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日蓮大聖人・池田大作

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創立七十五周年記念幹部代表者会議 「対話」が人間を結ぶ世界を変える

2005.10.22 スピーチ(2005.8〜)(池田大作全集第99巻)

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2  会員に尽くすのが真のリーダー
 学会のリーダーとして、また、一人の信仰者として大切なことは何か。それは、地道な活動をコツコツと続けていくことだ。
 個人指導でも、拡大の戦いでも、要領を使わずに、一生懸命に取り組んでいくことである。真剣に、誠実に行動する人には、だれもかなわない。「心こそ大切」である。それが仏法の究極なのである。
 ましてや、会員に対して威張るような人間は、リーダーとして失格だ。そういう人を幹部にしてはならない。会員を励まし、会員のために尽くしていく。それが学会のリーダーである。
 これまで信心がおかしくなり、退転していった人間の多くは、まじめに活動する人たちを陰でバカにしていた。学会活動なんて面倒だ。それよりも、自分の好きなように遊びたい。学会には適当について、あとはうまくやればいい――そういう心根であった。
 また、「身はをちねども心をち」と仰せのごとく、姿は退転していなくても、心では退転している。そういう人間もいた。
 誠実に、苦労を避けないで戦ってきた人は、皆、間違いなく幸福になっている。最後は勝っている。学会とともに生きぬけば、絶対に幸福の人生を歩めるのである。
 私は、五十年以上にわたって、多くの人を見てきた。だから、本当によくわかる。
 富があっても、幸福とは限らない。社会的に偉くても、幸福とは限らない。また、どんなに容姿が優れていても、幸福とは限らない。お金や地位や名声は、はかない。やがて消えていってしまう。だからこそ、仏法が必要なのである。永遠に崩れざる「絶対的幸福」の大境涯を築いていく。そのための信心である。学会活動なのである。
3  師ガンジーを陰で支え続けた弟子バジャージ
 このほど、私は、精神の大国インドの「バジャージ財団」から、「ジャムナラル・バジャージ国際賞」の決定通知をいただいた。たいへんな光栄であり、心から感謝申し上げたい。
 (=同賞は、インドの国外で、マハトマ・ガンジーの思想を広く宣揚した人物に贈られる賞。受賞者の発表が同財団によって行われ、二〇〇五年十一月に名誉会長に授与された)
 インドをはじめ、全世界の″非暴力と平和の闘士″であるSGIの同志とともに、つつしんで、お受けしたい。
 国際賞に冠された「ジャムナラル・バジャージ」とは、マハトマ・ガンジーの高弟で、師とともに、インドの独立闘争を戦った人物の名前である。
 このバジャージが、師ガンジーと出会ったのは二十代の半ばである。以後、二十五年以上にわたり、ガンジーの弟子として生きぬき、戦いきった。そのなかで幾たびも弾圧され、投獄された。獄中闘争は、通算五年間におよんでいる。
 マハトマ・ガンジーは述べている。
 「美しい人格の人は、いとも簡単に人に確信を与え、自然に周りの雰囲気を浄化します」
 「他者のために生命を捧げようという人は、日の当たる場所に自分の居場所を確保する時間など、ないものです」(Arun and Sunanda Gandhi, M.K.Ganghi's Wit and Wisdom, Published by M.K.Gnadhi Institute for Nonviolence.)
 「信念があり、信念から生まれる力を持つ者は、他人から軽んじられでも、少しも苦にしません。内的な力だけを信じています。このため、すべての人と謙虚に接して、世論を喚起し、自分の味方にするのです」(『南アフリカでのサッティヤーグラハの歴史』2、田中敏雄訳注、平凡社)
 こうした師の精神を、弟子バジャージは深く体得していた。彼は、華やかな表舞台ではなく、裏方に徹して、師匠であるガンジーに仕え続けたのである。実業家として、師を経済面からも厳然と支えた。その姿は、実業家としても活躍し、牧口先生の活動を陰で支えた戸田先生の姿とも重なってくる。
 パジャージは、師ガンジーこそが、インドが最も必要とし、守らねばならない、最重要の″宝″であると確信していた。彼の心を支配していた唯一の関心事は、「師匠の負担を、いかに軽くできるか」であったといわれる。
 戸田先生に、お仕えした私には、その真情が、痛いほどわかる。
 戦後、戸田先生の事業が破綻して、莫大な負債を抱えた。社員は一人、また一人と去っていく。先生のもとに残ったのは、事実上、私一人であった。
 先の見通しはまったく立たない。本当に、生きるか死ぬかという状況だった。そうしたなかで、私は先生に申し上げた。
 「先生、借金は必ず、私が働いて返します。どうか、ご安心ください」
 私は、すべてをなげうって阿修羅のごとく働いた。先生を支えぬいた。そして、一切の苦境を乗り越え、先生は、晴れて第二代会長に就任されたのである。
 師匠に仕え、師匠を守りぬいた――これは、私の人生における最高の誇りであり、喜びである。
4  師と共に! それが最大の喜び
 バジャージにとっても、最大無上の喜びは、いかなる困難があろうとも、また、いかなる戦野であろうとも、師ガンジーとともに戦えることであった。彼は妻への手紙に書き記している。
 「私は、幸せである。恐れなど、何もない。私にあるのは、ただ一つの願いだけである。それは、師とともに戦うという、この至福の喜びを楽しむことだけである。あまり恐れたり、心配しても、何の得にもならない。それは、人間の可能性を狭めてしまうからである」(B.R.Nanda, In Gandhi's Footsteps: The Life and Times of Jamnalal Bajaj, Oxford University Press.)
 だれが知らなくとも、だれが讃えなくとも、師匠だけは、この弟子の戦いを、すべてわかってくれていた。ガンジーは、この愛弟子バジャージを称賛して、こうつづり残している。
 「私が、新しい計画に取りかかろうとすると、彼はすぐさま、自らその責任を負い、ほとんどの負担を、私から取り除いてくれた。常に、不眠不休で仕えてくれた。私の仕事を助け、私をほっとさせ、私の健康、そして財政まで、面倒をみてくれたのである」(The Collected Works of Mahatma Gandhi, vol.75, The Publications Division of The Ministry of Information and Broadcasting, Goverment of India, Navajivan Trust, Ahmedabad.)
 マハトマ・ガンジーは、良き弟子を持った。師も偉大であった。弟子もまた偉大であった。
 このたび、私がお受けする「ジャムナラル・バジャージ国際賞」は、その師弟の精神が脈打つ、まことに意義深き賞なのである。
 この栄誉を、私は万感の思いを込めて、牧口、戸田両先生に捧げたい。
5  学会の「師弟の精神」を世界が賞讃
 思えば、『創価教育学体系』の緒言に、おいて、牧口先生は、同書の発刊に対する弟子の戸田先生の尽力が、いかに大きかったかを述べておられる。
 創価教育学が誕生したのは、偉大なる弟子の闘争があればこそであった。それは、弟子が師匠を引きずるほどの勢いであったと、牧口先生は記されているのである。
 (「緒言」には、こうつづられている。「戸田域外〈=城聖〉君は多年の親交から最も早い理解者の一人とて、その自由なる立場に於ける経営の時習学館に実験して小成功を収め其の価値を認め確信を得たので、余が苦悶の境遇に同情し其資財を拠って本学説の完成と普及に全力を捧げんと決心し、今では主客転倒、却って余が引摺られる態になったのである」)
 戸田先生は、よく語っておられた。
 「名誉ある弟子をもつことは、師にとって最大の幸福だ」
 創価学会は、「師弟」で勝ってきた。これからも、永遠に「師弟の精神」で勝ちぬいていく。
 世界の知性も、この「師弟の精神」に注目し、大きな賞讃を寄せてくださっている。かつて私がお会いした、アメリカの名門デラウェア大学のローゼル学長は、こう語っておられる。
 「だれしもが、自身の成長や成功の軌跡を振り返った時、それに深く関わった師匠の存在があるものです。私自身、人生の基盤の建設に欠くことのできない師匠の存在があります。
 創価学会も、師匠の存在に最大の価値を置き、その精神を継承しようとされています。そこに発展の深き因があることに、私は心からの共感を覚えます」
 北京大学「池田大作研究会」の賈蕙萱か け い け ん会長も、論じておられた。
 「池田先生の行動の源泉は、すべて、戸田第二代会長に師事されたことから出発されています。つまり、師弟の道に徹しぬいたからこそ、世界に燦たる完壁な事業を達成されたと私は思います」
 世界の識者は、本当によく本質を見てくださっている。深いご理解に心から感謝申し上げたい。
6  トインビー博士との出会いは一通の手紙から始まった
 きょう十月二十二日は、トインビー博士の命日である。(三十年前の一九七五年、八十六歳で逝去)
 私は妻とともに、いつも懇ろに追善させていただいている。本当に懐かしい博士である。
 世界的な名声を博しておられながら、どこまでも謙虚で、誠実な方であった。
 トインビー博士から、真心ともるお手紙をいただいたのは、一九六九年(昭和四十四年)の秋。当時、私は四十一歳。手紙には、″あなたの思想や著作に強い関心を持っており、直接、会って語り合いたい″″われわれ二人で、人類の直面する諸問題について対談をしたい″と、したためられていた。
 私自身、仏法者として、人類の抱える課題をいかに解決していくかを真剣に模索していた時であった。文明と宗教についての深い洞察を発表されていた博士から、お聞きしたいことは、たくさんあった。その意味から、博士の要請に、ぜひ、応えさせていただこうと、対談をお受けすることに決めたのである。
 博士は当時、八十歳。ご高齢で心臓も悪くされていた。そのため、飛行機には乗れない。船では、あまりに長旅になってしまう。そこで、もったいなくも、私を、ロンドンに招待してくださったのである。
 一九七二年の五月、自然が最も華やぐ季節(メイフラワー・タイム)に、ロンドンの閑静な住宅街を訪ねた。赤レンガづくりの七階建ての建物の五階に博士のご自宅がある。
 私と妻を乗せた旧式のエレベーターが、ゆっくりと昇っていき、五階でガッタン、ガッタンと大きな音をたてて止まった。
 エレベーターを降りると、そこに、あの白髪の博士が、ご夫妻で、こぼれんばかりの笑顔を浮かべて待っていてくださった。
 トインビー博士との語らいによって、私の世界の識者との対話は、本格的に幕を開けたといっていい。本当に不思議な出会いの劇であった。
7  生あるかぎり「つねに全力で仕事をしよう」と
 世界的な名著『歴史の研究』の執筆をはじめ、膨大な研究を成し遂げたトインビー博士は、語っておられる。
 「半世紀の間、私は今までやっていた仕事が仕上がったその日に、次の仕事を始めたものであった。一息入れて休むということは絶対にしなかった。そして仕上げたいと切望するこの熱心さは、年をとるにつれて増してきた」
 「常に仕事をしていること、しかも全力を出して仕事をしていること、これが私の良心が義務として私に課したことであった」(『回想録』1、山口光朔・増田英夫訳、社会思想社)
 生あるかぎり、間断なく、油断なく、さあ、きょうも、仕事をしよう! これが、博士の情熱であり、信念であられた。
 博士との対談は、一九七二年から七三年にかけて二年越しで行われ、計四十時間に及んだ。その内容は、対談集『二十一世紀への対話』(本全集第3巻収録)に結実している。
8  博士とのさまざまな思い出が、今も鮮やかによみがえってくる。
 会見の初日、思わぬハプニングが起こった。
 語らいが、生命論など哲学的な話におよぶと、通訳が言葉に詰まってしまって、的確に訳すことができなかったのである。
 どうしたらいい
 ――皆で相談した。窮地に立てば、知恵も出るものだ。イギリスのメンバーにも応援してもらい、訳せなかった部分は、対談を録音したテープを、その日の夜のうちに再生して、日本語に起こし、それを見たうえで、翌日また、対話を続けていくことにした。博士も、なるべくゆっくりと、分かりやすく、言葉を選んで話され、通訳を助けてくださった。
 また、対談も終わりに近づいたある日、博士は、著名な紳士しか入れない会員制のクラブに、私を招待してくださった。(バッキンガム宮殿の近くにある「アセニアム・クラブ」)
 ゆったりとしたソファに座り、コーヒーをすすりながら、博士は、何か盛んに私に話しかけてくれるのだが、二人きりで、通訳はいない。私は、「イエス、イエス」とうなずくばかり。最高の名誉ある場所に連れてきていただいたはずだったのだが。(笑い)
 もっと英語を勉強しておくべきだったと、後悔しても遅い。それでも、身振り手振りで、心は通じ合った。博士ご自身は、お疲れであったにちがいないが、わが子ほども年の差のある私を、最大に大事にしてくださり、感謝にたえなかった。
 日本の『源氏物語』や『万葉集』についても勉強しておられ、話題は尽きることがなかった。
9  安逸は衰亡の因――ローマに滅ぼされたカルタゴの教訓
 博士は、『歴史の研究』の中で、示唆に富んだ史実を挙げている。
 それは、紀元前二一六年のことであった。
 古代世界で、最も偉大な名将の一人と謳われるハンニバルが率いるカルタゴの軍勢は、ローマ軍を包囲し、打ち破った。ローマの歴史的大敗として知られる「カンネの戦い」である。(以下、A・J・トインビー「挑戦と応戦の範囲――不信のカプア」、『歴史の研究』3所収〈『歴史の研究』刊行会〉から引用・参照)
 トインビー博士は古代の歴史書を引いている。
 ――カルタゴにとって宿敵ローマを一挙に攻め滅ぼす絶好の機会を迎えた。ところが、この大事な時に、ハンニバルは、すぐにローマに進撃せず、ひと冬の間、南イタリアの豊かな大都市カプアに陣を敷き、駐屯したのである。
 この間、激しい戦闘を勝ちぬいてきた歴戦の勇者たちも、享楽に溺れ、安逸に過ごした――。
 このカプアでのひと冬が「士気を弛緩させてしまった」と博士は鋭く指摘しておられる。
 結局、ローマを攻めきれず、徐々に形勢の逆転を許し、敗北する。
 一方、その繁栄の歴史において、決して、そうした「致命的な過ちを犯さなかった」と、博士は論じておられる。
 とくに、初代皇帝アウグストゥスの例を挙げ、「快い土地に駐屯させる過ちを犯さなかった」「厳しい環境によって帝国の兵士を鍛えるよう留意した」というのである。
 そのため「ローマ帝国の寿命はおよそ四百年延びた」とトインビー博士は分析されていた。
 ともあれ、試練との戦いを忘れてしまえば、国であれ、団体であれ、個人であれ、衰亡の坂を転落せざるを得ない。
 「戦う心」を烈々と燃え上がらせたところのみが、生きぬき、勝ちぬいていくことができる。これが峻厳なる歴史の鉄則である。
 トインビー博士は一つの結論として論じておられた。
 「安逸は文明にとって有害である」(「挑戦と応戦の範囲――作業計画」、前掲『歴史の研究』3所収)
 「挑戦――応戦――また新たな挑戦というふうに続いてゆくのが生きていることの本質である」(「自己決定の能力の喪失」長谷川松治訳、『歴史の研究』1〈サマヴェル縮冊版〉所収、社会思想社)
 いわんや広宣流布は、永遠に″仏と魔との闘争″である。
 「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と仰せのとおりである。
10  人類を結ぶ対話を世界に広げて
 トインビー博士は、私に遺言のごとく言われた。
 「人類全体を結束させていくために、若いあなたは、このような対話をさらに広げていってください」と。
 そして、対談を終えた後、人を介して、自筆のメモを私に届けてくださった。
 ローマ・クラブの創立者であるアウレリオ・ぺッチェイ博士など鋒々たる世界的な識者の名前が記されていた。そして、″可能であれば、今後は、この人たちと語り合ってほしい″と伝言を託してくださった。
 私は、博士のお心を受け継いで、人類を結ぶ対話を世界に広げていくことを、深く心に期したのである。
 東西冷戦、中ソ対立が激しかった時代にあって、トインビー博士が念願しておられた、中国やソ連(当時)との対話の道も、私、なりに切り開いてきた。
 あの北京の冬の周恩来総理との一期一会の出会い。
 ソ連のコスイギン首相とクレムリンで会見し、「ソ連は中国を攻撃するつもりはない」との言葉を引き出して、中国の首脳に伝えたこともあった。
 アメリカの国務長官を務めたキッシンジャー氏とも、日本と米国で対談した。
 さらに、中米のキューバへ飛んで、カストロ国家評議会議長と膝を交えて語り合い、文化交流の扉を聞いたことも懐かしい。
 この間、使命を同じくする若き優秀な通訳の皆さん方に巡り合い、最大に支えていただいたことを、私は一生涯、忘れることはない。
11  トインビー博士との語らいの席上、博士は朗らかに言われた。
 「やりましょう! 二十一世紀の人類のために、語り継ぎましょう!」
 その声が、今も私の耳朶に響いている。
 私も、いよいよ、これからが″対話の人生″の総仕上げである。さらにまた、いちだんと「対話の旋風」を巻き起こしてまいりたい。
 人類の前途を覆う暗雲を敢然と打ち払い、二十一世紀の地平に、赫々たる「人間主義の太陽」を昇らせゆくために! そのための創価学会である。広宣流布である。
 皆さんも、広々とした大きな心で、勇敢に、朗らかに、私の後に続いてきていただきたい。
 私たちの「一対一の対話」こそが、人間を変え、社会を変え、世界を変え、平和と幸福の社会を築いていく「王道」なのである。皆さん、よろしく頼みます!
12  広布の道をまっすぐに! 不惜身命の心で
 全国で新しい広布のリーダーが、さっそうと立ち上がった。皆さんの時代である。思う存分に走り、語り、わが同志とともに、歓喜と勝利の歴史をつくっていただきたい。
 学会活動ほど楽しいことはない。広布に進む人は、皆、仏の使いである。その不思議なる使命の友と会い、ともに行動する。これほど偉大なことはないのである。
 きょうは婦人部の代表も参加されている。信心のエンジンを全開にして、生き生きと進む姿は美しい。
 婦人部が健在ならば、創価学会は盤石である。
 広布の道をまっすぐに――その決心が光っている。尊いことである。反対に、そういう人が少なくなれば、学会は衰亡してしまう。
 日蓮大聖人は、「不惜身命」の精神を教えられた。この心を失えば、大聖人の仏法ではない。
 ともあれ、今こそ万年の勝利の土台をつくるチャンスである。
 広布の法城である会館もいちだんと整備したい。
 青年部を育て、鍛え、堂々たる人材の城を築いていきたい。
 信心は、夢を実現する力である。心ゆくまで唱題しながら、健康第一で、社会で勝ち、人生で勝ち、晴ればれと、世界一の幸福を勝ち飾っていただきたい。
13  陰の立場で、広布に徹する。同志を支える――その人ありて、学会は世界的になった。
 感謝を込めて、大聖人の御書を拝したい。夫とともに信心に励んだ佐渡の門下、是日尼への御手紙である。
 「先年、佐渡の国から、この甲州の身延まで、あなたの夫の入道殿が来られたので、じつに不思議なことだと思っていたところ、また今年も来られました。そして、莱を摘み、水を汲み、薪を取り、法華経に説かれる須頭檀王すずだんのうが正法を求めて阿私あし仙人に仕えたようにして(大聖人に、お仕えして)、一カ月にもおよんでいるのは、なんと不思議なことでしょうか。筆で書き尽くすことはできません。これは、ひとえに、また夫人であるあなたのご功徳ともなるでしょう。
 また、御本尊を一幅認めて差し上げます。霊山浄土では、必ず、お会いいたしましょう」(御書1335㌻、通解)
 このように、一夫妻の人知れぬ陰の功労と真心は、永遠の経典である「御書」に感動的に留め残されている。それはまた、大仏法の広がりとともに、末法万年尽未来際まで、光り輝いていくにちがいない。
 広宣流布のために尽くす真心と行動は、すべてが「今生人界の思出」と刻まれ、「三世永遠の大福運」と薫っていく。これが妙法の世界なのである。
14  「栄光の大ナポレオン展」――その多大な文化的功績
 待望の「栄光の大ナポレオン展」が、が″世界を語る美術館″をモットーとする八王子市の東京富士美術館で、まもなく開幕する。(=同展は十一月三日から十二月二十三日まで行われ、その後国内各地を巡回した)
 一九九三年の「大ナポレオン展」、一九九九年の「特別ナポレオン展」に続く、ナポレオン・シリーズの集大成である。「文化の光彩と人間のロマン」と掲げられたテーマに沿って、人間ナポレオンの文化的側面に光を当てた内容となっているようだ。
 代表的な展示品としては、ナポレオン家ゆかりのダイヤモンドの宝冠。ナポレオンの后であったジョゼフィーヌの肖像画(多くのジョゼフィーヌの肖像画の中でも、最も美しく気品に満ちた名画として有名)。「ワーテルローの戦い」でナポレオンが使用した「帽子」と「剣」など、三百点以上の貴重な品々が一堂に展覧される。
 ナポレオンというと、「権力」や「武力」などの側面から見られることが多い。しかし、一方で、ナポレオンが多くの文化事業を成し遂げ、後世に巨大な影響を及ぼしたことも、見逃すことはできない。
 たとえば、彼の陣頭指揮で制定された民法典である「ナポレオン法典」は、ヨーロッパをはじめ、世界各国に大きな影響を与えた。二千二百八十一カ条にわたる同法典には、「法の前の平等」をはじめ、近代社会の柱となる考えが記されている。
 ナポレオン法典の制定こそ、彼の最大の功績であるとも言われる。文体は論理的、かつ簡潔で、文豪スタンダールはナポレオン法典を文章の模範と仰いだ。
 エジプト遠征のさい、百数十人の学者を随行させて大規模な学術調査を行ったことも、不滅の足跡として光っている。その多大な成果が「エジプト学」の基礎を確立した。
 また彼は、セーブルの陶磁器やリヨンの絹織物を育成するなど、文化産業を振興。工業製品の開発を競う博覧会を開催し、みずからも熱心に観覧した。
 当時、発明されたばかりの電池の技術を知った彼は、すぐさま電池工場を作らせている。私たちにあまりにもなじみ深い「鉛筆」を普及させたのも、ナポレオンだといわれる。食糧を長期保存するためのが″瓶詰″を考案させたのも彼であった。
 ナポレオンは、教育にも力を尽くし、わずか三年間で四千五百の小学校、七百五十の中学校、四十五の高等中学校がつくられたといわれる。六千人の奨学生を援助する給費生制度も設けられた。
 有名な「バカロレア」(大学入学資格試験)を制定したのもナポレオンである。
 ナポレオンが「レジオン・ドヌール勲章」を制定したことは、よく知られている。これは、今日もフランスで最も栄誉ある勲章である。しかも彼は、この栄誉を軍人だけでなく、全国民を対象とし、幅広く顕彰していった。
 「活動的な生活は常に健康にいい」「中途半端にことを運べば常に失敗する」(『戦争・政治・人間――ナポレオンの言葉』柳澤恭雄訳、河出書房)と語っていたナポレオンである。みずから率先して行動し、全知全能を注ぎ、だれも成し遂げたことのない歴史を築き上げていったのである。
15  今回の「栄光の大ナポレオン展」には、ルーブル宮殿を訪れるナポレオンを描いた絵画も出品されている(オーギュスト・クーデ作「ベルシエとフォンテーヌとともにルーブルの階段を訪問するナポレオン」)。ナポレオンが、ルーブル宮殿の建築家と、美術館創設の構想に思いをめぐらせる光景を描いた名画である。
 私は、富士美術館が落成する前年の一九七二年五月、ルーブル美術館を訪問した。世界最高峰の傑作の数々を見学し、フランス国立美術館局長のシャトラン氏と、美術館のあり方など、さまざまに意見交換したことが懐かしく思い出される。
 ナポレオンは、「文化の都」パリの都市計画に取り組み、道路や運河などを整備していった。また、凱旋門をはじめ、多くの建造物や宮殿を建てていった。そして、そうした都市計画をヨーロッパの主要都市にも拡大し、豊かな文化の彩りを幾重にも広げていったのである。
16  最も尊重すべきは、人間的な思想の拡大・充実
 「一人の人間の可能性」に思いを馳せるとき、ナポレオンへの興味は尽きることがない。
 彼は語っている。
 「不可能なるものは何物もない」「不可能なるものは何処にもない」(同前)
 彼が「不可能」という言葉を嫌ったことは、あまりにも有名である。
 どこまで歴史を創れるか。どこまで歴史を残せるか――ナポレオンが放つ「文化の光彩」は、「人間のロマン」を鮮やかに輝かせてやまない。
 ナポレオンは、「フランス学土院」の一員に選ばれたさいに語った。
 「いずれの国民に対しても、最も尊重すべき、また、最も有用な事業とは、人間的な思想の拡大充実に貢献することであります」(マルテル編『ナポレオン作品集』若井林一訳、読売新聞社)
 また彼は、「不和は何れの場合にも悪い」(前掲『戦争・政治・人間――ナポレオンの言葉』)と述べている。
 私たちは、さらに世界と友情を結び、平和と文化と教育の交流を深めながら、仏法に根ざした「人間的な思想の拡大・充実」を推進してまいりたい。
 「艱難に際して勇気と剛毅によってのみ身を処することが出来る」(同前)――私は、このナポレオンの言葉を、尊き広布に生きる皆さま方に贈りたい。
17  満々たる生命力で「師子奮迅」の前進を
 日蓮大聖人は、「源に水があれば、流れは涸れることはない」(御書900㌻、通解)と仰せである。
 雄大に流れる大河も、その源流には、ほとばしる勢いがあるものだ。
 創価学会のリーダーは、広宣流布の源流の存在である。広布の組織の″心臓部″である。つねに満々たる生命力をたたえ、大闘争への勢いに満ちていなければならない。そうであってこそ、仏の軍勢に、前進の活力をみなぎらせていくことができる。
 人間の心臓は、一日のうちに十万回も拍動するという。そして、一日で約八トンもの血液を、全身に送り続けている。目に見えないところでリーダーが真剣に祈り、智慧をしぼる。そして、心をくだき、迅速な手を打ち続けてこそ、皆が安心し、仏意仏勅の和合僧の威光勢力が増す。広宣流布の大河が、泊々と流れてゆくのである。
 有名な御聖訓には仰せである。
 「師子王は前三後一と申して・ありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時も・いきをひを出す事は・ただをなじき事なり
 この「師子奮迅の力」で、学会は勝ってきた。
 実際のライオンもまた、いざ攻撃となると、すさまじい力を発揮する。その疾走する速さは、時速六〇キロに達する。跳躍すれば、一飛びで十二メートル。狙いを定めて、猛然と飛びかかる。
 また、ライオンの咆哮は、数キロ先にも届くそうだ。まさに師子吼である。
 青年部の諸君は、仏法の正義を守り、広げる師子の存在である。仏敵に対して、師子は決然と吼えなければならない。
 マハトマ・ガンジーは言った。
 「恐れがあるところに宗教はない」(Arun and Sunanda Gandhi, M.K.Gandhi's Wit and Wisdom, Published by M.K.Gandhi Institute for Nonviolence.)
 また彼は、厳格に戒めている。
 「宗教は内的腐敗によってのみ滅ぼされうるのです」(「ハリジャン」一九三三年三月十八日号、森本素世子訳、『不可触民解放の悲願』所収、明石書店)
 仏法の和合僧を破壊する「師子身中の虫」は、決して許してはならない。
 邪悪な輩を恐れおののかせ、正義の同志が奮い立つ「声しをあげなければならないのである。
18  巴金先生との忘れ得ぬ語らい
 去る十月十七日の夜、私が深く敬愛する、現代中国を代表する世界的文豪・巴金ぱきん先生が逝去された。享年百歳であられた。
 私も、これまで、四度にわたって忘れ得ぬ出会いと語らいの歴史を刻ませていただいた。
 (初の出会いは、一九八〇年四月五日、静岡研修道場で。二度目は同年四月二十八日、上海・錦江飯店で。三度目は八四年五月十一日、来日中の都内の宿舎で。そして最後の語らいは、同年六月十日、上海の巴金氏の自宅で)
 人民の友好を深く願われていた巴金先生に思いを馳せながら、すぐに弔電を送り、深く追善させていただいた。
 上海のご自宅にお招きいただいたさいは、辞去する私を、わざわざ先生は、外まで見送りに立ってくださった。お体に障ると思い、途中、何度も「もう、ここまでで結構ですから」と申し上げた。しかし、一歩また一歩と杖をつかれながら、門を越え、石段を降りた道路まで歩みを運んでくださった。
 私が車に乗ってからも、ご家族と一緒に、微笑まれながら、いつまでも手を振ってくださった。あの光景は、今も私の生命の底に焼きついて離れない。
 「文化大革命」の十年間、巴金先生に向けられた嘘や言いがかり、デマによる迫害は、筆舌に尽くしがたいものであった。
 十四巻の『巴金文集』など、すべての作品が「邪書」「大毒草」とされた。「妖怪変化」と呼ばれ、何度も大勢の前で台上に引きずり出され、頭を垂れて罪を認めさせられた。
 三十余年もの長いつき合いだった友人から裏切られ、まったくの嘘八百をでっち上げられたこともあった。家族も糾弾の対象とされた。唯一の心の支えであった夫人は辛労のすえに病に倒れ、「毒草の妻」だからと満足な治療も受けられないまま、亡くなられた――。
 巴金先生との三度目の語らいの折、私は率直にうかがった。
 文化大革命という不幸な嵐の中で、何を強靭な意志に変えて生きぬいてこられたのか――と。
 巴金先生は言われた。
 「『信ずること』。つねに理想を求めていくということです。真理はつねに悪に勝つということを信じています」
 さらに巴金先生は、きっぱりと言われた。
 「いろいろ苦しいことはあったが、そのなかで考えた唯一のことは″戦って、戦って、戦いぬいて生きていく″ということでしたした」
 そのとおりに、先生は戦いぬかれ、そして勝ちぬかれた。
 二年前(二〇〇三年)の十一月、数え年で百歳となられた佳節には、中国政府から、巴金先生に「人民作家」の称号が贈られた。最高の誉れの名称である。
 私は創価の「ペンの闘士」の皆さんに、巴金先生の言葉を贈りたい。
 「自分の力を過小評価してはなりません。われわれの手に握られたぺンは、一つの力を生みだすことができるのです」
 「ぺンを武器にして、真理を顕示し、邪悪を糾弾し、暗黒勢力に打撃をあたえ、正義を主張する力を結集させることができるのです」(「核状況下における文学」、「世界」一九八四年八月号所収、岩波書店)
 これは、東京で開催された世界の作家の代表による国際大会での、巴金先生の講演である。
 ペンを武器に最後の最後まで戦いぬいた巴金先生のごとく、わが創価の「ぺンの闘士」たちよ、正義のために書いて書いて書きまくってくれたまえ! と申し上げたい。
19  法華経の兵法に勝るものなし!
 弘安二年(一二七九年)の十月二十三日、大聖人が、強敵と戦いぬいてきた四条金吾に与えられた御聖訓をともどもに拝したい。別名「法華経兵法事」「剣形書」と呼ばれる有名な御書である。
 「いよいよ強盛に大信力をいだし給へ、我が運命つきて諸天守護なしとうらむる事あるべからず
 「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候
 必死の祈りは、諸天をも動かす。あらゆる障魔を打ち破っていける。「法華経の兵法」に勝るものはないのである。全同志が、ますます厳然と諸天に守護され、ご健康で、ご長寿で、ご多幸であられるように、私はさらにさらに祈ってまいります。
 結びに、敬愛する全同志に和歌を贈りたい。
  創立の
    記念日祝さむ
      天高く
    君よ振れ振れ
      勝利の旗をば
 栄光の創立七十五周年を総仕上げして、全国各地で奮闘されている″創価家族″の皆さまに、くれぐれもよろしく、お伝えください。
 いつも本当にありがとう!
 (東京・新宿区内)

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