Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ヨーロッパ代表者会議 修行の「喜び」が「幸福」を生む

1992.6.11 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

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1  ゲーテ「最高の幸福は人格に尽きる」
 一年ぶりのヨーロッパであるが、確実に、一歩、前進し、一歩、安定したと私は思う。皆さまをはじめ各国のメンバーのご努力を心からたたえたい。
 昨日も、オーストリアの友と、ウィーンの市立公園で記念撮影をしたが、生き生きとした、仲の良い″創価家族″の和合の姿に触れて、本当にうれしかった。
 撮影は「美しき青きドナウ」で有名な″ワルツ王″ヨハン・シュトラウス(一八二五年〜九九年)の立像の前で行った。ワルツは、″市民の音楽″である。貴族文化に対して、新しく、下から盛り上がっていった新興の市民層の感情を表現している。私ども、妙法で結ばれた世界市民も、軽快に、そして楽しく──ワルツを踊るような気持ちで、ともどもに広宣流布の旅を勝利してまいりたい。
 ウィーンでは「オーストリア共和国学術・芸術最高勲位栄誉章」を頂戴したが、牧口先生、戸田先生、そして世界の全学会員の皆さまとともに受章したと思っている。心から感謝申し上げたい。
2  ドイツといえばゲーテ。彼がイスラム圏の文化への憧れを込めて書いた「西東詩集」に、こんな詩句がある。ゲーテは、伝統の教会から、まったく自由であった。
   民も奴隷も勝利の主も、
   折にふれ、口をそろえて告白します、
   地上の子の最高の幸福は
   ただ人格に尽きるのだ、と。
  
   自己を失わないなら、
   どのような生を送ってもいい。
   その人が、自己の本領のままにあるなら、
   すべてを失ってもいいのだ、と
  何が起ころうと、自分自身の「人格」「本領」「内なる精神の王国」を確固として築いている人は、すべてを価値に変える根本的な強さと豊かさをもっている。その人こそ幸福者である。
  「心のたから」こそ「根本の宝」なのである。その意味で、法のため、人々のために日夜、労苦をいとわず献身する皆さまは、「最高の幸福」をもつ「人格」の人であられる。
  信心という「心の財」は三世の宝なのである。
3  釈尊「さあ、また福運を積ませてもらおう」
 仏法は「幸福」の追求である。信心は「幸福」になるためにある。仏道修行も、自分自身の「幸福」のためである。釈尊の十大弟子の一人に「天眼てんげん第一」とされた阿那律あなりつがいる。彼は釈尊の説法中、居眠りをしたことを猛省し、以来、眠りを断って修行したあまり、失明してしまった。そのかわりに「心眼」を開いたとされる。
  彼が、ある時、衣のほころびを縫おうとしていた。だが、目が見えないため、針の穴に糸が通らなかった。困った彼はつぶやいた。
  「だれか、わがために、この針に糸を通し、(仏法者を助けるという)福運を積む者はいないであろうか」
  そのとき、だれかが近づいてきて言った。「私が、福運を積ませてもらおう」
  阿那律は、驚いた。まぎれもなく、釈尊の声だったからである。
  「とんでもありません。世尊は、すでに、何の功徳を積む必要もない方であるはずです」
  「いな、阿那律よ、世に私以上に幸福を求める人はないであろう」
  納得できないでいる阿那律に、釈尊は、永遠に追求すべきものがあることを教えた。
  真理の追究も、「もう、これでよい」という終わりはない。人々を救う実践にも、「もう、これでよい」という限度はない。自分を完成させる修行も、「もう、これでよい」ということがない。
  幸福の追求も、また限界はない。「この世のさまざまな力のうち、最も勝れているのは、幸いの力である。これにまさるものは、天界にも人界にもない。仏道も、この幸いの力によって成る」と──。(「増一阿含経」三十一、大正二巻を参照)
4  釈尊の「私ほど、幸福を求めてきた者はいない」という言葉には、重大な意味がある。
  仏法は決して、人生に背を向けたり、現実から逃避したり、悟りすまして幸不幸を超越したような格好をするものではない。いわんや、自分だけは特別といった錯覚は、仏法とは無縁の人間のものである。どこまでも謙虚な「幸福の追求者」として、万人と同じように、民衆とともに、真剣に仏道修行していく。だれよりも、「福運を積む」機会を逃さず、勇み、喜んで行動していく。「もう、これでいい」などとおごらず、「さあ、また福徳を開こう。永遠の幸福の境涯をつくろう」と戦っていく。その永遠の向上、永遠の闘争の決心に、仏法の精神が脈動している。
  「私が、あなたの針に糸を通そう」──釈尊の短い、一言には、くめどもつきぬ深い心が込められている。その振る舞いには、ともに道を修める同志としての人間平等の哲学が、自然のうちに表れている。
 このエピソードからも、うかがえるように、仏法の教団は本来、釈尊を中心とした、いわば「人間教育の集団」であったと考えられる。特別な権威とか階級とか形式とかではなく、みずみずしく、ともに成長していく″人間錬磨の広場″であった、と。
 一次元から言えば、後世、聖職者によって、ゆがめられた教団を、そうした原点の姿に立ち返らせ、人間尊厳の連帯をつくろうとされたのが、日蓮大聖人であられたと拝される。その御精神をまっすぐに受け継いでいるのが、我がSGI(創価学会インタナショナル)である。創価学会が「創価教育学会」として出発したことは決して偶然ではない。
5  人間関係は「鏡」、人への尊敬が自分を荘厳
 日蓮大聖人は「御義口伝(おんぎくでん)」で、「鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」──鏡に向かって礼拝する時、鏡に映った姿もまた自分を礼拝するのである──と仰せである。
  相手の生命の「仏性ぶっしょう」を信じて、心から尊敬し、大切にしていく。そのときに、相手の仏性も、根底的には、こちらを礼拝し返している。広げていえば、自分が誠実そのものの心で人に接していくとき、多くの場合、相手もまた、こちらの人格を尊重するようになっていく。祈りが根本にあれば、なおさらである。反対に、人を軽んじれば、最終的には、自分も軽んじられ、人への憎悪に染まった生命は、自分もまた憎まれる存在となろう。こうした人類の宿命的な悪循環にとどめをさし、人間の「相互尊敬」と「共生」への道を開いていきたい。
 ヨーロッパは人材の城である。人権の先駆の地である。ヨーロッパの勝利が、SGI全体の前進となる。「人間の栄光」を世界に広げている各国の皆さまに、くれぐれも、よろしくお伝えいただきたい

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