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新たなるグローバリズムの時代ヘ  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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11  「開かれた国家」をめざす試み
 ゴルバチョフ 民族の概念についての話から、思わず話題が広がってしまいましたが、興味深い、大切な点だと思います。さてここで、民族についての本題に戻りましょう。
 民族的自覚というものは、たとえ一度もそれについて思索したことがなくとも、だれもが有しています。それは精神面、情緒面の一つの支柱です。人間の性ともいえるでしょうか。
 「人間は何かに支えられて生きるものだ」とロシアではいわれます。それは、第一に家族であり、家系、血のつながりでしょう。そして、祖国の人々がいます。祖国の人たち、その歴史、文化、伝統を拠りどころとしつつ、また、みずからがそうしたものと不可分の存在であると実感することによって、運命の試練に耐え、危機的状況にあって勇気を奮い起こしていく――これはごく正常なことです。
 池田 そのとおりです。たれびとにも共通のことであると思います。
 ゴルバチョフ 人種的、民族的帰属性を感じることは、人間文化の一種の保護機能なのでしょう。この機能はたいへんシンプルです。しかし、それなしでやっていけないのも事実です。
 民族的アイデンティティーは、いざというときに、動物的個人主義を克服する手段となります。民族的自覚のある人間のほうが、責任感をもっているからです。
 二十世紀末の今日において、民族をたんに血のつながりだけで理解しようとするのは、むしろ滑稽といわざるをえません。わが国の最も過激な民族主義者たちでさえ、″純粋な″ロシア・エスノス(民族)を云々することは論外であり、どのロシア人なりウクライナ人を捕まえてきたとしても、ほんの少し皮を剥いでみれば、モルドワ人か、タタール人、ポーランド人、トルコ人、またはフィン人の顔が出てくることを、認めないわけにはいかないのです。ただ、これはわが国に限ったことではなく、世界中どこでも同じでしょう。
 池田 どちらかといえば、単一民族に近いというのが通説の日本人の場合も、同じことがいえます。
 とくに日本人のルーツを七世紀後半、すなわち大陸から律令制度が導入されて、古代国家が一応体裁を整える時代より以前にまで遡ると、朝鮮半島の百済や新羅、高句麗などといった国の人々との交流は、日常的であったといっても過言ではありません。もちろんパスポートなど必要ない(笑い)。とくに百済との交流にあっては、通訳さえ必要なかったと伝えられています。
 どうも、時代が進めば進むほど、古代人のもっていたこうした大らかさが失われ、人間の生き方が窮屈になってきているように思えてなりません。
 とくに、明治時代、欧米列強に伍していく近代国家をつくり上げるため、いわば官製のイデオロギーとして国家神道、皇民化教育が徹底されていった。
 その過程を通じて、日本民族(大和民族)の純粋性などという「虚構」がつくり上げられていったのです。
 しかしながら、日本語などにしても、これだけ標準語教育が広まっている現在さえ、方言で話すと、言葉の通じないところがいくつもあるのが現実です。
 ゴルバチョフ いかなる″純血″がありえましょうか! それではまるで人種差別主義か、さもなければ動物学か何かのようです。
 私個人にとっての「民族」とは、まず第一に、自分をロシア人と名乗り、私たちの母国、国家の命運に責任を感ずるすべての人々の運命共同体を意味します。
 ロシアでは過去・現在・未来にわたって、共通の文化遺産、文化的行事、そして当然、共通の文化的願望をもつという、文化的共通性が民族の根底にあるのです。
 その意味で、私たちロシア人は、ギリシャ人かローマ人に近いのかもしれません。彼らもまた文化的、市民的愛国心をもっていましたから。
 池田 なるほど。文化的共通性が民族の根底にあるとのお考えに賛成です。
 というのも、人間の人間としての生き方、道、軌道――人間が人間であることのまぎれもない″証″こそ文化であるからです。
 ゴルバチョフ これまで民族や民族感情について、種々語り合ってまいりましたが、それによって、「民族主義とは何か」を定義するのが、容易になったように思われます。
 結論的にいえば、「民族主義」とは、本質的には、民族的自覚の異常化であり、民族としての偽りの自信が奇形化したものにすぎません。「民族主義」は、まず初めに、民族的エゴイズムとなって現れます。
 次に、民族の排他的優越性を教え、さらに民族的傲慢となっていきます。かくして「民族主義」は、つねにショービニズムと外国憎悪を生みだしていきます。
 繰り返しになりますが、民族感情は一度として消えたことはなく、またこれからもおそらく消えることはないでしょう。
 今日、その民族感情が、人間の感情と精神面の不可分の構成要素として残っているのはまぎれもない事実であり、なによりも政治の現実なのです。
 池田 まったく同感です。個人におけるのと同様に国家や民族の場合も、基本的には、「開かれた国家」「開かれた民族」でなければならない。
 多少の摩擦や対立が生じても、開かれてさえいれば、話し合いが可能であり、妥協点も見つかるものです。
 「閉ざされた国家」「閉ぎされた民族」であると、ともするとあなたのおっしゃる「国家民族主義」や「帝国主義的拡張主義」におちいりがちです。
 「閉ざされた魂」には、どこか狂信的なものがあり、それゆえに対話が成立しない。ちょっとした摩擦や対立がきっかけで、すぐさま武力対決にまで発展してしまう恐れがつきまとっています。ペレストロイカも、こうした開放されたシステムというか、民主化された「開かれた国家」をめざす試みであった、と私は理解しています。

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