Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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婦人部・青年部合同協議会 人で決まる、人を育てよ

1991.9.21 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

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2  きょうは少し雰囲気を変えて、まず日本の古都・京都のお話をしたい。
 京都は、三年後の一九九四年、平安建都――すなわち平安京が建設されてから、千二百年という大きな節を迎える。
 千二百年。決して短い歴史ではない。転変常なき人の世である。栄枯盛衰の波に洗われながら、今なお繁栄していくことは容易ではない。
 学会は六十年。まだ、これからである。そしてわれらが正法を根本に建設しているのは、万年にわたる「民衆勝利の都」「人間文化の城」である。その大いなる戦いの前途も、むろん平坦ではない。
 しかし、確かなる未来に一念を定め、祈り、動いていく時、小賢しい策動も、悪人の野合による迫害も、風の前の塵のようなものである。やがて吹き飛ばされ消えていこう。
 まして現代は、激しい変化の時代である。
 この京都でも、伝統を大切にし、生かしていくことは当然として、いかに新しい栄えの道を開いていくか――この一点に、真剣に英知を結集している。
 どこの世界であれ、伝統の上に安易にアグラをかいているだけでは、時代に取り残されていくばかりである。
 京都では″市民レベルでの国際交流″を重視し、とくに留学生を大切にしていくことが取り組まれているという。
 留学生は、各国の未来の指導者である。
 留学生を大事にすることは、その国の未来を大事にすることである。留学生と友情を結ぶことは、世界に友情を広げることである。その意味でも、わが創価学会の海外交流への期待も、ますます大きいといえよう。
3  「琵琶湖疏水」を開いた青年
 さて、その京都で、今も語り草とされている明治の大事業がある。有名な「琵琶湖疏水」の建設である。(疏水とは運送、給水、濯漑等の目的で、土地を切り開いてつくった水路をいう)
 明治十八年(一八八五年)に着工し、明治二十三年(一八九〇年)に完成。以来、百年の歳月を刻んでいる。
 琵琶湖の水を京都の街に引く――この雄大な構想は、古くは平清盛や豊臣秀吉、徳川家康らも思い描いていたといわれる。しかし、何百年もの間、だれも果たせなかった夢であった。
 この古からの″見果てぬ夢″が、明治になって再浮上した。東京遷都後の当時、政治的中心の意味を失った京都は、人口も減少し衰退の大きな危機に立たされていた。疏水建設は、その復興の突破口として構想されたのである。
 いわば前人未到の大事業。しかし、不可能と思える険難の山を前に、あえて理想を掲げ、苦難の挑戦な開始した先人がいた。立ち上がった青年がいた。彼、田辺朔郎さくお(一八六一年〜一九四四年)は、現在の東京大学工学部の前身にあたる工部大学校に学んだ。その卒業論文で、この「琵琶湖疏水」の計画に取り組んだのである。
 創価大学も本年、いよいよ工学部が開設された。最先端の知識に挑戦し、身につけた俊英の成長が楽しみでならない。
4  「琵琶湖疏水」の構想を本格的に推進したのは、京都府の第三代の北垣国道知事である。知事は、この大事業の成否は″人材で決まる″と考えていた。
 その時、知事の心を動かしたのが、田辺青年であった。若く、無名の一青年。だが、燃えるような情熱と明晰な頭脳をもった、この青年に知事は賭けた。彼は主任技師として工事の責任を託されたのである。弱冠二十一歳のころであった。
 若き双肩にのしかかる、あまりにも重い責任と苦労。しかし、彼は一歩も逃げない。力の限りを尽くして限界を破っていく。とともに、青年らしく″新しき発想″を大胆に発揮する。
 たとえば、着工後しばらくして、彼はアメリカで世界初の水力発電に成功したというニュースをつかむ。
 ″いずれ、水力発電の時代が来る″――彼は、工事中にもかかわらず、あえて渡米し、この先端技術を視察。そして、当初の″水車による水力利用″の計画をパッと切り替え、疏水を活用して日本で最初の″水力発電所″も完成させる。
 進取、大胆、機敏、行動力――青年はかくあれかしと、私は思う。
 こうした懸命な努力、幾多の労苦のすえに、約五年の歳月を費やして、「琵琶湖疏水」は見事に完成した。彼の二十代の全精力を投入しての″魂の仕事″であった。
 何ごとであれ、中途半端は敗北である。死に物狂いになってこそ、歴史を残すことができる。本当の仕事をなすことができる。
 ともあれ、この疏水がどれほど近代の京都を潤し、蘇生させたか――その効果は計り知れない。
5  若くして大事業を遂行した田辺青年。だが、それはただ幸運や才能のみでできたものではない。彼の場合も、学生時代が、実力を蓄え、苦難をものともしない強き自分をつくる″大いなる修業時代″であった。
 工部大学校では、彼は、厳格にして独創性を重んじる外国人教師――つまり″師″につききって、学問を徹底してやりぬいている。
 また、幼くして父を失った彼は、経済的苦労が絶えず、頼るべき親戚も破産。多額の借金を背負いながら学業を続けざるをえなかった。
 しかも不運なことに、右手を機械で打って傷つけてしまう。彼は痛みをこらえながら、不自由な左手で、わが運命を変えた卒業論文を作成したのである。
 何があっても、彼は絶対に負けられなかった。彼の父はかつて幕府の家臣であった。いわば″歴史の敗者″に追いやられた一家である。学びに学び、みずからの本当の実力を磨いていく以外、残酷な社会で勝ちぬいていく道はなかった。
 しかし、この不屈の「負けじ魂」、そして社会への雄飛を深く心に期した執念の勉学こそが、後の大事業において、あますところなく開花し結実したといってよい。
 未来の勝利へ、今、どんな「種子」を植えるか――。そこに、青春の戦いがある。ひよわな「種子」に、豊かな未来の実りはない。鍛えることである。戦うことである。
 当然、時代背景は異なる。しかし、いつの世も、社会は青年の新しきバイタリティー(生命力)と、新しき創造性を要請してやまない。
 私どもはますます青年の育成に全魂をかたむけてまいりたい。″青年を自分以上に偉く、自分以上に立派に育てよう″――そうしたリーダーの一念があるところに、みずみずしい発展の道、栄えの道が開かれていくのである。
 (以上、西川幸治「琵琶湖疏水と田辺朔郎」、『琵琶湖疏水図誌』所収、東洋文化社を参照)
6  民を安心させた関東の名将
 話は湖から山へ、琵琶湖から群馬の榛名へと移る。
 先月、私は群馬の渋川平和会館を訪問させていただいた。渋川の地から望む榛名山の風景は、琵琶湖にまさるとも劣らない。晴れわたる青空、陽光に輝く木々の緑、飛びかう赤とんぼの姿――詩情あふれる天地である。
 戦国の世、その榛名山一帯を代表する名城に箕輪城があった。その城跡は、現在も古のロマンをたたえて残っている。
 箕輪城は、榛名山東南の斜面を流れる白川と井野川に東と西をはさまれた台地(標高二七四メートル)にあり、最大幅四百五十メートル、西北―東南の長さ千三百五十メートル、面積四十七ヘクタールにも及ぶ大きな平山城(平地に臨む丘陵に築かれた城)であった。
 わが国における城の形状は、山頂や山腹などに築いた山城から、戦国時代のすえには、戦法の変化などに応じ、平山城へ、また平地に築く平城へと移っていった。
 この城は、およそ一五〇〇年ごろ、在原業平ありはらのなりひら(平安初期の歌人で六歌仙の一人)の子孫ともいわれている長野尚業ひさなり(一説には業尚なりひさ)によって築かれ、約百年間、戦国の世の戦いの日々を見つめてきた。(築城者については異説もある)
 山の丘陵を利用して築いただけに、周囲の地形も複雑で、戦術的に、また築城の上からみても名城とされている。
7  また、この城は、長野家四代の主が居城としてきたが、なかでも長野業政なりまさは″知勇兼備″の名将として名高い。
 業政が統治した時代は、甲斐(山梨県)の武田、小田原の北条、越後(新潟県)の長尾(後の上杉)の″三強″の大名が、こぞってこの上州(群馬県)の地を奪おうとねらっているころであった。
 しかし、業政は、こうした戦国の世に吹く嵐の真っただ中に身を置きながら、攻め来る敵を悠然と撃破した。
 そればかりか、開墾、濯漑用水の建設など農政に力をそそいで、領民の心を安んじ、経済力を高めていった。
 こうした民を思いやる彼のリーダーシップによって家臣、領民の結束も固まり、国は栄えていったといわれる。
 民衆の心情と生活を離れて、一国の繁栄はありえない。何よりもまず、人々に希望と安心を与えることが指導者の要件である。
 皆が悠々と、安心して前進できる環境をつくる――そのために、人知れず苦心し、戦う。これがリーダーの責務である。
 嵐には敢然と皆の防波堤となり、一方、未来を見すえて、国を富ませ強くする布石を着々と打っていく。それが指導者である。
 表面だけ偉そうな姿を見せ、真剣であるかのように派手に立ち回っているのでは、指導者とはいえない。何より人間として卑しい。
 リーダーが安閑として座していたならば、いったい、だれが皆を守るのか。格好でもない。策でもない。大切なのは、同志を思いやる強靭な一念である。そこに、いくらでも知恵と力がわくはずである。
8  業政の最大の敵――それは戦国の武将のなかでも名将の誉れ高い武田信玄であった。信玄との攻防が最も熾烈を極めた。
 一五五七年、信玄は、信州(長野県)の佐久より上州に侵入。以来、十年間で六回の遠征を行い、一回の遠征に、一万から二万の大軍を繰り出し、一カ月以上滞陣させることがほとんどであったと伝えられる。
 当時、業政は七十歳近い老将。しかし彼は、信玄の大軍を前にして退くことはなかった。みずから陣頭に立ち兵をよくまとめ、そのつど機知に富んだ戦法で奮戦。その結果、彼の存命中は寸土も譲ることがなかった。
 しかし、その業政もついに病死――。そのわずか五年後に、箕輪城は落城し、長野氏の時代は約六十年で終わりを告げる。信玄が箕輪城攻略をめざしてから落城までに、じつに十年を要したことになる。
 その後、城主は二度、三度と変わり、一五九八年、当時の城主・井伊直政が城を高崎に移したために箕輪城は廃城となった。
 ″一人の名将″の存在の大きさ――。箕輪という″名城″も、業政という″名将″がいて、初めて″名城″たりえたことを、この史実は物語っている。
 一国一城の運命は「人」で決まる――これが歴史の示す厳しき教訓である。ゆえに「人」を育てねばならない。ゆえに私は青年部に期待する。
 「創価の城」は難攻不落の「正法の城」であり「民衆の城」である。この城を守り、栄えさせていくのは、諸君の使命であり責任である。
 時の流れもあろうが、箕輪の″名将″の最大の失敗は、立派な後継ぎをつくれなかったことにある。自分のことならどうにでもなるが、これだけは難事中の難事である。
 私も教えるべきことは教えておく。言うべきことは言い、なすべきことは戒完璧になしておく。それに対して、どう行動し、成長するか。解答は諸君の胸中にある。ともあれ、さらに私は、若きリーダーの育成に全力で取り組んでまいりたい。
 (以上、箕輪城については、『上州の城』上毛新聞社、近藤義雄『箕輪城と長野氏』上毛新聞社を参照)
9  悪を対治できない菩薩は悪人と共に地獄
 真の「幸福」は、使命を果たすなかにある。中途半端は、どこまで行っても中途半端な人生となる。
 医師は病苦を救ってこそ医師である。教師は人を立派に育ててこそ教師である。車は走ってこそ車、電灯は輝いてこそ電灯である。仏法者は仏法を弘め、興隆させてこそ仏法者である。
 日蓮大聖人は、菩薩が使命を果たさず、悪と戦わない場合にはどうなるかを、諸御抄で厳しく教えておられる。
 たとえば、天台大師の師である南岳大師の、次のような言葉を引かれている。
 「若し菩薩有りて悪人を将護しょうごして治罰すること能わず、其れをして悪を長ぜしめ善人を悩乱し正法を敗壊せば此の人は実に菩薩に非ず、外には詐侮を現じ常に是の言を作さん、我は忍辱を行ずと、其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん
 ――もし菩薩(大乗仏教の実践者)がいて、悪人をかばって罰することができず、そのことによって悪人の悪を助長し、善人を悩ませ乱れさせ、正法を破壊させれば、この人はじつは菩薩ではない。(この人は)外面はいつわって(人々を)あなどり、つねにこう言うであろう。「私は忍辱(侮辱や迫害を耐えしのぶこと)の修行をしているのだ」と。この人は命が終わって、もろもろの悪人とともに地獄に堕ちるであろう――。
 悪を容認し、打ち砕かなかったら、悪を助長させ、善人を苦しめ、正法を破壊させてしまう。これは悪人と同じ罪になると。「忍耐しているのだ」などという″寛大さの仮面″をいつまでもかぶっていたら、最後は地獄であると仰せである。立つべき時に立ち、叫ぶべき時に叫ばねば成仏はない。
 南岳大師の言葉と同様に、牧口先生は「善いことをしないのは悪いことをするのと同じ」と教えられた。学会の指導は、すべて御書に基づいている一例である。
 また別の御書では、同じ文を引かれたあと、こう仰せである。
 「謗法ほうぼうを責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし
 ――謗法を責めないでいて成仏を願うことは、火の中に水を求め、水の中に火を尋ねるようなものである。はかないことである。はかないことである――。
 悪を容認する者は与同罪(同じ罪をともに受けること。「与」は共に、の意)で、悪とともに「地獄」となり、悪と戦い、破ってこそ「成仏」となる。それが仏法の基本である。
 私どもは「地涌の菩薩」である。その尊貴なる使命を果たしゆく時、どれほどの大福徳と大境涯を開きゆけるか、計り知れない。
 また指導者論としてみれば、「善人を悩乱」させるような″民衆の敵″に対しては、断固たる態度で″民衆を守る″戦いに立たねばならない。厳然と民衆を守ってこそ指導者なのである。
10  「正論の批判」と「感情の悪口」は、まったく違う。しかし多くの場合、その内実も見ず、混同されるようだ。
 また悪人ほど、自分はしょっちゅう主張を変えて、その場その場で善人を悪口するくせに、いざ自分が何か言われると、気が動転して「悪口は良くない」などと言いだす。
 さらに、権威に弱い社会においては、権威よりも正義を重んじる人間は、どうしても迫害にあうことになろう。
 御書に次のような問答が記されている。
 「問うて云わく法師一人此の悪言をはく如何」――問うていうには、なぜ法師(日蓮大聖人)一人だけが、この悪言をはいているのか――と。
 大聖人は、歴史もあり、当時、多くの人々が信仰していた「真言」の邪義を挙げられ、権威ある高僧と仰がれていた弘法等の過ちについて指摘された。
 それに対し、人々がこぞって、「とんでもない悪口だ。一人だけなぜ、そんなことを言うのか」と非難するであろうことも予想された。実際、そのとおりであったであろう。
 しかし大聖人は、こう仰せである。
 「日蓮は此の人人を難ずるにはあらず但不審する計りなり、いかりをぼせば・さでをはしませ
 ――日蓮はこの(邪義の)人々を非難しているのではない。ただ不審しているだけである(「これは、おかしい」と疑問を口にしているだけである)。それが悪いと腹を立てられるなら、そうされるがよい――。
 経文に照らして、″おかしい″ものは″おかしい″のである。その疑問を、そのまま口にすることが、どうして「悪言」「悪口」になるのか、それは正法を守る「善言」であり、「正言」なのである。
 権威をカサに正当な疑問さえ圧殺しようとする考え方への、明快な切り返しであられる。
 疑問に、なんら正面から答えようとせず、逆に頭に血がのぼったかのように抑えつけ、封じ込め、正義の人をなきものにしようとする。
 大聖人は、一生涯、そういう権威の悪と戦われた。ならば、真の門下である私どもの進むべき道も明らかである。
11  明日、アメリカに出発する。ハーバード大学からの招聘で講演する予定であり(=ハーバード大学で二十六日「ソフト・パワーの時代と哲学―新たな日米関係を開くために」と題して講演)、識者との会談、アメリカSGI(創価学会インタナショナル)の皆さまとの総会、研修会などを有意義に行っていきたいと思っている。
 広宣流布の「世界への道」は、御本仏の御遺命であり、だれかがなさねばならない。なした私どもの栄光は三世永遠である。
 皆の代表としての渡米であり、ともどもに成功を祈っていただければ幸いである。また私も日本の皆さまに、かの地からお題目を送らせていただく。そうした、目には見えない″心のつながり″に学会の強さがある。
 きょうは合同協議会、本当にご苦労さま。
 (本部第二別館)

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