キューバ革命思想の基礎』)
 「もし天才的な人間だったら、心に創造者のような愛情と勇気を持って、そのはちまき(=をつけた庶民)とガウン(=を着たエリート)の調和をはかったことだろう。インディオを解放したことだろう。たくさんの黒人を味方にしたことだろう。自由を求めて蜂起し、勝利した人びとの体に自由をあてがったことだろう」(同前)
 池田 マルティは、「時」を知っていたということですね。
 同じ論文の中で、マルティは、ラテンアメリカ諸国で革命が勝利したのは「救済者の声でときはなたれた大地の精神を持っているため」(同前)であり、「政治は大地の精神を持っておこなうべきであった」(同前)と喝破しております。「大地の精神」という象徴的な言葉の意味するところは、当面の課題を目の前に据えたとき、彼の前に鮮やかな相貌を現してくる“現実(リアリティー)”そのものであったろうと、私は思っております。
 ヴィティエール マルティは、未来のキューバ共和国のための社会的プロジェクトを描くまでにはいたらなかった、といわれています。
 しかし、キューバにはもうすでに存在していなかったインディオの問題はさておき、抑圧者(スペイン人およびキューバ生まれのスペイン人)に“対抗するシステム”を形成しようとした意図は、そのようなプロジェクトに属するものではなかったでしょうか。
 マルティの意図は新しい“植民地システム”――すでにアメリカ合衆国が利用し始めており、ラテンアメリカ諸国を植民地から共和国へと移行させたにもかかわらず、根強く生き続けている新しい“植民地システム”――とは異なり、また、このシステムと一体化している寡頭政治のたんなる交代劇とも、まったく無縁のものだったのです。
 すべての鍵は“深層”の側に、抑圧されている社会勢力の側に――民衆の側に徹して身を置くことにありました。
 それは、現在も同様でしょう。今日、この地球の大半を占めている、飢えて病んでいる“素足の群衆”の側に身を置くことが、鍵なのです。
12  人間総体、人類全体の解放をめざして
 池田 マルティには社会的プロジェクトがなかったとする見方への、あなたの反論に、私も共感します。
 社会的プロジェクトや青写真を過度に明確化することは、大きな危険をはらんでいます。なぜなら、それは、生々流転しゆく「現実」と必ずどこかで適応異常を起こし、そのさい、みずからを「現実」に合わせて矯めようとせず、みずからに合わせて「現実」を強引に裁断しようとするからです。いわゆるユートピア思想やメシアニズム(救世主信仰)の怖さです。
 それが、近代史にどのような爪跡を残してきたかは、あらためて指摘するまでもないでしょう。
 おっしゃるとおり、社会の“深層”である民衆の側に徹して身を置くこと――この根本の一事を、どこまで貫けるかが、あらゆる革命思想の試金石ともいえるでしょう。
 先ほどふれたミシュレが問うたのも、まさにその一点でした。
 マルクス主義革命が、プロレタリア階級(無産者・労働者階級)の独裁と、所有制度の打破をめざしたのに対して、ミシュレの革命観は、人間総体、人類全体の解放を志向するものでした。
 ヴィティエール マルティは、マルクスを評価しつつも、マルクス主義的な革命観の弱点を、よく知っていました。
 池田 一部の階級の勝利も、それが他者を排除する“独裁”であるかぎり、決して人類の解放につながらない。むしろ、新たな抑圧と抗争の火種とならざるをえない。
 ミシュレは、このことを鋭く見通しておりました。
 問題は、民衆が所有関係から疎外されているという経済的状況だけではなく、一部の人間(階級)の特権化と、差別や憎悪を生む社会の構造そのものにあった。
 したがって、ミシュレの構想する革命は、政治、経済に限らず、教育、文化などのあらゆる次元にわたるトータルな革命であり、この根源的な人間自身の「精神革命」であったと私は見ております。彼にとっては、社会主義革命も、その“一部分”“一過程”にすぎなかったのです。
 ミシュレは、学生への講義で「革命は外的な表面上のものであってはなりません。(中略)革命は人間の奥底に行き、魂に働きかけ、意志に到達しなければならないのです」(前掲『学生よ――一八四八年革命前夜の講義録』)と語っています。
 この言葉は、マルティの「独立の問題とは、形式の変化ではなくして精神の変化である」(前掲『キューバ革命思想の基礎』)という命題と、まったく同じ地平に立っているといえましょう。
 彼らのような総体的な民衆革命の構想者にとって、必要以上のプロジェクトや青写真に執着することは、無益であるばかりか、有害ですらあったはずです。

1
11