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日蓮大聖人・池田大作

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九州代表者会議 峻厳な行学錬磨の伝統を

1987.10.21 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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2  福岡研修道場は、玄界に臨む糸島郡志摩町に位置する。「筑紫富士」とも呼ばれる秀麗な可也山かやさんのふもとに道場はある。
 糸島の地は、福岡県の西端に位置し、佐賀県にも接している。亜熱帯の暖かさを乗せて北上する対馬つしま暖流の影響で、県内でも、もっとも暖かい地域の一つとなっている。
 可也山は、あまり高い山ではないが、富士山に似た美しい姿である。山のまわりは七葉に分かれており、どこからみても同じ形にみえる。
 古来、多くの歌によまれ、『萬葉集』巻十五(『日本古典文学大系七』所収、岩波書店)にも「草枕旅を苦しみ恋ひれば可也の山べにさを鹿鳴くも」(旅の苦しさに、故郷を恋しく思っていると、可也の山辺に男鹿が鳴く。それを聞くと恋しさがまさる)とある。
 この歌は、新羅しらぎ(朝鮮・韓半島にあった古代の国)への使者、遣新羅使一行の一人がよんだもので、大阪の難波津なにわずから出航し、この地を経由して新羅に向かう途中の歌とされている。
 この歌にも象徴されるように、糸島の地は、古くから中国や韓国・朝鮮との交流の地であった。有名な中国の『魏志倭人伝ぎしわじんでん』に記されている、伊都国いとこくは、この糸島郡にあたるのではないか、とする説もある。
 可也山の名前の由来についても、一説には、韓国から来たのではないかといわれる。韓国古代の伽耶かや文化は、日本に影響を与えており、また現在でも韓国には伽耶山という同じ名前をもつ有名な山がある。
3  話は変わるが、戸田先生は、三十年前の昭和三十二年(一九五七年)四月二十一日、第一回九州総会の折、次のように言われている。
 「さきほどから聞いていると、『九州広布はわれらの手で』といっているが、あまりそんなことは言わないほうがいいと思う。私は北海道で育ったが、北海男児なんて聞いたことがない」「関東男児とか、大阪男児とか、中国男児ということも聞いたことがない。九州だけは九州男児という」
 「その九州男児が、九州広布はわれらの手で、などといっているが、これはどういうわけですか。せめて東洋広布はわれらの手で、というならまだしもだが、どうも、このごろの九州男児は、気が小さくなってきたようだ」と話されていた。
 また、戸田先生は「(大阪で)ここまでの戦いができた以上は、こんどは九州が大事になってきた。年内に、九州大本部をつくりたい。そして月に一回は九州へ来て、講義をしたい。安い土地で、いい建物があればなんとか買いたいものである」といわれた。
 三十年後の今日、″九州男児よ、東洋広布、世界広布を目指せ″との、戸田先生の呼び掛けは、この度のSGI総会、世界青年平和文化祭で、立派な一つの結実をみた、と私は申し上げたい。さらに″九州に大拠点を″との構想も、九州池田講堂、また福岡研修道場の完成で、実現することができた。戸田先生はどれほどかお喜びであろうと、私は確信してやまない。
 この第一回九州総会に出席された当時、すでに戸田先生のお体は、大変に弱っておられた。総会から十日後の私の「若き日の日記」には「四月三十日、先生倒る。重大なる学会の前途。今年は悲しきことばかりなり。三障四魔の嵐の年である……」(本全集37巻収録)と記している。
 ともかく、戸田先生が九州に対して、いだき、期待されていたことが、皆さま方のお力によって実現され、本当にうれしく思うとともに、心から感謝申し上げたい。
4  一日一日、無量の価値w開こう
 さて、富士のごとく秀麗な姿をみせる可也山の高さは、三百六十五メートル。そこで、三百六十五メートルを三百六十五日にもじって、地元では可也山を「一年山(やま)」とも呼んでいる。ちなみに、山頂にはかつて、法華経塔があったともいわれる。
 山も、一歩、また一歩と歩みを重ね、また一メートルずつでも登っていけば、やがては山頂に至ることができる。と同じように、一日一日を大切に、またていねいに生ききって「この一年、大きな山を登りきった」といえるような、皆さま方の一年、一年であっていただきたい。
5  法華経の開経である「無量義経」に次の一文がある。
 「是の人また具縛ぐばく煩悩にして、未だ諸の凡夫の事を遠離おんりすること能わずと雖も、しかも能く大菩薩の道を示現じげんし、一日をべて以って百劫と為し、百劫をまた能くちじめて一日と為して、彼の衆生をして歓喜し信伏せしめん」(開結一〇六㌻)と。
 戸田先生は、この文を文底から、御本尊の功徳力の一つを説いたものと拝され、次のように言われている。
 「この世の中というものは、具縛煩悩すなわち煩悩に縛られて、この凡夫の域を脱することはできないというのである。ところが、具縛煩悩の身で凡夫地にありながら、百劫に一日をのばして何億万年に、また何億万年を縮めて一日にして、あらゆる衆生を喜ばせ、歓喜せしめるようになるという。これは生命観です。(中略)
 百劫を縮めて一日とし、一日をのばして百劫とする、大宇宙の生命観に対して、本当の安心立命をたもつということはたいしたものではないか」(『戸田城聖全集 第七巻』)と。
 私がいつも深い感銘を覚えるのは「百劫を縮めて一日とし、一日を延ばして百劫とする」という生命観、価値観である。
 私どもは、煩悩に縛られた悩み多き身かもしれない。しかし、一日であっても何億万年の長さに広げて生きていくことができる。また「何億万年」の長遠な年数をも一日に凝縮させて生きることもできる。
 信心をしたからといって、現実の悩みがすべて消え去るというわけではない。妙法を持ち、「利他」の折伏行に生きるがゆえに、より多忙となり、より大きな悩みとの戦いがあるかもしれない。が、その一日一日は、「無量義とは一法より生ず」とのごとく、無量の価値を生み出しながら、「百劫」という長遠な時間にも匹敵する「一日」となっていくのである。そこには、他の世界では絶対に得ることのできない、無上の喜びと価値の輝きに満ちた境涯が築かれている。ここに、信心に生き、広布に進みゆく人生の深き意義がある。
6  私の『随筆 人間革命』(本全集22巻収録)でも紹介しているが、戸田先生は、ある時、青年を次のように励まされた。
 「革命児は、ただ平穏なゆっくりした生活を夢見るようでは、成長できなくなるだろう。昼間は汗みどろになって働き、戦い、勉強し、ある時は岸辺に立って波と語らい、真夜中まで星を友にしていくような、理性と感情の融合した青年であってもらいたい」と。
 戸田先生御自身、氷川、また河口湖等で、私達青年に浩然の気を養わせながら、研修の機会を何回となくつくってくださった。
 しかし、バンガローや旅館では、勤行・唱題が思うようにできない。その折、先生は「将来、思う存分に信心と人生の鍛錬をする所が必要である」とつぶやいておられた。このことは、かつて新潟の代表者研修でも申し上げた通りであるが、この戸田先生の一言を実現せんとして建設されたのが「研修道場」である。ここに研修道場の淵源があった。
7  日蓮大聖人も御在世当時、それは厳しく門下の育成に当たられた。とくに晩年の九年間は、末法万年への令法久住りょうぼうくじゅうのため、身延の地で弟子の養成に力をそそがれた。
 その御様子は、たとえば「法華読誦の音青天に響き一乗談義の言山中に聞ゆ」――法華経を読誦する声が青空に響き、成仏の教えである一仏乗の法華経を談じ講義する声が山中に聞こえる――と記されているように、まことに盛んなものであった。
 ちなみに、この御文は建治二年(一二七六年)の御消息「忘持経事」の一節であるが、この建治年間から弘安年間にかけて大聖人は法華経の要文について講述なされた。それを日興上人が筆録され、大聖人の御允可いんかを得たのが「御義口伝おんぎくでん」である。その模様は、いわば唯仏与仏ゆいぶつよぶつの御境界であられる大聖人と日興上人の厳粛な儀式とも拝される。
 一般的にみても、本格的な教育、鍛錬の場は、決して大勢の集いである必要はない。むしろ少人数で厳しく打ち合っていくところに、価値ある鍛えの成果が生まれる場合が多い。研修道場における研修会の意義の一つも、ここにある。
 ともあれ、大聖人御在世当時の身延は、活発な研鑽と修行の「道場」であった。
8  信心の骨髄は実践に
 また日興上人は、大石寺開創の後、永仁六年(一二九八年)、隣り郷の重須おもすに移られた。現在の富士宮市北山である。
 この地に重須談所(学問所)を開かれ、みずから「立正安国論」をはじめ「開目抄」「御義口伝」等々、大聖人の法門の正義を講ぜられ、弟子の育成・指導に全力を挙げられたのである。
 重須の地は大石寺と一体でありつつ、より少人数での仏法研学の場であり、日興上人が大聖人の弟子育成の方軌を踏まえて、本格的な令法久住の活動の地として設けられたと拝する。
 時に、この地に移られた年、日興上人は五十三歳。大聖人が身延に入山された御年と同年であられた。まことに不思議なる師弟の絆であられる。
 少々、余談になるが、日興上人は重須に移られてまもなく「本尊分与帳」(「白蓮が弟子分に与え申す御筆御本尊の事」)をまとめられている。白蓮とは白蓮阿闍利あじゃりであられた日興上人のことである。これには日興上人に御本尊をしたためていただいた人の氏名、居住地、信心の状態などが克明にしるされた。
 たとえば「在家人弟子分」の項では、熱原法難の経過をしるされ、難に殉じた三烈士を顕彰されている。とともに、総じて大聖人滅後の背信の僧俗の名も厳然と記録されている。ここにも、妙法の厳たる賞罰のあかしを未来永劫にとどめられんとされる日興上人の御心が拝される。
 今日においても、退転・反逆の背信の徒の名は、本来、語ることも汚らわしいともいえる。しかし後世への確かなる証言として、やはり厳然と残しておかねばならない。
9  大聖人、日興上人以来の不変の原則に「信・行・学」の次第(順序)がある。どこまでも「信」を根本に、「行」を重んじ、その上での「学」でなければならない。
 日淳上人は、「実践なき教学」を厳しく戒めて、昭和三十一年(一九五六年)五月三日の第十四回春季総会で、次のように講演されている。(『日淳上人全集 上巻』)
 「教学というものに頭が入りまするというと、行法ということがゆるがせになりがちでございますが、ただ宗教、信仰といたしまして何が根本であるかといえば、行体というものが根本でありまする」と。
 行体すなわち行動、実践こそ信心の骨髄であり、仏法の根本である。
 また「行体というものを支えていくのが教学であります。教学のために行法があるのではなしに、行法のために教学があるということをいっしてはならぬと思います。で行法というものをますます強化する所以ゆえんのものが教学の強化であろうと思います」と。
 そして「若し行法というものを忘れて教学にはしるならば、これは仏法をもてあそぶものに外ならない」と結論しておられる。
 後進への、まことに重要なるご指南と拝する。
10  日淳上人はまた、学会の教学の充実を大変に喜ばれ、賛嘆してくださった。
 「若し集りというものが教学という筋が通らないものでありましたならば、それはただ一つの集りに外ならぬのであります。それが教学というものによって、筋が通る、ここに又創価学会の意義というものがはじめて出てくるわけでございます。
 この教学陣が一方では皆様方の思想をたかめ、外に対しては折伏の杖であり、力である。これこそ鬼に金棒であると申せます。かようなる教学陣を強化、充実するということによって、いよいよ学会の真価というものが定められてくることは信じて疑いないところと思います」と。
 日淳上人は常に学会を深く理解してくださっていた。教学の充実に力を入れる意義についても、このように大きく見守り応援してくださったのである。
 現代には、いわゆる既成宗教がある。新宗教もある。しかし既成宗教の教えは、現実の社会や生活とは全く無縁の存在となり、もはや、かえりみられない。一方、新宗教には、そもそも論じ、また学ぶにあたいする教義体系が全くないといえる。
 これらに対し、創価学会にあっては、仏法の真髄である大聖人の法門を、かくも広範な民衆が、現実の社会と生活の真っただ中で、生き生きと、また真摯(しんし)に学び合い、実践している。この事実を世界の心ある人々は、驚嘆の思いで見つめ、たたえていることは、ご存じの通りである。
 学会は牧口先生以来、″剣豪の修行の如き厳格なる行学の鍛錬″を伝統とし、誇りとしてきた。これからも同様である。この鍛えあげられた太く強い骨格にこそ、大難にも負けない学会の強さがあり、不屈の″学会魂″が練りあげられてきた。
11  研修道場は「仏道修行の場」
 ここで学会の「研修道場」の名前の由来にふれておきたい。
 学会の最初の研修道場である現在の神奈川研修道場(旧・箱根研修所)が誕生した時、日達上人から「三学之道場」との揮毫きごういただいた。ここから「研修道場」の名前が生まれたのである。「三学」とは一般に、仏道修行の上で必ず修学すべき「戒」(禁戒)、「じょう」(禅定)、「」(智)の三つをいう。
 末法今時の三学については、大聖人は「戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり」と明確に仰せである。すなわち戒は「本門の戒壇」、定は「本門の本尊」、慧は「本門の題目」にあたる。
 いずれにしても「三学之道場」とのお言葉には、甚深の意義が含まれていると拝する。
 そして、このお言葉を体した「研修道場」は、どこまでも、仏法の真髄を真剣に研鑽しゆく厳粛なる道場であるということを、私は強く言いのこしておきたい。
12  次に「道場」の意義について、法華経を拝し、少々、論じておきたい。私なりに会通えつうを加えさせていただき、あるいは私見になるかもしれないが、ご了承いただきたい。
 法華経の如来神力品第二十一には、次のように説かれている。
 「所在の国土に、し受持、読、じゅ解説げせつ、書写し、説の如く修行すること有らん。若しは経巻きょうがん所住のところ、若しは園中おんちゅういても、若しは林中に於いても、若しは樹下じゅげに於いても、若しは僧坊に於いても、若しは白衣びゃくえいえにても、若しは殿堂にっても、若しは山谷曠野せんごくこうやにても、の中に、皆まさに塔をてて供養すべし。所以ゆえんいかん。まさに知るべし。是の処はすなわち是れ道場なり」(開結五八一㌻)と。
 少し長い引用となったが、この大意は――その国土において、もし、この妙法華経を如説修行する人がおり、また、そこが法華経の経巻(文底から拝すれば御本尊)の安置される場所であるならば、いずこであっても、そこに塔を建立して御本尊を供養すべきである。なぜかならば、その場は、諸仏が成仏する「道場」だからである。そこが庭園の中であっても、林の中、樹の下でも、また寺や坊においても、在家の信徒(白衣)の家にあっても、さらに殿堂にあっても、山や谷、広野であっても、同様である――という意味である。
 この経文には教学上、さまざまな重要な意義があるが、ともかく大乗仏教の極説である法華経が、法をいかに広く民衆の中へと開こうとしていたか。その社会へと開きゆく強き志向性がうかがえる。
 すなわち法を、決して特権的な聖域にのみ閉じこめ独占するのではない。「妙法」の当体たる御本尊がおわしますところ、また修行の「人」がいるところは、いずこの場所でも、すべて「道場」であると説く。まことに納得のいく深き法理である。同時に、じつに広々とした考え方と思う。
 また、かつて十九歳の若き日に、この経文を読み、「園中」「林中」「樹下」「山谷曠野」などの豊かなイメージに、大きく心広がる思いを抱いたことを、私は今も鮮明に記憶している。
13  日寛上人は、「依義判文抄」において、この経文を「戒壇かいだん勧奨かんしょう」の文であると御指南されている。
 すなわち、この文の初めの部分には、「本門の題目」修行のところ、また「本門の本尊」所住のところは、すべて「本門の義の戒壇」にあたることが示されている。私どもが題目を唱え、妙法流布を目指して活動する場所は、御本尊を御安置申し上げたところとともに、本文の戒壇の「義」が備わっていくと述べられている。
 その上で、「是の中に、皆応に塔を起てて供養すべし」の経文について、これは「本門の事の戒壇」の建立を勧めた文とされている。
 私どもは御本仏の御遺命である、この「事の戒壇」の建立に全身全霊を捧げた。すなわち「正本堂」を私の発願により、皆さま方のお力で寄進建立申し上げた。これも、すべて法華経の経文通りの行動であることを確信していただきたい。
14  この正本堂は、末法広宣流布の「根本道場」である。その上で、この「皆応に塔を起てて供養すべし」の経文を一歩広く論ずるならば、御本尊ましますところ、また如説修行の実践者がいるところ、いずこの地であれ、法を荘厳し広め、また尊き仏子を守るためにも、仏道修行の道場、また拠点を、さまざまな形で幅広くつくりゆくべきであるとの文証であるとも拝せよう。
 事実、私どもは、総本山の整備をはじめ、数多くの寺院を全国に建立寄進している。現在も各地で建立が着々と進められている。
 その上で、会館、さらに研修道場等を、皆さま方の信心の真心の結晶として、建設していることは、ご存じの通りである。
 経文には「園」や「林」「樹下」、「山」や「谷」「曠野こうや」など、さまざまな自然環境のところも、広布の道場となるとある。各地の研修道場も自然の豊かな地にあって、浩然の気を養いながら、御本尊を根本に真剣に修行する場所である。
 また「白衣びゃくえいえ」とは、在家の信徒の家である。ここも立派な道場である、と。学会でも多くの方々が、みずからの大切な家屋を個人会場。また地域の拠点として、真心から提供してくださっている。
 さらに「殿堂」というべき場所でも、そこを道場として修行していくべきことを説いている。正本堂も平和の殿堂である。また多くの寺院も殿堂である。各地の会館や講堂等も殿堂の意義をこめて荘厳している。
 ともあれ、現実社会のあらゆる場所で、多様な形の仏法実践の「道場」をもうけ、自在に仏道修行していくことが、法華経の精神にかなったありかたであると信ずる。
 また、そうした道場を大切に守りぬき、発展させていくところに、事実の上で広布を伸展させていく重大なるカギがある。
15  同志には謙虚に常識豊かに
 ところで、日蓮大聖人の身延のいおりは、手狭であることに加え、門下等の出入りで、落ち着かない場合があった。その様子を、大聖人は、兵衛志ひょうえのさかん(池上兄弟の弟・宗長)にあてた御手紙で、次のように述べられている。
 「人はなき時は四十人ある時は六十人」――その庵室あんしつには、少ない時でも四十人、多い時には、六十人もの人々が訪れていた――。
 「いかにせき候へどもこれにある人人のあにとて出来し舎弟とてさしいで・しきゐ来居候ぬれば・かかはやさに・いかにとも申しへず」――いくら断っても、来訪者はあとをたたない。ここにいる人の兄とか舎弟とかいって、訪れてきては、腰を落ち着けているので、(大聖人は)たいそう気がねされ、何ともいえず困っている――と仰せになっている。
 「心にはしずかに、あじち庵室むすびて小法師と我が身計り御経よみまいらせんとこそ存じて候に、かかるわづらはしき事候はず」――(大聖人の)本来の御気持ちとしては、心静かに庵室で、小法師(所化小僧)と自身だけで、法華経を読誦したいと願っていた。しかし(現実は、騒がしく、手狭な環境にあって、居場所のないような思いで)こんなに煩わしいことはない――との御心境を述べられている。
 だからこそ次に「としあけ候わば・いづくへもにげんと存じ候ぞ」――また年が明けたならば、どこかへ逃げてしまいたいと思っている――と、おしたためになっているわけである。
 この御文は、大聖人が御年五十七歳、旧暦十一月の厳寒のさなかにしるされた御消息である。御自身も当時、長期にわたる病を患っておられた。そうした中にありながら、訪れる人々を拒まず、しかも、弟子達の衣食住のことまで配慮され、御心労を尽くされていた。それでもあまりのわずらわしさに、″明年には逃げてしまいたい″との御心境にもなることを率直に吐露されているこの一節に、まったく権威ではない御本仏の御振る舞い、すなわちありのままの大慈大悲の御姿が拝されるのである。
16  家屋の立て込んだ現在の都市部にあっては、個人の家庭ではもちろん、学会の会館ですら、十分な読経・唱題に励めないのが現状である。こうした点で頭を悩ましている幹部の方々も少なくない。
 また、会館等での会合も、仕事を終えた夕刻の限られた時間では、腰をすえての研鑽は不可能であろう。とともに、会館では多人数の会合が主体となり、そうした場で心ゆくまでの対話や研鑽を行うのは至難である。
 そうした意味から、適切な場所で、適切な時間に、適切な人数で、行学の錬磨に励むことが不可欠となってくる。今日、全国の研修道場で開かれている研修会は、こうした要請に応え、実施されているものである。
 いずれにせよ、ここ福岡をはじめ各地の研修道場は、さまざまな深義のうえから、仏法の正しき方軌に基づいた「仏道修行の道場」ということができる。
 また社会的な見地からも、法律を順守し、社会のルールに則った管理・運営に万全を期していることはいうまでもない。
 こうした研修道場が各地に誕生し、そこでの研修会の参加者は、本年までで延べ約百五十万人を超える。じつに多くの方々が各地の研修道場で信心と人生の成長の節を刻んできた。この峻厳にして有意義な研修会が活発に行われている事実を、日蓮大聖人も、必ずや、お喜びになっておられることを、私は確信してやまない。
17  それにしても、御本仏であられる日蓮大聖人が、まことに困難な環境のなかで、門下へのあたたかな激励を続けられた事実に、私は涙する。
 庵室の煩わしさを嘆かれたさきほどの御抄でも「かかはやさに・いかにとも申しへず」(気がねして、何ともいえずにおります)と仰せである。少なくとも、大聖人は庵主でもあられる。しかし、決して大聖人は、だれ人も見下してはおられない。どこまでも謙虚に、相手のことを思いやり、こまやかな配慮で門下を包容されている。
 いわんや、私ども凡夫は、いかなる立場であれ、同志には、あくまで謙虚でなければならない。どこまでも常識豊かに、誠実に会員のために、行動し、奔走していくべきである。
 これまでも再三にわたり申し上げてきたことだが、リーダーである皆さま方は、会場提供者や会館管理者の方など、カゲの功労者への細かな心遣いを忘れてはならない。何か思っても、言いだせずに苦しんでいることはないだろうか、何か人知れず困っていることはないか等々、つねに心を配りながら、一人一人を慈しんでいただきたい。
 どうか使命と責任の重みが増せば増すほど、大切な仏子である会員を厳護し、広布の指揮を執れる喜びと誇りを胸に、また感謝を忘れず、前進していただきたい。
18  ″人づくり″こそ一切の基盤
 ところで、″研修、教育″という行為それ自体は決して派手なものではない。むしろ、まことに地味であり、表面には出ない目立たぬ活動である。しかし、歴史上、こうした″教育・研修の場″が、社会の新たな波を起こし、偉大な時代回天の推進軸となってきた事実に、私たちは容易に気づかされる。
 長州(山口県)萩の「松下村塾しょうかそんじゅく」は、明治維新の原動力となる多くの人材を輩出したことであまりに有名である。が、吉田松陰(一八三〇年〜五九年)が実際に塾を主宰してから刑死するまでは、わずか二年足らずの短い期間にすぎなかった。
 しかし、そこでの研修、勉学は、まことに真剣にして濃密な日々であった。松陰は、ある時は、草刈りに励む畑でも、またある時は、米をつく台碓だいからうすの上でも、『史記』や『左伝』の講義を行った。
 当時、松陰に対する世間の中傷・雑言ぞうごんは、間断なく続いていた。先駆者に対する無理解と悪罵あくばは、歴史のつねである。が、門下の青年達は、さまざまな松陰への悪評など意に介せず、信ずる師のもとで、ひたすら向学の日々を送った。
 そして師の魂を、確かに継承していったがゆえに、回天の偉業の推進軸となることができた。
19  ここ九州でも、数々の″研修・教育の場″が栄え、時代創造の俊逸を育てた。
 たとえば、幕末、オランダ商館の医員として赴任したドイツ人医師シーボルト(一七九六年〜一八六六年)が、長崎に開いた「鳴滝なるたき塾」。ここからは、日本の近代科学の発展を担う俊英が、次々と巣立った。
 また、広瀬淡窓たんそう(一七八二年〜一八五六年)が開いた大分県日田ひたの「咸宜園かんぎえん」は、江戸時代のもっとも著名な漢学塾の一つとして知られる。ここに学んだ弟子は、約三千人。有名な蘭学者・高野長英(一八〇四年〜五〇年)も、その一人である。長英は、シーボルトの鳴滝塾でも学んだ。
 さらに、九州出身の福沢諭吉(一八三四年〜一九〇一年)が創立した慶応義塾大学。今日なお、多くの人材を輩出しているが、その名の通り、誕生した時は、規模も小さな「塾」にすぎなかった。が、福沢は、教育という″人づくり″こそ、すべての文明・文化のもといであることを見抜いていた。その意味で、鋭い時代への″先取り″であったといってよい。
20  今日、″人づくり″の重要性は、社会の各界で見直され、広く認識されるにいたった。
 最近の経済紙には、各企業のさまざまな研修をめぐるニュースが報じられている。″A工業、慰安旅行やめ、海外研修へ″″B銀行、百人が宿泊できる研修センターを建設″等々――。実業界のみにとどまらず、政界や法曹界でも、盛んに研修が行われるようになっている。
 ちなみに、昨年、アメリカの顰蹙ひんしゅくをかった中曽根首相の「知識水準発言」も、自民党全国研修会でなされた″迷演説″(爆笑)であった。
 さらに、研修ブームは一般家庭にも及び、大阪のある町では、「笑顔生活道場」と銘打ち、家庭での対話をとりもどすための親子の合宿研修を行っている。こうした時流は、今後一層広がりを見せつつある。
21  こうした時流を考える時、広布推進の限りなき人材の輩出を目指し、行ってきた我が学会の「研修」も、まさに時代の先取りであったといえよう。
 創立以来、さまざまな″鍛え″の場で、人間を磨きあい、人材を育成しゆくことが、学会の変わらざる伝統となってきた。″人づくり″こそ、一切の基盤であることを、歴代会長が第一の理念としてきたからにほかならない。
22  情報化社会は「知恵」を要請
 一九九〇年代は「知衆化の時代」ともいわれる。民衆は、もはや、かつてのような愚昧ぐまいな民の集団としての″大衆″ではない。一人一人が高度な情報と知識を備えた「知衆」となってきているというのである。
 それだけに、どの世界でも、リーダーは幅広く勉強し、つねに″新鮮さ″をたたえていかなければ、人々に″納得″も与えられないし、″説得力″もえられない時代となった。その意味からも、ますます、さまざまな形での「研修」が大切となってきている。
 しかし、過剰なまでの情報化社会である。そこで銘記すべきは、つねづね申し上げてきたように、「知識」即「知恵」ではないということである。
 いかに知識をもち、情報を収集していても、膨大な情報に流され、かえって、そこに自身が埋没してしまっては、何のための情報かわからない。それらの知識を、自在に使いこなしていく知恵が、もっとも大切なのである。
 その知恵の源泉こそ妙法であり、この情報化社会という荒波も、信心という無量無辺の知恵のカジで自在に乗り切り、悠々と航海していくことができる。ここに、「信心」の醍醐味があるといってよい。
23  元来、「研修」とは学問や技芸などを、″みがき、おさめる″ことをいう。「研」とは″みがく、きわめる″ことであり、″すべて精密にものを仕上げる″意味である。一方「修」は、″おさめる、きよめる″意であり、″塵を払って、きれいに飾る″ことである。
 社会では、さまざまなレベルで、″みがき、おさめる″研修が行われている。が、私どもの研修は、信心を磨き、鍛え、尊極の生命を築き、飾りゆくものである。また、広宣流布という無上の目的のための研修である。その意味から、これ以上の研修はないし、最高に尊き研修であることを申し上げ、本日の研修としたい。

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