Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十章 日伯交流の原点を築く  

「太陽と大地開拓の曲」児玉良一(池田大作全集第61巻)

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4  ポルトガル語辞典の刊行
 池田 ポルトガル語と日本語の『葡和辞典』をつくったのは大武和三郎という人だそうです。一九一八年(大正七年)の刊行で、この人もずいぶん苦労したようです。
 ブラジルに渡ったのは、十八歳の時。ブラジル王国の海軍船が横浜に来て、乗っていた国王の孫に認められ、ブラジルで勉強しないかと勧められる。そして明治二十三年(一八九〇年)から七年間、ブラジルでポルトガル語を学ぶことになりました。
 児玉 私らがブラジルに来る、二十年ぐらい前ですね。
 池田 両国語を仲介するものは何もない時代です。
 彼は帰国後は政府の通訳なども務めた人物であった。ところが、初めから試練の旅の連続となった。まずブラジルへ向かう途中、頼りにしていた国王の孫が、革命のためにインド洋の島に降ろされる。何とか艦長に頼みこんで、ブラジルにたどり着く。しかし今度はその艦長が政府に対して革命軍を起こし、それが失敗したために、通っていた兵学校も退学に追いこまれてしまった――。
 児玉 ポルトガル語が話せないという辛さは、今でも忘れられません。私らは生きるためにも、ポルトガル語を覚えなくちゃならなかった。
 池田 この人の辞典の編纂も、途中、ブラジル憲法の改正があって、公式の綴り方が二転、三転し、何度も原稿を書きかえたり、大使館から自宅に原稿を
 持ち帰ったその直後に大使館が火事になり、危うく灰になるところを助かったこともあった。
 大辞典の刊行は十年にわたる事業となり、完成したのは彼が六十六歳の時だったといいます。
 児玉 ほう。
 池田 この人がブラジルの地で学んだのも、十代後半から二十代半ばの多感な時でした。やはり若さは何ものにも勝る力です。

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