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「世界市民」の大いなる舞台 ソフト・パワーと民族問題への視点

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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9  自己を統御できる人こそ真の勝利者
 ゴルバチョフ ここではっきりと申し上げておかなくてはなりません。歴史上の復讐をするという考えは、非常に危険です。
 歴史を逆戻りさせることはできません。逃したチヤンスを取り戻すのは不可能です。われわれにとってとくに重要なのは、ロシアが多民族国家として起こり、存続してきたという事実を受け入れることです。
 さらに、将来、普遍的感情を育て、世界市民としての世界観を育んでいくうえで、異なる民族同士の互いに対する責任感を植えつけていくことが、おそらく重要となるでしょう。
 そこでも、一人一人の地球的意識を形成していくのと同じ過程を踏んでいかなければなりません。
 困っている隣人を助けることもできないで、地球・人類の運命をわが事とすることはできないのです。
 池田 そのとおりです。現実の行動なくしては、何事も成就しません。
 ゴルバチョフ 民族主義というのは、ひょっとして精神的な弱さからくるものではないのか、他者に対する責任を忘れたい、そこから解放されたいという欲求がらくるものではないだろうか――時折、そんな考えにとらわれることがあります。
 池田 民族主義が、しばしば武力紛争という形で暴発を繰り返している今日、それが精神的弱さからくるのではないかとの視点は、ことのほか大切であろうと思います。私は、全面的に賛同します。
 ガンジーの言葉にこうあります。「わたしは、非暴力ははるかに暴力にまさることを、敵を赦すことは敵を罰するより雄々しいことを信じている。宥恕ゆうじょ(=寛大な心で許すこと)は武人を飾る。しかし、赦す側に罰する力があるときにのみ、自己抑制は赦しとなる。無力な者が寛大を装ったところで、それは無意味である。鼠は、猫に八裂きにされるがままになっているとき、猫を赦してはいない」(『わたしの非暴力1』森本達雄訳、みすず書房)
 ガンジーの言う非暴力とは、まごうかたなき精神の強さであり、真正の勇者の頭上にのみ輝くであろう燦然たる勝利の冠です。それは、彼が尊い生涯をかけて証明せんとしてきた、二十世紀の奇跡ともいうべき壮大なる精神の冒険・実験として、後世へ輝かしい範を垂れています。
 二十世紀が、空前の暴力が横行した世紀であることを考えれば考えるほど、民族主義に限らず、暴力は弱さゆえであり、人間性の敗北であるということ、逆に非暴力こそ精神の強さであることを再認識しなければならないでしょう。
 ここで、釈尊にまつわる、一つのエピソードを紹介させていただきます。
 ――当時のインドの強国に、コーサラ国というのがあり、その王をパセーナディといった。王は、若いころから釈尊に帰依し、人生の師と仰いできた。
 そのパセーナディ王が、晩年、釈尊の前でしみじみと述懐をする。
 たとえば、大国の王として裁判の座についているとき、武力・権力を背景にしているにもかかわらず、なかなかその場を静めておくことはできない。
 釈尊の説法の場と比べてみると、なんと相違のあることか、とパセーナディは語ります。
 「しかるに、世尊よ、わたしがあなたの弟子たちのさまを見ていると、まるでちがうのです。あなたが数百の会衆をまえにして法を説かれると、彼らは咳をすることさえもありません。いや、ある時のこと、一人の比丘が咳声しわぶきを発したことがある。すると、他の比丘が彼をひざでつついていった。〈静かに。静かに。声をたててはいけない。いまわれらの師が法を説いておられる〉と。
 世尊よ、それをみてわたしは思った。〈これはまったく稀有のことである。刀杖をもちいることなくして、かくもおおくの会衆が、かくもみごとに調御せられるとは、いったい、どうしたことであろうか〉と。わたしは、このような集会をほかにみたことがない。それゆえに、わたしは、〈世尊こそはまことに正覚者(=正しい仏の悟りを得た人)にまします〉と、わが感銘を表せざるをえないのです」(増谷文雄『この人を見よ=ブッグ・ゴーダマの生涯』講談社)
 ゴルバチョフ なるほど。美しい、心洗われるようなシーンですね。シニシズムの横行するロシアの現状からみれば、夢物語のように思えますが。
 池田 日本も「五十歩百歩」です。すさんでいるという点では、おそらくロシア以上でしょう。
 それはともかく、釈尊は、まさしく「精神界の王者」でした。自己を統御するという最も困難な課題に勝利した人こそ、真の勝利者であり、正覚者である。その自己統御は、何ものにも乱されることなく、また、勝利した精神の強さゆえに、彼の魂は武力や権力などとうていおよびもつかぬ、底知れぬ感化力を放射している。
 彼の行くところ、人々は喜々として集い来り、彼の語るところ、人々は一言たりとも聞きもらすまいと、虚心に耳をそばだてている。粛然たる一会そして二会、三会。満ち足りた感化の波動は、一波から千波、万波と、加速度的に広がっていく。その勢いはだれにも、何ものをもってしても止めることはできない――。
 思えば、今日の世紀末の世界は、このような精神のドラマと、なんと縁遠くなってしまったことでしょうか。
 あなたのおっしゃるとおり、怨念や復讐といった情念をまとった現代の民族紛争とは、そうした精神的な荒野に乱れ咲く、毒々しい徒花といっても過言ではありません。
10  世界市民意識を育む「宗教的規範」
 ゴルバチョフ ロシア人が、タタール人やバシキール人、オセト人、その他ロシア国内の少数民族から自治権を奪って彼らを怒らせても、害こそあれ、いったい何の得になるでしょうか。
 ロシア連邦内の民族紛争が日常化するだけです。にもかかわらず、何百年も多民族国家として発展してきたロシアの歴史を五百年逆戻りさせて、単一民族国家にしようという、とんでもない″ユートピア″を呼びかける人がわれわれのなかにいるのです。
 私が始終、この民族主義についての対話を、ロシアという、私がよく知っている土俵に下ろそうとしているのにはわけがあります。今ロシアが取り組んでいる問題は、脱ソビエト時代にあっても、旧ソ連邦の全土におよぶ問題であり、これが二十一世紀まで持ち越されることはもう明らかです。そうすると、二十一世紀の思想、哲学は、否応なくわれわれの経験に対して、なんらかの反応を示さざるをえないのです。
 池田 よくわかります。そういう長いスパンで見なくてはならないでしょう。
 ゴルバチョフ そして、全世界に共通していえることですが、不幸なことに、未来の世代への課題は、たんに人類愛、生きとし生けるものへの愛をつらぬくということだけではすまされません。われわれがかかえている課題ははるかに複雑です。おそらく、二十世紀後半、われわれが影響を受けてきたワンパターン的思考や思想を放棄しなければならないでしよう。
 民族自決の思想は、必ずしも自由と繁栄をもたらしはしません。民族的アイデンティティーの規範を見つけだして、正統的な民族を形成するには、今やむずかしく、ほとんど不可能であるという事実を、おそらく受け入れなければならないでしょう。
 池田 あなたの志向されている方向性に、私は、心から賛同のエールを送りたいと思います。
 あなたのおっしゃる「民族が雑居する帝国の中でつくられるアイデンティティー」が、いささかも″閉鎖性″を意味するものではなく、必然的にグローバリズムの形成へと参画していく″開放性″のものであるからです。そして、その流れを実あらしめるものこそ、世界市民意識であるといえましょう。
 おそらく、プロレタリア国際主義にもとづくイデオロギー教育――民族的アイデンティティーを乗り越えた「ホモ・ソビエチカ(ソ連人)」をつくり出そうとするイデオロギー教育も、それなりのグローバリズムを志向していたのであろうと、私は推察しています。
 とくに優れた教育者であったレーニン夫人クルプスカヤなどが、リーダーシップを発揮していた一九二〇年代前半などは、その傾向が強かったのではないでしょうか。教育というソフトな手段のみで、「ホモ・ソビエチカ」の育成が可能であるというような、いわば楽観的な教育観が信奉されていました。残念ながら、それは長つづきせず、イデオロギー教育は、権力というハード・パワーを背景にした″外発的″というよりも、″外圧的″な色彩を強めていってしまいました。それが近代啓蒙主義の一種グロテスクな帰結であることは、先に論及したとおりです。
 そうした″外発的″″外圧的″な教育の効果が、いっこうにはかばかしくなく、浅薄なものでしかなかったことを、イデオロギーの外圧が取り払われた現在、ほろ苦い思いとともに振り返っている人もいるのではないでしょうか。
 ジバゴが「腕ずくで歓心は買えぬ」(ロシアのことわざ)と吐き捨てたように(B・パステルナーク『ドクトル・ジパゴ』江川卓訳、新潮文庫。参昭)、大切なことは″内発性″であり、″内発的″な合意と納得であるからです。
 とはいえ、それが口で言うほど簡単なものでないことは、私もよく承知しています。その困難は、人類の歴史が赤裸々に証明しているところでもあります。
 そこで、人間のエゴイズムの渦巻くこの社会で、″内発的″な合意と納得によって、世界市民意識、グローバルな秩序形成をめざすうえで、示唆深い一つの言葉を提起してみたいと思います。フランスの古代史家フュステル・ド・クーランジュが『古代都市』の中で述べている一文です。
 「きわめて雑多で気ままで移り気なこれらの人類のあいだに、社会的な関係を確立することは容易ではなかったであろう。彼らに共通の規制をあたえ、命令を発し、服従を承諾させるためには、また、情念を理性に屈服させ、個人の理性を公共の理性に服従させるためには、物質的な力よりもさらにつよく、利害関係よりもさらにとうとく、哲学的理論よりもさらに確実で、因襲そのものよりも不変ななにものかがなければならなかった。それはあらゆる人の心の底に根をおろして、全能な権力をもって支配するものであるべきであった。このなにものかが、すなわち信仰であった」(田辺貞之助訳、自水社)
 ここには、「服従」とか「屈服」といったやや気になる言葉も出てきますが、総じて、宗教の有する秩序形成力、社会規範的側面を、よく言い当てていると思います。
 世界市民教育にあたっては、なんらかの、こうした宗教的規範というものが必要であるというのが、私の結論なのです。

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