Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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沖縄・世界平和祈念勤行会 勝利の歴史、幸福の歴史を残せ

1991.2.3 スピーチ(1991.1〜)(池田大作全集第76巻)

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1  湾岸戦争の早期終結を深く祈念
 三年ぶりに、沖縄を訪問させていただいた。お元気な皆さまにお会いでき、本当にうれしい。(拍手)
 ただ今、皆さまと三座の勤行を行った。沖縄の皆さまのご多幸を、私は御本尊に深くご祈念申し上げた。とともに、ご存じのとおり、中東の湾岸戦争は、残念ながら戦火がいっそう拡大しつつある。そこで本日は、「平和の要塞」である、ここ沖縄の地で、皆さまとともに、一日も早い戦争終結と「世界平和」を祈念させていただいた。
 また、香港、シンガポール、マレーシア、フィリピン、タイ、インドの理事長等の方々から、沖縄の皆さま、そして日本の皆さまに「くれぐれもよろしくお伝えください。皆、元気です。いっさい心配ありません。私たちも頑張っています。皆さまもどうか頑張ってください」との伝言が寄せられた。そのままお伝えさせていただく。(拍手)
 さらにきようは、アジアの代表約五十人も参加しておられる。遠いところ、はるばる、ご苦労さま。(拍手)
 さきほど、研修道場内を回らせていただいたが、すべてにわたって、見事に整備をしてくださっていた。隅々にいたるまで、皆さまの深い真心が感じられた。心から御礼申し上げたい。本当にありがとう。(拍手)
 私もこの一週間、沖縄のために、さまざまな角度からお話もし、全魂をこめて皆さまを応援していきたい。いろいろお世話になることと思うが、どうかよろしくお願い申し上げたい。(拍手)
2  世界の激動のなか「立正安国」ヘ
 私が沖縄を初訪問したのは一九六〇年(昭和三十五年)七月十六日。第三代会長就任(五月三日)後、まもなくであった。
 戦争の悲惨さをもっとも深く体験した沖縄。私は一日も早く、この地を訪れたかった。この沖縄から、世界の平和への潮流を起こしていこうと心に期していた。
 七月十六日は、日蓮大聖人が「立正安国論」を上呈された日であるが、私は、沖縄を「立正安国」の模範の天地に築き上げたかった。もっとも苦しみをなめたところが、もっとも幸せにならねばならない。なる資格があるし、必ずなっていく――これが仏法である。
 沖縄を″戦争の要塞″から″平和の要塞″へと転換していく。それが、大慈大悲の御本仏のお心を拝しての、必然の実践であると私は確信していた。
3  このころ、とくに一九六〇年五月ごろは、内外ともに激動の時であった。
 国内では、新安保条約が強行採決された(五月二〇日未明)。国論を二分し、翌月には痛ましい犠牲者まで出した(東大生・樺美智子さん)。条約への賛否の考え方はさまざまであり、ここで論じるものではないが、これによって、ともかく日本は米ソの冷戦構造に、名実ともにがっちりと組み込まれたわけである。
 北京では安保反対の百万人集会が行われた。ソ連との「平和条約」も大きく遠のいた。
 一方、五月一日には、米ソの″雪どけ″への期待を吹き飛ばす事件が起こった。アメリカの飛行機U2が、ソ連領空を侵犯したスパイ機というかどで、ウラル上空で撃墜されたのである。このU2機の日本駐留をソ連は非難し、U2機の基地には報復攻撃すると声明(五月二〇日)。冷戦の渦に巻き込まれた実感を、多くの国民がもった。基地の島・沖縄ではなおさらであろう。
 また、五月二十四日には、チリ地震による津波が、太平洋沿岸に襲来、死者・行方不明者百三十九人を出した。
 三十一年前――核兵器の競争という″狂気″に世界が脅かされていた。加えて自然災害があり、病苦(ポリオ〈小児マヒ〉の流行、その他)、生活苦があった。
 こうしたなか、「立正安国」への本格的な出発を、創価学会は始めたのである。
4  ″戦争の悲惨″からの人類解放を
 大聖人は厳然と仰せである。戦争の苦しみに、世界の人々がこりごりした時、その時こそ正法広宣流布の″時″である、と。
 「選時抄」にいわく「前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし其の時・日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ或は身ををしむゆへに一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば彼のにくみつる一の小僧を信じて無量の大僧等八万の大王等、一切の万民・皆こうべを地につけたなごころを合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし」と。
 ――末法に入って、一人の智人、日蓮大聖人の教えを人々が信ぜず、かえって迫害をするとき、天変地夭が盛んになり、そのうえ前代未聞の大戦争が世界を舞台に、必ず起こる。そのとき、日月が照らす全世界の全人類は、あるいは国が滅びるのを惜しみ、あるいは自分の身を惜しむゆえに、一切の仏や菩薩に祈るが、効果がない。そこで、ついに、これまで憎んでいた一人の小僧(日蓮大聖人)を信じて、無量の、小僧よりはるかに権威ある大僧等、八万(すべての国)の大王等、一切の民衆は、皆、頭を地につけ、両手を合わせて、一同に南無妙法蓮華経と唱えるであろう――。
 すなわち、史上かつてなかった世界的戦乱の後が、世界広宣流布の時であるとの大聖人の御予言である。
 「一切の仏菩薩」とは、広げていえば、あらゆる宗教ということであり、その他の思想・哲学も含まれるであろう。それらに頼っても「しるし」がない。「平和」がこない。諸難が去らない。そこで、あらゆる宗教的・思想的指導者(無量の大僧等)も、あらゆる国の政治的指導者(八万の大王等)も、全人類が、もはや日蓮大聖人の仏法による以外にないと目覚める、と。これが経文を踏まえての、大聖人の未来記であられる。
 一往は、この御文は、大聖人御在世当時の、蒙古の世界侵略をさすと考えられる。このときに、大聖人は末法の大白法を建立された。(化法の広宣流布)
 そのうえで再往は、未来をさしておられると拝される。そうでなければ、当時は現実には世界広布はなかったのであるから、御金言がうそになってしまうであろう。断じてそのようなことはない。
5  世界大戦の後の、世界広布――この御予言どおり、学会は第一次大戦(一九一四年〜一八年)の後、誕生し(一九三〇年)、第二次大戦(一九三九年〜四五年)の後、大発展した。仏意による団体であることを、この一点からも、深く確信していただきたい。
 この歩みは、核兵器の恐怖の増大とも軌を一にしている。すなわち戦前の核の研究期に、学会は助走していた。戸田先生の出獄の月(一九四五年七月)、史上初の原爆実験(七月十二ハこが行われた。そして悪夢のヒロシマ・ナガサキ――。
 戦後は、核軍拡の高まりと並行して、仏法は世界に流布した。それは生存すら危ぶまれる人類の苦悩に呼応した、慈悲の前進であった。
6  一九六〇年は、核軍拡の背景にある″イデオロギーの対立″(冷戦)が、いっそう露骨になり、日本も安保条約によって、はっきりとその一方に加担することになった年である。
 じつは、この″冷戦思考″こそ、人類の敵であった。「人間」よりも、「イデオロギー」と「権力」を優先する思想――それは歴史上、つねに存在したが、核の出現で、もっとも悲劇的なものになったからである。
 ――ヒロシマ・ナガサキの惨劇も、今では「″大戦の終わり″の象徴というよりも、″冷戦の始まり″の象徴であった」と広く認識されている。
 軍事的には″死に体″であった当時の日本に、原爆を投下する必要はなく、その第一の目的は、戦後の主導権を握るため、アメリカがソ連に″力″を誇示することであった、とされているのである。事実であれば、まさに権力の魔性の発想であった。
7  時代は「生命尊厳」の哲学を切望
 こうした意味からも、あらゆる硬直したイデオロギーを超えた「人間優先」「生命の尊厳」を基本とした運動こそ、もっとも根源的な″反核″への挑戦である。学会はそれを推進してきた。
 平和運動のなかには、政治的に、また指導者の売名等に利用されてきたものもあった。冷戦思考の枠組みにとらわれて、一方に加担する″平和運動″もあった。しかし、私どもは、私どもの信念の大道を進んだ。
 そして今、人類はようやく、独善的イデオロギーの悪夢から覚め、「やはり『人間中心』でいくほかない」と決意しつつある。それが″正義″であろうと何であろうと、戦争は、暴力は、もういやだ、と。「生命」以上の価値がどこにあるのか。他人の「生命」を犠牲にしてまで、守るべき価値とは何か、と。
 この叫びは、湾岸戦争の今、あらためて世界に高まっている。この声を、あらゆる指導者の胸に届かせねばならない。
8  「生命の尊厳」を根本とする世界。「正義のための戦争」ではなく、「正義にかなった平和」への転換。人類が苦悩のはてに求め始めている、この選択は、それ自体、仏法への方向性である。
 ″戦乱に苦しみきったとき、人類は仏法を求める″――この大聖人の御予見を、私どもはさらに深く拝さねばならない。
 「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命とかれて三千大千世界にてて候財も・いのちには・かへぬ事に候なり
 ――生命というのは、一切の財宝のなかで第一の財宝である。「三千界(全宇宙)に遍満するも身命(生命)に直いするもの有ること無し」と説かれているように、三千大千世界(宇宙)に満ちているすべての財宝も、生命にはかえられないのである――と大聖人は仰せである。
 法華経の宝塔品で説かれる宝塔も、宇宙的な巨大さであった。一人の人間の″生命の宝塔″の無限の尊さを表している。
 核に代表される「生命の破壊者」(魔)と、「生命尊厳の守り手穴仏)と――。両者の戦いを象徴的にいえば、「キノコ雲の悪魔の塔」と「生命の宝塔」との戦いともいえよう。
9  御書には「大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ」――大悪は大善の来る兆候である。全世界が戦争で乱れるならば、法華経に「閣浮提の内に広く流布せしめん」(開結六六八㌻)と説かれているように、全世界の広宣流布は疑いはないであろう――とも断じられている。
 戦争は絶対にあってはならない。もはや二度の大戦で、人類は身に徹して、そのことを痛感したはずである。そうしたなかから、「生命の尊厳」を説ききった正法を、人類が求める土壌が広がっていった。
 そして一九六〇年以来、約三十年で、大聖人の御遺名である世界広宣流布の基盤をつくることができた。この平和の人潮流を絶対に止めてはならない。この沖縄から、さらに未来へ、世界へと広げていっていただきたい。
 「顕仏未来記」に、大聖人は仰せである。
 「此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮提えんぶだいに広宣流布せしめんか」――この人(法華経の行者、日蓮大聖人)は、諸天善神ならびに地涌の菩薩等の守護の力を得て、本門の本尊、妙法五字を全世界に広宣流布せしめるであろう――と。
 このとおりの実践を、SGI(創価学会インタナショナル)は成してきた。世界の学会員の誉れは永遠である。そして、これからが、いよいよ本格的に″太陽が昇る″時である。世界の民衆のために、民衆とともに、民衆の手によって、断じて真の「平和」と「幸福」を勝ち取らねばならない。
 重ねて湾岸戦争の「即時停戦」を呼びかけておきたい。
10  インドの人々の胸に生きる王妃の戦い
 さて、話は変わるが、インドのネルー初代首相が、「名声は群を抜き今もって人々の敬愛をあつめている人物」(ネルー『インドの発見』辻直四郎・飯塚浩二・蝋山芳郎訳、岩波書店)とたたえた女性がいる。
 彼女の名はラクシュミー・バーイー。十九世紀、中央インドにあつたジャーンシー王国の王妃である。「インドのジャンヌ・グルク」――人々は今も敬愛の念をこめてそう呼ぶ。
 第二次世界大戦後まで、イギリスの植民地だったインド。一八五七年、そのインドに、通常「セポイの反乱」と呼ばれる抵抗運動が起こる。
 これは、当時、インドの植民地化を進めていたイギリス東インド会社に雇われていたインド人傭兵(シパーヒ、イギリス側の用語で「セポイ」)たちが、植民地支配に対して立ち上がった運動である。″自由をわれらの手に″″インドに独立を″――自由への叫びは、彼らだけにとどまらなかった。圧政にしいたげられた民衆の怒りが、インド全土で炎となって燃え上がる。
 この運動で、イギリス軍さえも「もっともすぐれた、もっとも勇敢なるもの」(同前)と驚嘆した人物こそ、王妃ラクシュミー・バーイーであった。
11  彼女の父は貴族であった。だが、故国はイギリスとの戦いに敗北し、退位させられた主君に従い、父も国を去る。彼女は、一族が亡国の悲しみに沈んでいるころ生まれた。母も幼いころ亡くしている。
 なお彼女のマナカルニカという幼名は、ガンジス川の別名にちなんで名づけられたという。悠久の「母なるガンジス」――人生の波濤は高くとも、心にはつねに大河が流れるような、凛々しくもおおらかな女性に育ってほしい――そんな願いがこめられていたのだろうか。
 その後、彼女は十五歳で、中央インドの小さな国ジャーンシー王国の王と結婚する。当時のインドでは、イギリスの強い影響のもと、小王国がわずかに存続していた。ジャーンシー王国もその一つである。
 民衆は彼女を愛した。皆、王家に早く世継ぎが生まれることを祈った。やがて王妃は念願の男の子を産む。しかし王子は不幸にもわずか三カ月の生命だった。そればかりか、ショックを受けた王もまた、病に倒れ、世を去る。最愛の家族を、相次いで失った悲しみ、苦しみは、深く、大きかった。
 しかし、彼女は王妃だった。涙にくれてばかりはいられなかった。
 王は、死の直前に、後継者として養子を迎えていた。だがイギリスは、養子を世継ぎにすることを認めようとしない。また、世継ぎのないことを理由に、イギリス領への併合を迫ってきた。
 このままでは、国は滅ぶ。いや、断じてそうさせてなるものか。私たちのこの国は、自分の手で守りとおしてみせる――人生の勝敗を決めるのは「勇気」である。「勇気の人」は、耐えきれないような不幸や悲しみのなかからも、鋼のごとき「意志」と「希望」を鍛えだす。むしろ、不幸や悲哀が大きいほど、「生きぬく力」は燃えさかる。
 彼女もまた、「勇気の人」であった。深い悲しみを超えて、「正義」の心を、より強く、赤々と燃え上がらせた。権力の冷たい壁へ、熱い「言論」の矢を射る戦いを開始した。
 まず、イギリスの総督に手紙を送る。過去に取り交わされた条約を縦横に引きながら、養子相続の正当性を明確に論じる。さらに、インドの伝統的な考え方にも照らしつつ、理路整然と説いていく。
 ――自分勝手な″原則″を、ただ一方的に押しつけようとしても、私たちの社会では通用しないし、意味がない。かえって自分たちの無知、無教養ぶりと、狭量さをさらけ出すだけである。だれもが納得のいく説明を、そして公正な措置を、と。
 手紙の行間からは、そんな彼女の訴えが聞こえてくるといわれる。イギリスの役人さえ、王妃の説得力に感嘆している。
12  しかし、「正論」が「正論」として通じる相手ではなかった。
 権力者は、いつの時代もそうであるように、総督は、法を自分たちに都合よく解釈する。王妃の手紙も″黙殺″。そして一八五四年、ジャーンシー王国はイギリスに併合されてしまう。
 それでも王妃は、言論の戦いをやめない。次々と鋭い言葉の矢を放つ。繰り返し繰り返し、思いの限りをつづった手紙を送る。
 彼女は、民衆支配の権力者について語る。
 「国の力が強大であれば、それだけ自分の気ままに行動したり、間違いを侵すことを認めなくなるものです」(ジョイス・レブラ・チャップマン『ジャーンシーの王妃――インドにおける女性の英雄の研究』、インドのジャイコ出版社)と。
 また、ジャーンシー王国の併合は「強い大国の、弱い小国に対する権力の発動」(同前)である、と。
 私どももこれまで、法のため、人々の幸福のため、語りに語り、訴えに訴え、心の一扉を開いてきた。この地からあの地へ、一人から万人へと、「真実」の言葉を伝えに伝えぬいてきた。まさしく「広宣流布」という未聞の道程は、「対話」「言論」によって開かれてきた。これからもまた同じである。
 「対話」「言論」の停滞、それは「広布」の停滞につながる。「正義」は「正義」、「真実」は「真実」と、どこまでも叫びきっていくことである。沈黙する必要はない。恐れる必要もない。――その強き一念と行動の大風に、たちこめた暗雲もいつしか晴れゆく。勝利の太陽が輝く。
 そして相手の対応がどうであれ、また一時の状況がどうであれ、「正義を叫びきった」という事実は、厳然と歴史に残る。
 彼女の場合もそうであった――。城を去るときにも、王妃は「私はジャーンシーをあきらめない」と。彼女の″信念″は、状況の変転に揺るぎはしなかった。
13  一八五七年、セポイの抵抗運動が起こり、このジャーンシーにも波及する。
 そして、彼女は念願の城を取り返す。しかし、それも束の間であった。ふたたびイギリスが巻き返してきたのである。
 このとき、彼女は兵士や民衆の先頭に立った。イギリス軍への抵抗のために、あらゆる準備と力をそそいだ。
 その一方、貧しい人々には、とくに食べ物を配るなど、濃やかな気遣いも重ねている。さらに王妃は、婦人たちだけで祝う催しの折、カースト(階級)の隔てなく、すべての婦人を城に招待し、祝祭に参加させた。心優しく、平等・公平な王妃のもとで、婦人たちは結束を固めた。
 こうして、ジャーンシーの民衆は、こぞって王妃の後に続いた。ヒンズーの兵士もいた。イスラム兵も、アフガン人の兵士もいた。皆、彼女を心から慕い、彼女を中心とした団結は固かった。
 しかし、イギリス側の最新式の大砲の前には、彼らの砦も長くはもたなかった。ジャーンシーの王城はついに破壊され、民衆は次々と弾圧されていった。
 王妃はひとり死を決意する。だが、周囲はそれを望まなかった。″祖国と民衆の象徴として、生きぬいてほしい″。皆がこう願い、城からの脱出を強く勧めた。
 その懇願に押され、やむをえず彼女は子息(養子)とともに白馬にまたがり、絶壁を駆けおりる。一昼夜で百六十キロ走り続け、インドの抵抗運動と合流したと伝えられている。
 このとき、彼女はたんなる小王国の王妃ではなく、インドの全民衆を解放するための″戦士″となったのである。
 彼女は、粥蹴二十歳前後の若さで、騎馬隊をも指揮した。しかし、ついに力尽き、敵の刃に倒れた。独立の戦いに散った、あまりにも短い生涯であった。
 民衆は彼女の死を嘆き、悲しんだ。″セポイ″たちの戦いは、やがて鎮圧され、イギリスの植民地支配はさらに強められていった。
 しかし、「自由」と「独立」のために戦った彼女の鮮烈な生涯は、熱い追慕の思いをこめて語り継がれた。そして、インドが独立を果たすまでの九十年もの間、人々の心に″勇気の風″を送り続けたのである。
 民衆の叫びが押しつぶされ、庶民の自由と誇りが蹂躙された植民地時代。そのなかにあって、王妃の名は、イギリスという強大な権力に対する″抵抗″のシンボルとなった。彼女の生涯を描いた本はすべて発刊禁止となったが、投獄されたインド独立の闘士たちにもひそかに読まれ、かけがえのない心の支えとなったといわれている。
 現在でも、インドの各地には彼女の名のついた通りや女子大学がある。彼女は、祖国インド解放の先駆者の一人として、人々の胸に今なお生き続けているのである。
14  家庭・地域に、幸と勝利の風を
 小さな小さな王国の、一人の女性である。その「勇気の行動」「必死の戦い」が、打ちひしがれた祖国の全民衆の心に、希望の炎を灯したのである。
 広宣流布の前進もまた、皆さま方の健気なる″戦い″に支えられてきた。「わが一家を守ろう」「わが支部、わが地区を断じて守ろう」との決意で、家庭、地域に″幸の風″″希望の光″を送り続けてこられた。
 いわば、まったくの″無名″の戦いである。また、苦労の絶えない戦いである。ときには、立ちはだかる現実の獣に、″これほど頑張っているのに……″と、悔しい思いをすることもあるにちがいない。
 しかし、御本尊を根本として正法流布のために戦った歴史は、即、「勝利の歴史」「幸福の歴史」なのである。強き信心の人は、たとえ苦境のなかにいるように見えても、自身の生命に厳然と勝利の因を刻んでいる。否、仏法の因果倶時(一念に因と果を倶にはらんでいること)の法理から見れば、その人はすでに「勝利者」なのである。
15  青春時代に愛読したモンテーニュ(十六世紀フランスの思想家)の『エセー(随想録)』では、次のように述べている。
 ――なにごとも逃げてはいけない。敵に対しても、もしも、こちらが逃げれば、ますます激しく攻めてくるものだ。それと同じように、人生のさまざまな苦しみも、私たちが恐れおののいているのをみると、いい気になって、さらにいじめてくる。しかし、強い心で立ち向かっていく人には、向こうのほうが逃げだし、降伏するのである。だから、断じて強気でいかねばならない、と。
 人生は「戦い」である。「戦い」というものは、勝利への「一念」の強いほうが勝つ。ゆえに、広布の長征にあっても、徹して強気で進んでいかねばならない。どこまでも堂々たる勢いをもって、社会と人生の「栄冠」をつかみ取っていただきたい。
16  生きよう―「太陽」に顔を向けて
 ところで、アンデルセン(デンマークの作家、一八〇五年〜七五年)の童話に、「カタツムリとバラの木」という話がある。だいたい、こんな話であったと記憶する。
 ――あるところに、美しいバラの庭があった。庭の周りには、これもまた美しい緑の牧場が広がっていた。白い雲を浮かべた青空のもと、牛や羊が楽しげに遊んでいた。バラたちは歓喜にあふれて太陽に顔を向けていた。
 ところが、バラの茂みの下に一匹のカタツムリがいた。背中に大きな″家″を持っている彼は、口ぐせのように言っていた。
 「世の中なんか、俺にはどうでもいいんだ! 俺は俺だけで何でも持っている!」と。
 彼はこの大事な″家″にいつも閉じこもり、ときどき顔を出しては威張ってばかりいた。
 じめじめした地面をはいながら、バラたちを見上げて言った。
 「いつ見ても進歩がないね! 花を咲かせているだけじゃないか! 毎年、同じことの繰り返しだ。俺は、バラの花を咲かせたり、牛や羊のように乳を出したり、そんなつまらないことよりも、もっと大きいことをやってみせる!」
 バラたちをバカにし、″俺さまは、お前たちとは違うんだ″と言わんばかりの偉ぶった姿であった。
 しかし露骨にバカにされても、花たちは怒るふうもなかった。
 「大いに期待していますわ。ところで失礼ですが、それはいつごろでしょうか?」と、にこやかに逆襲した。カタツムリが口では大きなことを言っても、実際には、何を、いつやるのでしょうか、と。
 カタツムリは「自分の″遠大な計画″は、愚かなバラたちにはわからないさ」と、捨てぜりふを残して、ご自慢の、立派な″家″に閉じこもってしまった。
 「♪角だせ槍だせめだま出せ……」という歌があるが、ふだん大きなことを言う人間ほど臆病で、都合が悪くなると、急に″無口″になり、閉じこもってしまうものである。
17  ふたたび花の季節がやってきた。バラたちは、青空に頭を上げ、さわやかな光と風を思う存分、楽しんでいる。
 すると、また例のカタツムリがやってきた。そして下のほうから陰気な声で語りかける。
 「バラのおばさんたちよ、だいぶ年をとったね! 世の中のために、花なんか咲かせて、そんなに一生懸命――何かいいことがあったのかね?」
 口を開けば、いやみなことしか言わない、こんなカタツムリに似た人はいるものだ。
 するとバラは、軽くいなしながら答える。
 「むずかしいことは、よくわかりませんわ。ただ私は、楽しく、思う存分生きてきましたの。お日さまは優しく、暖かいし、空気はおいしいし、雨だって喜びでしたわ。
 私たちは幸せなんです。広い緑の野原を見ながら、ただうれしくて咲いているんです! 大きく息を吸い込むと、土のなかから力がのぼってきます。空からも力がおりてきます。幸福で、うれしくて、私たちは歌っているんです!」
 威張ってばかりいるカタツムリは、そんなバラたちがうらやましくてたまらない。いやみを言うのも、バラたちへの″ねたみ″でもあったようだ。
 しかし、バラたちは、朗らかに、優しく聞いた。
 「でも、あなたは、そんなに偉いのだから、きっと私たちよりも、ずっと幸せなんでしょう?」
 「そんなに偉いあなたは、何を世の中に与えたのですか?」
 「皆のために何をなさったの?」
 バラたちの質問攻めに、カタツムリは、ただ口ぐせを繰り返す。
 「世の中なんて、関係ないよ! 俺は俺で何でもできるんだ」
 こう言ってカタツムリは、また自分のカラに閉じこもり、入り口を塗りこめてしまった。バラたちは、その姿を見おろしながら、哀れんで言った。
 「悲しいわ! 私たちはカラの中に閉じこもるなんてできない。いつも外に出て、花を咲かせていたい! そして、世の中のだれかのためになりたい! それが幸福なのよ!」
 こうしてバラは幸せに咲き続け、カタツムリは″家″の中で、世の中の悪口を言いながら、つばをはき続けていた。――アィアルセンの童話は、これで終わっている。
18  アンデルセンは、静かに「どっちの生き方がいいと思いますか」と問いかけているようだ。
 世間を軽蔑しているつもりで、軽蔑されているカタツムリ。自分の不幸を、不平、不満に変えて、人にぶつけては、ますます不幸になっていくカタツムリ。それよりは、広々とした野原で太陽とともに咲き誇り、人々を幸せにしようと健気に願っているバラたちのほうが、どんなにか美しくて、幸福ではないでしょうか――と。
 ″威張りんぼ″のカタツムリや、人の幸福をうらやむカタツムリは、どこの世界にもいる。そんな哀れな人たちの言葉など気にすることはない。悠々と見おろしていけばよい。そして、顔を「太陽」の希望の光に向けて、堂々と生きていけばよいのである。
 私どもは、「法」のため、「人」のため、「社会」のために、広布に生きぬいている。その行動のなかで、福徳の花が爛漫と咲き薫る幸福の園を開いているのである。これほど尊く、充実した、誉れの人生はない。
 「平和原点の地」の沖縄である。人類を悲惨と不幸から解放しゆく平和の光を、この沖縄の地より全世界へと送っていただきたい。皆さま方のご多幸とご長寿、そして栄光の活躍を心から念願し、私のスピーテとしたい。
 (沖縄研修道場)

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