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日蓮大聖人・池田大作

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「世界市民」の大いなる舞台 ソフト・パワーと民族問題への視点

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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10  世界市民意識を育む「宗教的規範」
 ゴルバチョフ ロシア人が、タタール人やバシキール人、オセト人、その他ロシア国内の少数民族から自治権を奪って彼らを怒らせても、害こそあれ、いったい何の得になるでしょうか。
 ロシア連邦内の民族紛争が日常化するだけです。にもかかわらず、何百年も多民族国家として発展してきたロシアの歴史を五百年逆戻りさせて、単一民族国家にしようという、とんでもない″ユートピア″を呼びかける人がわれわれのなかにいるのです。
 私が始終、この民族主義についての対話を、ロシアという、私がよく知っている土俵に下ろそうとしているのにはわけがあります。今ロシアが取り組んでいる問題は、脱ソビエト時代にあっても、旧ソ連邦の全土におよぶ問題であり、これが二十一世紀まで持ち越されることはもう明らかです。そうすると、二十一世紀の思想、哲学は、否応なくわれわれの経験に対して、なんらかの反応を示さざるをえないのです。
 池田 よくわかります。そういう長いスパンで見なくてはならないでしょう。
 ゴルバチョフ そして、全世界に共通していえることですが、不幸なことに、未来の世代への課題は、たんに人類愛、生きとし生けるものへの愛をつらぬくということだけではすまされません。われわれがかかえている課題ははるかに複雑です。おそらく、二十世紀後半、われわれが影響を受けてきたワンパターン的思考や思想を放棄しなければならないでしよう。
 民族自決の思想は、必ずしも自由と繁栄をもたらしはしません。民族的アイデンティティーの規範を見つけだして、正統的な民族を形成するには、今やむずかしく、ほとんど不可能であるという事実を、おそらく受け入れなければならないでしょう。
 池田 あなたの志向されている方向性に、私は、心から賛同のエールを送りたいと思います。
 あなたのおっしゃる「民族が雑居する帝国の中でつくられるアイデンティティー」が、いささかも″閉鎖性″を意味するものではなく、必然的にグローバリズムの形成へと参画していく″開放性″のものであるからです。そして、その流れを実あらしめるものこそ、世界市民意識であるといえましょう。
 おそらく、プロレタリア国際主義にもとづくイデオロギー教育――民族的アイデンティティーを乗り越えた「ホモ・ソビエチカ(ソ連人)」をつくり出そうとするイデオロギー教育も、それなりのグローバリズムを志向していたのであろうと、私は推察しています。
 とくに優れた教育者であったレーニン夫人クルプスカヤなどが、リーダーシップを発揮していた一九二〇年代前半などは、その傾向が強かったのではないでしょうか。教育というソフトな手段のみで、「ホモ・ソビエチカ」の育成が可能であるというような、いわば楽観的な教育観が信奉されていました。残念ながら、それは長つづきせず、イデオロギー教育は、権力というハード・パワーを背景にした″外発的″というよりも、″外圧的″な色彩を強めていってしまいました。それが近代啓蒙主義の一種グロテスクな帰結であることは、先に論及したとおりです。
 そうした″外発的″″外圧的″な教育の効果が、いっこうにはかばかしくなく、浅薄なものでしかなかったことを、イデオロギーの外圧が取り払われた現在、ほろ苦い思いとともに振り返っている人もいるのではないでしょうか。
 ジバゴが「腕ずくで歓心は買えぬ」(ロシアのことわざ)と吐き捨てたように(B・パステルナーク『ドクトル・ジパゴ』江川卓訳、新潮文庫。参昭)、大切なことは″内発性″であり、″内発的″な合意と納得であるからです。
 とはいえ、それが口で言うほど簡単なものでないことは、私もよく承知しています。その困難は、人類の歴史が赤裸々に証明しているところでもあります。
 そこで、人間のエゴイズムの渦巻くこの社会で、″内発的″な合意と納得によって、世界市民意識、グローバルな秩序形成をめざすうえで、示唆深い一つの言葉を提起してみたいと思います。フランスの古代史家フュステル・ド・クーランジュが『古代都市』の中で述べている一文です。
 「きわめて雑多で気ままで移り気なこれらの人類のあいだに、社会的な関係を確立することは容易ではなかったであろう。彼らに共通の規制をあたえ、命令を発し、服従を承諾させるためには、また、情念を理性に屈服させ、個人の理性を公共の理性に服従させるためには、物質的な力よりもさらにつよく、利害関係よりもさらにとうとく、哲学的理論よりもさらに確実で、因襲そのものよりも不変ななにものかがなければならなかった。それはあらゆる人の心の底に根をおろして、全能な権力をもって支配するものであるべきであった。このなにものかが、すなわち信仰であった」(田辺貞之助訳、自水社)
 ここには、「服従」とか「屈服」といったやや気になる言葉も出てきますが、総じて、宗教の有する秩序形成力、社会規範的側面を、よく言い当てていると思います。
 世界市民教育にあたっては、なんらかの、こうした宗教的規範というものが必要であるというのが、私の結論なのです。

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