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日蓮大聖人・池田大作

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第六十六回本部幹部会、婦人部幹部会、中… 「私は負けない 友のために戦う」

1993.5.26 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

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2  きょうは地球の反対側のアルゼンチンから、国立ローマス・デ・サモーラ大学のクレーク総長、トマ事務総長、フランサ学術局長の三人の先生方が、京都平和講堂に来ておられる。広島の地から、最大の歓迎のメッセージをお送りしたい。
 ローマス・デ・サモーラ大学は、わが創価大学と同じ時期に誕生した。不思議なえにしの大学である。
 私は、この大学から、本年(二月十七日)、「名誉博士」「法学部名誉教授」の両称号を頂戴した。また先日(五月三日)は、「池田大作図書館」をつくっていただいた。大変に光栄であり、総長をはじめ関係者の皆さまに、謹(つつし)んで御礼申し上げたい。
 この若き二十一世紀の大学は、若きクレーク総長のもと、「人権」「環境」の問題を柱として、ラテン・アメリカの希望の未来をリードしている。きょうは、奇しくも、総長に就任されて満一年の記念日である。日本の″憧れの地″京都の皆さま方とともに、心からお祝いしたい。
 総長に「SGI(創価学会インターナショナル)平和文化賞」を贈呈させていただくことは、大変に光栄である。
 九州では六日間、大変、お世話になった。きょうは北九州の代表が、この会場にこられている。
 また、明年は広島で″アジア競技大会″が開催される。国際平和都市・広島のネットワークは、アジアへ、世界へ一段と広がろうとしている。
 そして明後一九九五年は被爆五十周年──。平和への発信を全世界が期待している。
 今、広島、中国は大いなる「希望の天地」として輝こうとしている。山口開拓指導(三十七年前)も、そうした未来を展望しながら戦ったのである。
3  ザンビア理事長″何としても社会に貢献を″
 きょうは、また、アフリカのザンビア共和国から、カラブラ理事長ご夫妻も見えている。遠路はるばるようこそ!
 カラブラ理事長は、ザンビアのSGIの一粒種。四十七歳。博士号(教育学)もとられており、非常に優秀な方である。
 生まれる二カ月前に父親を亡くし母親の手ひとつで育てられたという。貧しい家庭で、中学も途中で退学。働きながら勉強を続けられた。そして高校を終えて、教員養成学校を卒業し、小学校の教員をしながら、ザンビア大学に学ぶ。学費が続かず、中退。しかし、教育への情熱は冷めない。再び「身体障害者訓練学校」へ。盲人教育に取り組まれた。
 一九七四年、ザンビア独立(六四年)以来、初めてザンビア人だけの手で建てられた「ヌードラ盲学校」の初代校長となられた。二十八歳の若さであった。
 そうしたなか、七七年に現夫人から仏法の話を聞き、入会された。翌年、二人は結婚。夫人はザンビアに永住を決意し、夫妻して広宣流布の活動が始まった。二人の弘教は、教員仲間を中心に、だんだん広がっていった。
 八一年、ヌードラ盲学校の校長から、今度は、首都ルサカにある教育省に転勤。それをきっかけとして、ルサカを中心に、ザンビアのSGIは発展を始める。
 八四年には、待望の支部を結成。そして今、一本部三支部の陣容となっている。会館の建設も決定した。
4  カラブラ理事長は現在、ザンビア教育省の上級監査官。また教育省、地域開発社会福祉省のもとにある五つの委員会の委員長、または委員でもある。さらに国立の総合大学であるザンビア大学の講師も務められている。
 メンバーには、優秀な方が多い。大学教授、教員、法律家、国連職員など、皆″社会に貢献していこう″という思いに燃えて活動しておられる。こうした姿から今では、ザンビアのSGIは、同国内で大きな評価を受けておられる。
 ザンビアには、一九八六年十二月、SGI代表団が訪れている。その折、ザンビア大学に英文書籍五百冊を贈呈させていただいた。
 また、私も、一九九〇年、ザンビア共和国の″建国の父″とうたわれるカウンダ大統領と会見した。(十一月十二日、東京で「社会の未来と教育」「アフリカの未来とヒューマニズム」等をめぐり語り合った)
5  さて、このザンビアのベンバル人には、次のような趣旨のことわざが伝えられている。カラブラ理事長もここの出身であられる。
 すなわち「岩石のない川の流れは音もなくゆるやかだが、岩石のある川の流れは音を立てながら勢いよく流れる」と。″水が岩石にぶつかり、音を立てる″ように、″真剣な戦い″は、必ず障魔とぶつかっていく。それでも負けずに進むときに、戦いはさらに勢いを増し、大きな結果が出る。多くの岩とぶつかるたびに、清らかな川がいよいよ勢いを増し、雄々しい流れになっていくように──。
 反対に、戦いが真剣でなければ、障魔は起こらないが、結果も出ない。だらんと、たるみきった、葛藤もなければ進歩も充実もドラマもない人生。目的もなく、さまようような夢遊病者のような人生となろう。それではつまらない。私たちは張りのある″戦う人生″でありたい。
6  「フィリッピンの平和の母」エスコーダ女史
 今回のフィリピン・香港ホンコンの訪問を、全国の同志、とくに婦人部の皆さまの真心の唱題に包まれて、大成功に終えることができた。改めて心から御礼申し上げたい。本当に、ありがとう!
 フィリピンといえば、一九八七年、世界に先駆けて新憲法で″核兵器の放棄″を謳い上げた国である。戸田先生の「原水爆禁止宣言」(一九五七年<昭和三十二年>)から、ちょうど三十年後のことである。
 また、きょうは婦人部幹部会でもある。そこで、世界の「平和の中心地」である、ここ広島で、フィリピンの偉大な「平和の母」の生涯を紹介させていただきたい。
 マニラの青き海を望み、真っ赤な夕焼けに包まれてそびえる、美しき芸術の殿堂「フィリピン文化センター(CCP)」。その理事長として活躍されているのが、ロハス女史である。
 今回、私のために、栄えある「ホアン・ルナ賞」の授賞式(五月十日)を盛大に開催していただき、歓迎してくださった。式典には千人を超すフィリピンのわが同志も、「SGI会長の受賞は、私たちの最大の誇りです」と、胸を張って集ってくださった。
 現在、ロハス理事長は、東南アジア最高峰の舞踊団「バレエ・フィリピンズ」の民音公演に同行され、来日されている。昨日(五月二十五日)は、東京の学会本部を表敬してくださった。大変に立派な方であり、有名な女性である。
7  本日お話ししたいのは、そのロハス理事長の、素晴らしい、お母さんについてである。
 お母さんの名は、エスコーダ夫人。フィリピンで一番高額な千ペソ紙幣の肖像にもなられている。私が、今回、「市の鍵」をいただいたケソン市をはじめ、マニラ首都圏には、夫人の名前を冠した道や通りが、いくつもある。
 ──ちなみにブラジルのクリチバ市では「牧口常三郎広場」「戸田城聖通り」等の命名が行われることになった。弟子として、師匠を宣揚できることほど、うれしいことはない。
 エスコーダ夫人は「女性解放の先駆者」であり、「青少年教育の母」であり、勇気ある「平和の大英雄」である。フィリピンで最大に尊敬されている女性とされる。今世紀初め、フィリピンでも、女性は参政権がなく、職業も制限されるなど、大変、抑圧されていた。
 そのなかで、若き日の夫人は、「まず勉強しよう」「大切なのは勉強だ」と決めた。そして地道な努力を続けた。
 人間は愚かであっては、自分の人生も開けず、人にも尊敬されない。愚かであってはならない。学ばねばならない。やはり「知性」が大事である。その人は、安定し、長続きする。極端な人、感情の人は、何ごとも長続きしない。いわんや信心は、「水のごとく」と日蓮大聖人は仰せである。
 父親が早く亡くなったため、働いて家族を支えながらの勉強であった。だが彼女はくじけなかった。
 「くじけない」ことである。自分が一度決めたことは、何があっても貫き通す。その人が「勝利の人」である。
 なかんずく妙法の信仰は、最高の信念の道である。途中でやめるくらいであれば、初めからやらないほうがよいであろう。くじけず前へ前へ歩み抜いてこそ、「永遠の幸福」はある。
 やがて夫人は、フィリピン大学で社会学の教鞭を執るまでになる。アメリカにも留学する。幸せな結婚をし、二人の子供にも恵まれた。
 しかし夫人は、自分の幸福のみを求める人生コースは選ばなかった。彼女は、幼いころから、「弱い立場の人々を守る心」「思いやりの心」をはぐくんできた。優しい母として、子供を立派に育てながら、社会の中へ、民衆の中へ、勇ましく飛び込んでいったのである。
8  皆の幸福へ、悩み、戦い、勝ちゆくのが菩薩
 「人々のために」戦う。尽くす。ここが偉大である。菩薩道の実践である。
 学会活動にあっても、「ああ、忙しい」、「きょうも、会合か」、「また、あの人は退転しかかっている。いやになっちゃうな」等々、広宣流布ゆえの悩みは尽きないかもしれない。だが、これを愚痴とするのではなく、広布のため、友のために真剣に「悩んでいく」こと自体、菩薩の姿なのである。
 「友のために悩む心」が「菩薩の心」である。「友のために」尽くす行動は、すべてが自身の財産に変わる。
 ゆえに「さあ、きょうも友のもとへ!」と勇んで動くことである。その行動に偉大なる生命の充実がある。境涯が広がる。学会活動をすれば、生命も心も強靭になる。
 ともすれば利己主義に陥りがちな、この社会である。他人を不幸にしてでも自分だけは満足しようという悪人も多い。
 また「自分一人の悩みで精いっぱい」が普通の人生かもしれない。夫婦も「まったく、うちの主人は」、「うちの家内ときたら」と言い合っているうちに一生が終わる。それでは、あまりにもわびしい。
 私たちは、かけがえのない、この人生で、何十人、何百人の友のために行動したかを誇りとしたい。人のために悩み、その幸福を祈り、動くことが、どれほど尊いか。
 自分の行動は、だれが見ていようといまいと、自分自身の倶生神ぐしょうじん(人が生まれるとともに生ずる神で、生まれたときから死ぬまでの一切の行動を天に報告するとされる神)が知っている。
 大聖人が、すべてを御照覧であられる。
9  夫人は、働く婦人のために保育学校をつくったり、貧しい家庭の母親に栄養学を教えて食事を工夫できるようにした。生活に根ざした活動を重ねたのである。観念ではなく、「生活に根ざした活動」が大切である。
 また、赤十字の支部や、全国の婦人会連合会の結成などにも尽力している。
 とりわけフィリピンに、乙女たちのための教育機関──「ガール・スカウト」を創設したことは有名である。この構想は、婦人たちの「お茶会」の席で、夫人が皆に呼びかけたものであった。
 とりとめのない世間話に花が咲く「お茶会」──夫人は勇気をもって、そうした語らいの場をも最大に生かし、みずからの理想を、じっくりと語っていった。そして婦人たちの心をしっかりとつかみ、一歩一歩、夢を実現していったのである。
 命令でもなく策でもない。自分たちの知恵で、熱意で、人々の心をつかみ、心を結びながら、一つ一つの目標を地道に仕上げていく。この「勝利の方程式」──まさに、婦人部の皆さまの姿そのもののように思えてならない。
10  「世界一」の夕日に輝くフィリピン──やがて太平洋戦争が勃発し、この美しき地を日本軍が残虐に蹂躙した。その罪は、あまりにも重い。永遠に忘れてはならない。
 彼女は、夫とともに、愛する祖国の人々を守るため、敢然と戦いを開始した。
 次元は異なるが、宗門という「魂の虐殺者」に対し、わが中国創価学会の友も、勇敢に戦っておられる。見事に勝利しておられる。
 夫人は、戦場を走り回った。傷ついた兵士や、飢えた庶民のもとへ駆け寄り、食べ物や衣服を分け与えた。人々に「希望」を贈っていった。
 子供と離れ離れの母親がいれば、一緒に苦しみ、子供を捜し出すため懸命に動いた。わが身を顧みることなく、足を運べるところなら、どこへでも行った。
 「悩める友のために」動く。友の幸せのためなら、どこへでも行く。どこまでも行く。まさに「菩薩道」の実践である。
 「友のために」祈り、動いた分だけ、「黄金の歴史」が、わが生命に刻まれていく。それが因果の理法である。ゆえに、文句を言う必要もなければ、行動しない人から何かを言われる必要もない。
 また、創価学会を愛し、守ろうと懸命に動く──その福運は計り知れない。「世界の創価学会」は「世界を救う」存在である。学会を守ることは、人類の希望を守ることである。
11  「戦い続ける人」が真の「人間」
 日本軍は、夫人の献身の行動を監視しはじめた。多くの友人が、彼女に忠告した。
 彼女は、逃げようと思えば、安全な場所に身を隠すこともできた。だが、彼女は戦場を離れない。「闘争」から逃げなかった。
 大聖人は、「身はをちねども心をち」と。うわべはどうあれ何かあると心が動く、心が逃げる、それでは本当の「信心」とはいえない。
 やがて日本軍は、卑劣にも、夫人に地位を提供して取り込もうとしてきた。
 人間は弱いものである。多くの場合、金銭や地位に屈してしまう。しかし、夫人は、誘惑をきっぱりと、はねつけた。
 「今、私がしていることは、正しいことだから、やっているのです。私は死を恐れません。フィリピンの兵士たちが援助を必要としている以上、私は命をかけて行動します」と。
 「正しいから、やっている」──正義の人は何も恐れない。正義によって立つ人ほど強い者はない。正義に生き抜くことである。
 「正義」と「邪悪」。「仏」と「魔」。そのどちらにつくか、である。どっちつかずの「中途半端」は、結局、悪に通じてしまう。
 同志として戦ってきた夫もついに捕まり、投獄されてしまう。ひどい虐待を受けたことであろう。それでも夫人は、ひるまない。夫の釈放を求め、政府に訴訟の申し出を行うなど、一歩も引かなかった。
 「戦い続ける人」が真の「人間」である。「戦わない人間」は、その姿自体、人生の敗残者であろう。
12  しかし、とうとう彼女も囚人にされてしまった。度重なる拷問。体は、やせ衰え、傷だらけになった。牢獄が、どんなにひどいところか──。
 かつて、日本で学生運動が盛んなころ、自分たちもやってみたいという学生部員や学園生に私は語った。
 ″やるというなら、やりなさい。そのかわり、いっぺん、牢に入ってごらん。どれほど辛いか。それでもやるというほどの信念をもって言っているのか。私は、牢に入ったことがあるから知っている。本当の信念の闘争というのは、君たちが思っているような簡単なものではない″と。
 指導者として、私は言うべきことは言っておかねばならない。闘争は、やるなら命がけである。なまやさしいものではない。
 エスコーダ夫人は、拷問につぐ拷問で、どんなに傷つけられても、同志を裏切らなかった。何ひとつ、敵に情報を漏らさなかった。
 同志を裏切るなどというのは、人間として、最低の中の最低である。また口の軽い人間は、絶対に信用できない。
 苦渋の日々にあっても、彼女には常に「私は正しいのだ」という明るさがあった。いつも未来のことを語り、希望を捨てなかった。祖国の″最後の勝利″を信じていた。
 また、与えられた食べ物は、必ず同じ牢の友人と分かち合ったという。なかなか、できることではない。普通なら、人の分を奪ってでも生きのびようという極限の環境だったにちがいない。
 しかし彼女の周囲には、永遠に変わらざる「同志」の世界があった。
 「私はいい、あなたが食べなさい」──どこまでも友を思い、同志とともに戦う。人間としての「王者」の姿である。「王女」の姿である。
 この心美しき、気高き女性を、日本軍は死に至らしめた。彼女の夫も殺された。日本軍に殺されたフィリピン人は、百万人を超え二百万人とさえ言われている。何の罪もない人々である。
 この、あまりにも非道な歴史を、私たちは、原爆の悲劇とともに、絶対に風化させてはならない。
13  死を前に、彼女は、このようなメッセージを託した。
 「もし私が倒れ、あなた方が生き残ったならば、どうか祖国の人々に伝えてください。
 フィリピンの女性たちも、真実と自由の残り火を、最後まで燃やし続け、それぞれの使命を果たしましたと」
 崇高な言葉である。人間の真の偉さを、みる思いがする。
 皆さま方も、こう言い切れるような「偉大な人生」を生きていただきたい。
 信心したからには、前に進む以外にない。どうせ前に進むならば、胸を張って堂々と進むほうが楽しい。
 ″おっかなびっくり″ではなく、腰をすえ、腹をすえて人生を生きたほうが得である。敢然と前へ進んでこそ、人生は扉を大きく開ける。
14  エスコーダ夫人は、当時、四十代。短いといえば、短い一生であったかもしれない。しかし、永遠の勝利のドラマを厳然ととどめた。
 子や孫にも、最高の誉れを残した生涯であった。
 彼女の死後、娘のロハス理事長ら二人の子供はアメリカに留学した。その資金は、彼女の献身によって助けられた多くの人々が、感謝の心を込めて出し合ったものという。
 そして今、愛娘のロハス理事長が、母の志を受け継いで、文化の交流を通じて、アジアの平和、世界の平和のために行動されている。
 「平和の母」の燦然たる勝利の姿である。
 どうか、皆さまも、今の信心の鍛えが、広布への一歩一歩が、ご一家を、子々孫々にわたって限りない福運と栄光で包みゆくことを確信していただきたい。
 私たちは、日本の軍国主義と戦った牧口先生、戸田先生の誉れの門下である。
 新たなる平和のスクラムを、ここ広島から、アジアへ、世界へと広げてまいりたい。そして世界が注目する二年後の「被爆五十周年」に、この広島で、偉大な歴史を刻む総会(世界青年平和総会)を開催してまいりましょう!
15  傲慢な聖職者の世界に勇気有る抵抗
 ロハス理事長と、ご一緒に来日された「バレエ・フィリピンズ」は、世界的に注目されているバレエ団である。公演は、六月には広島でも行われる。プログラムの最後を飾るのは「エンカンターダ」(主人公の女神の名前)という舞踊劇。フィリピンの伝統的な雰囲気を表現しながら、さまざまな芸術的要素を取り入れ、迫力あふれる舞台という。
 東京での公演(五月二十五日)でも、各国大使、外務省関係者をはじめ多くの来賓が出席され、圧巻の舞台に盛大な喝采が送られたとうかがった。先日(五月十日)、マニラ(マラカニアン宮殿)でお会いしたラモス大統領も、この「バレエ・フィリピンズ」の公演を称賛されている。
 さて、この舞踊劇の舞台は、傲慢な「聖職者」が支配する冷たい世界。そこに一人の「青年」が現れ、勇気ある抵抗を試みた。ところが、怒り狂った聖職者は、兵士たちと結託し、青年の首をはね、殺してしまう。その戦いによって森林は焼かれ、すべてが破壊される。
 荒廃した世界の中で、ひとり勝ち誇る聖職者。しかし、ドラマは、まだ終わっていなかった。山の女神の悲しみの涙によって大洪水が起こり、聖職者たちを流し去ってしまうのである。
 悪しき者が去ったあとの清らかな大地。民衆が喜々として集い、その歓喜の舞で、舞台は幕を閉じる──。
 非常に含蓄のある作品であり、さまざまな解釈ができるが、この物語は、生命の「善なる力」の勝利を高らかにうたっていると考えられる。また、人間の傲慢がもたらす環境破壊を痛烈に批判した作品ともいわれている。
16  日蓮大聖人は、厳しく、こう仰せである。
 「建長寺・円覚寺の僧共の作法戒文を破る事は大山の頽れたるが如く・威儀の放埒なることは猿に似たり、是を供養して後世を助からんと思ふは・はかなし・はかなし」──建長寺や円覚寺の僧たちが作法(仏事を行う作法)や戒文(出家が守るべき戒律の条文)を破っていることは、大山が崩れたようなものであり、威儀(出家としての振る舞い)のふしだらなことは猿に似ている。この僧らを供養して、後世を助かろうと思うのは、はかないことである。はかないことである──と。
 建長寺も円覚寺も、当時、勢力をもっていた謗法の寺である(禅宗の一派、それぞれ臨済宗建長寺派、円覚寺派の本山)。その僧侶たちの″ふしだらな振る舞い″がどれほどひどかったか。
 それは「猿に似たり」──もはや「人間」のやることではないとの仰せである。大聖人は、堕落の僧侶を、痛烈に、また徹底的に弾呵されている。
 ″腐敗した悪侶には、絶対にだまされてはならない。庶民を苦しめる魔の存在を、決して許してはならない″──これが大聖人の御精神であられた。
 同じ「心」で、私たちは進みましょう!正法のため、民衆のため、日顕宗と徹底的に戦いましょう!
17  広布に生きる大福運は、一家、一族、国土を包む
 建治元年(一二七五年)五月、ある婦人が一枚の「かたびら(帷子)」を大聖人に御供養した。
 「かたびら」とは、裏地のない単衣ひとえで、夏の着物の一種である。
 これに対し、大聖人は、こう、たたえておられる。
 「たとへばはるの野の千里ばかりに・くさのみちて候はんに・すこしの豆ばかりの火を・くさ・ひとつにはなちたれば一時に無量無辺の火となる、此のかたびらも又かくのごとし、ひとつ一領のかたびら・なれども法華経の一切の文字の仏にたてまつるべし」──たとえば、春の野の、千里にもわたって草が生い茂っている所に、豆つぶほどのほんの小さな火を、草一つに放ったならば、その火はたちまちに燃え広がって無量無辺の火となる。(あなたが供養してくださった)この「かたびら」も、そのようなものです。一つの「かたびら」であっても、法華経の一切の文字の仏に供養なさったことになるのです──と。
 ″豆つぶほどの火″であっても、草の野に放たれれば、一時に燃え広がっていく。「道理」である。それと同じように、たった一枚の「かたびら」であっても、「法華経の六万九千三百八十四の文字の仏」に供養したことになる、と仰せなのである。「一枚の衣」に対してさえ、大聖人は最大に称賛されている。
 いわんや学会がどれほどの御供養をささげてきたか。日顕はその学会をたたえ守るどころか、取るだけ取って切り捨てたのである。大聖人の「御心」も知らなければ、「御書」も読めない証拠である。「信心」のかけらもない。大聖人の仏法を、ただ盗み、利用しているだけなのである。この御文一つを拝しても、日顕宗の大聖人への師敵対はあまりにも明らかである。
18  大聖人は、さらに仰せである。
 「この功徳は父母・祖父母・乃至無辺の衆生にも・をよぼしてん、まして・わが・いとをし最愛と・をもふ・をとこは申すに及ばずと、おぼしめすべし、おぼしめすべし」──この功徳は、あなたの父母、祖父母、さらに限りない多くの衆生にも及ぼされていくことでしょう。まして、あなたがいとおしいと思う最愛のご主人に、功徳が及ぶことはいうまでもないと、思っていきなさい。思っていきなさい──。
 これが法華経に供養する大功徳である。皆さまが弘教に励む、広宣流布へと進んでいく──その功徳がどれほどすごいか。父母、祖父母はもちろん、多くの人々にも厳然と及んでいく。それを強く強く確信することである。
 「確信」すれば、わが身はいよいよ無量の功徳に包まれていく。疑ったり、文句をいった分、せっかくの功徳を自分で壊してしまう。
 「心こそ大切」である。私たちは大聖人の仰せ通りの「心」で進みたい。その結果は必ず、この「一生」のうちに現れてくる。
 ともあれ、この御文に照らしても、「広布の大長者」であられる皆さまの福徳が、一家を包み、一族を包み、先祖も子孫も包み、さらに、国土までも包んでいくことは絶対に間違いない。
 妙法の大福徳は、原爆の犠牲者の方々への根本的な追善になっていると信ずる。
 最後に、わが敬愛する全学会員の皆さまのますますの「ご多幸」「ご長寿」「ご活躍」をお祈りし、スピーチを終わります。
 全国の皆さま、遠いところ、また長時間、本当にありがとう!気をつけてお帰りください。

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