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日蓮大聖人・池田大作

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リーダーシップの栄光と苦悩  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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11  新世紀を開く「武器としての対話」
 池田 グラスノスチの発動以来、数年を出ずして、あの活況を呈していたロシアの言論界が嘘のように沈滞し、すっかり様変わりしてしまったように伝えられますが、そのメンタリテイー(精神性)は、アパシーやシニシズムに通底しているのではないかと、私は懸念しています。
 いうまでもなく、そうしたメンタリテイーは、″左″であれ″右″であれ、低俗で狡猾なアジテータ‐(煽動者)の格好の餌食になってしまうことは、歴史の教えるところです。
 今、われわれに必要とされているのは、ある種の言語感覚でしょう。それは、現今の為政者のなかでは、おそらく最も繊細な感受性の持ち主と思われるチェコの大統領にして優れた劇作家、V・ハベル氏が濃密に体現している言語感覚です。
 いわく「その自由と誠実さによって社会を感動させる言葉と並んで、催眠術をかける、偽りの、熱狂させる、狂暴な、ごまかす、危険な、死をもたらす言葉もあるのです」(『ビロード革命のこころ』千野栄一・飯島周編訳、岩波ブックレット、158)と。
 そして、ハベル氏は「レーニンの言葉は……」「マルクスの言葉は……」「キリストの言葉は……」と問いかけております。
 たとえば「実際にキリストの言葉はどうだったでしょうか? それは救済の歴史の始まりであって、世界の歴史のなかでもっとも強力な文化創造の衝撃の一つだったのか、または十字軍の遠征、異端審問、アメリカ大陸諸文化の絶滅、さいごには白人種の矛盾に満ちた拡張の精神的芽ばえだったのか?」(同前)と。
 こうした問いかけ、その言語感覚こそ、情報の氾濫するなかで受け身に流されず、換言すれば、言葉に使われず言葉を使いこなしていくための必須の要件であると思います。と同時に貴国のグラスノスチの帰趨を決定づける要因になっていくのではないでしょうか。その見通しについては、どうでしょうか。
 ゴルバチョフ 今日、思想的異端に対する引き締めの緩和とグラスノスチ政策が国を自爆させた、という見解が横行しています。社会はまだまだ言論の自由を享受する準備ができていなかったのだ、と。
 私はこの考え方に賛成することはできません。その理由は第一に、そういった考えが、旧体制を懐かじむ人間たちや、初めからペレストロイカを快く思っていなかった現在の体制を支えている人間たちの口から発せられているからです。さらに決定的な点は、ペレストロイカが始まるころのノビエト連邦は、世界のなかで最も教育水準の高かった国だったことです。その水準を情報の真空状態で保つことは、もはや不可能だったといえるでしょう。
 あなたの言われるとおりです。言論の自由はつねに、「善の自由」と「悪の自由」とを同時に秘めています。言論の自由は、「善」と「理性」に働きかけることもできますが、「暴力」を誘発することもできることは明白です。しかし、それがはたして、ロシア民衆は真実を知る権利がまったくないことを意味するでしょうか。ロシア人は永久に幼稚で、情報や知識を自分に役立つように使えるようにはならないといえるでしょうか。
 池田 人間の善性を愛し、人間は互いに信じ合えるものだという大前提から事を始められたあなたにとって、ロシアの民衆が例外であるはずがありません。グラスノスチは、必ずやロシアの社会を益するであろうという、音も今も変わらぬあなたの不動の信念に、私は、双手をあげて賛同します。
 ペレストロイカの初期、ソ連通で知られるアメリカの政治学者ステファン・コーエン教授が、いみじくも「ゴルバチョフは、言葉の力を信ずることから始めた」と述べたように、グラスノスチこそ、ペレストロイカの核心中の核心に位置しているはずです。
 先にふれたように、私は、新世紀開拓のために「武器としての対話」(クレアモント大学での講演)を信条としています。ゆえにあなたへの共感も生じるのです。
 ともあれ、何が本物の言論で、何がまやかしの、悪へと人間を誘う言論であるかを鋭く見破る言語感覚を、心して磨いていかなければなりません。
 真実を知る、それによって歴史の主役になる。民主主義の成長、成熟というものは、結局のところ民衆が強く、賢くなり、何が真実で何が偽りであるかを見極める目を養うことに尽きる。それが″王道″です。

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