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日蓮大聖人・池田大作

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新池御書  (4/6) 建長寺・円覚寺の僧共の作法戒文を破る事は大…
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ぬればあしき心出来し人の為にあしきが如し、仏は法華以前の迦葉・舎利弗・目連等をば是を供養せん者は三悪道に堕つべし、彼が心は犬野干の心には劣れりと説き給いて候なり、彼の四大声聞等は二百五十戒を持つことは金剛の如し・三千の威儀具足する事は十五夜の月の如くなりしかども・法華経を持たざる時は是くの如く仰せられたり、何に況やそれに劣れる今時の者共をや。

建長寺・円覚寺の僧共の作法戒文を破る事は大山の頽れたるが如く・威儀の放埒なることは猿に似たり、是を供養して後世を助からんと思ふは・はかなし・はかなし、守護の善神此の国を捨つる事疑あることなし、昔釈尊の御前にして諸天善神・菩薩・声聞・異口同音に誓をたてさせ給いて若し法華経の御敵の国あらば或は六月に霜霰と成りて国を飢饉せさせんと申し、或は小虫と成りて五穀をはみ失はんと申し、或は旱魃をなさん・或は大水と成りて田園をながさんと申し、或は大風と成りて人民を吹き殺さんと申し、或は悪鬼と成りて・なやまさんと面面に申させ給ふ、今の八幡大菩薩も其の座におはせしなり争か霊山の起請の破るるをおそれ給はざらん、起請を破らせ給はば無間地獄は疑なき者なり恐れ給うべし恐れ給うべし、今までは正く仏の御使出世して此の経を弘めず国主もあながちに御敵にはならせ給はず但いづれも貴しとのみ思ふ計りなり。

今某・仏の御使として此の経を弘むるに依りて上一人より下万民に至るまで皆謗法と成り畢んぬ、今までは此の国の者ども法華経の御敵にはなさじと一子のあひにくの如く捨てかねて・おはせども・霊山の起請のおそろしさに社を焼き払いて天に上らせ給いぬ、さはあれども身命をおしまぬ法華経の行者あれば其の頭には住むべし、天照太神・八幡大菩薩・天に上らせ給はば其の余の諸神争か社に留るべき、縦ひ捨てじと思食すとも霊山のやくそくのままに某呵責し奉らば一日もやはか・おはすべき、譬えば盗人の候に知れぬ時はかしこやここに住み候へども能く案内知りたる者の是こそ盗人とののしり・どめけば・おもはぬ外に栖を去るが如く、某にささへられて社を


ば捨て給ふ、然るに此の国思いの外に悪鬼神の住家となれり哀なり哀なり。

又一代聖教を弘むる人多くおはせども是れ程の大事の法門をば伝教天台もいまだ仰せられず、其も道理なり末法の始の五百年に上行菩薩の出世あつて弘め給ふべき法門なるが故なり、相構へて・いかにしても此の度此の経を能く信じて命終の時・千仏の迎いに預り霊山浄土に走りまいり自受法楽すべし、信心弱くして成仏ののびん時・某をうらみさせ給ふな、譬えば病者に良薬を与ふるに毒を好んでくひぬれば其の病愈えがたき時・我がとがとは思はず還つて医師を恨むるが如くなるべし、此の経の信心と申すは少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ、仏に成り候事は別の様は候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり、如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり、譬えば鳥の卵は始は水なり其の水の中より誰か・なすとも・なけれども觜よ目よと厳り出来て虚空にかけるが如し、我等も無明の卵にして・あさましき身なれども南無妙法蓮華経の唱への母にあたためられ・まいらせて三十二相の觜出でて八十種好の鎧毛生そろひて実相真如の虚空にかけるべし、爰を以て経に云く「一切衆生は無明の卵に処して智慧の口ばしなし、仏母の鳥は分段同居の古栖に返りて無明の卵をたたき破りて・一切衆生の鳥をすだてて法性真如の大虚にとばしむ」と説けり取意。

有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず、有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし、皆此の経の意なり私の言にはあらずされば二の巻には「信を以て入ることを得己が智分に非ず」とて智慧第一の舎利弗も但此の経を受け持ち信心強盛にして仏になれり・己が智慧にて仏にならずと説き給へり、舎利弗だにも智慧にては仏にならず、況や我等衆生少分の法門を心得たりとも信心なくば仏にならんことおぼつかなし、末代の衆生は法門を少分こころえ僧をあなづり法をいるかせにして悪道におつべしと説き給へり、法を


こころえたる・しるしには僧を敬ひ法をあがめ仏を供養すべし、今は仏ましまさず解悟の智識を仏と敬ふべし争か徳分なからんや、後世を願はん者は名利名聞を捨てて何に賤しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし、是れ正く経文なり。

今時の禅宗は大段・仁義礼智信の五常に背けり、有智の高徳をおそれ老いたるを敬ひ幼きを愛するは内外典の法なり、然るを彼の僧家の者を見れば昨日・今日まで田夫野人にして黒白を知らざる者も・かちんの直綴をだにも著つればうち慢じて・天台・真言の有智・高徳の人をあなづり礼をもせず其の上に居らんと思うなり、是れ傍若無人にして畜生に劣れり、爰を以て伝教大師の御釈に云く川獺祭魚のこころざし・林烏父祖の食を通ず・鳩鴿三枝の礼あり行雁連を乱らず・羔羊踞りて乳を飲む・賤き畜生すら礼を知ること是くの如し、何ぞ人倫に於て其の礼なからんやとあそばされたり取意、彼等が法に迷ふ事道理なり、人倫にしてだにも知らず是れ天魔破旬のふるまひにあらずや。

是等の法門を能く能く明らめて一部八巻・廿八品を頭にいただき懈らず行ひ給へ、又某を恋しくおはせん時は日日に日を拝ませ給へ・某は日に一度・天の日に影をうつす者にて候、此の僧によませまひらせて聴聞あるべし、此の僧を解悟の智識と憑み給いてつねに法門御たづね候べし、聞かずんば争か迷闇の雲を払はん足なくして争か千里の道を行かんや、返す返す此の書をつねによませて御聴聞あるべし、事事面の次を期し候間・委細には申し述べず候、穴賢穴賢、

  弘安三年二月 日                  日蓮御判

   新池殿