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日蓮大聖人・池田大作

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兵衛志殿御返事  (2/2) 人はなき時は四十人ある時は六十人
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あかづきなんどして候こそで一なんど・きたるものは其身のいろ紅蓮大紅蓮のごとし、こへははは大ばば地獄にことならず、手足かんじてきれさけ人死ぬことかぎりなし、俗のひげをみればやうらくをかけたり、僧のはなをみればすずをつらぬきかけて候、かかるふしぎ候はず候に去年の十二月の卅日より・はらのけの候しが春夏やむことなし、あきすぎて十月のころ大事になりて候しが・すこして平愈つかまつりて候へども・ややも・すればをこり候に、兄弟二人のふたつの小袖・わた四十両をきて候が、なつのかたびらのやうにかろく候ぞ・まして・わたうすく・ただぬのものばかりのもの・をもひやらせ給へ、此の二のこそでなくば今年はこごへしに候なん。

其上兄弟と申し右近の尉の事と申し食もあいついて候、人はなき時は四十人ある時は六十人、いかにせき候へどもこれにある人人のあにとて出来し舎弟とてさしいで・しきゐ候ぬれば・かかはやさに・いかにとも申しへず・心にはしずかに、あじちむすびて小法師と我が身計り御経よみまいらせんとこそ存じて候に、かかるわづらはしき事候はず、又としあけ候わば・いづくへもにげんと存じ候ぞ、かかる・わづらわしき事候はず又又申すべく候。

なによりもえもんの大夫志と・とのとの御事ちちの御中と申し上のをぼへと申し面にあらずば申しつくしがたし、恐恐謹言。

  十一月廿九日                    日蓮花押

   兵衛志殿御返事


孝子御書

御親父御逝去の由・風聞真にてや候らん、貴辺と大夫志の御事は代末法に入つて生を辺土にうけ法華の大法を御信用候へば悪鬼定めて国主と父母等の御身に入りかわり怨をなさん事疑なかるべき・ところに、案にたがふ事なく親父より度度の御かんだうをかうほらせ給ひしかども兄弟ともに浄蔵・浄眼の後身か将た又薬王薬上の御計らいかのゆへに・ついに事ゆへなく親父に御かんきを・ゆりさせ給いて前に・たてまいらせし御孝養心に任せさせ給いぬるはあに孝子にあらずや、定めて天よりも悦びをあたへ法華経十羅刹も御納受あるべし。

其の上貴辺の御事は心の内に感じをもう事候、此の法門・経のごとく・ひろまり候わば御悦び申すべし、穴賢穴賢兄弟の御中不和にわたらせ給ふべからず不和にわたらせ給ふべからず、大夫志殿の御文にくわしくかきて候きこしめすべし、恐恐謹言。

  弘安二年二月二十一日                日蓮花押


両人御中御書

                    弘安二年 五十八歳御作

                    於身延

大国阿闍梨・えもんのたいう志殿等に申す、故大進阿闍梨の坊は各各の御計らいに有るべきかと存じ候に今に人も住せずなんど候なるはいかなる事ぞ、ゆづり状のなくばこそ・人人も計らい候はめ、くはしく・うけ給わり候へばべんの阿闍梨にゆづられて候よし・うけ給わり候き、又いぎあるべしとも・をぼへず候、それに御用いなきは別の子細の候か其の子細なくば大国阿闍梨・大夫殿の御計らいとして弁の阿闍梨の坊へこぼちわたさせ給い候へ、心けんなる人に候へば・いかんが・とこそをもい候らめ、弁の阿闍梨の坊をすりしてひろくもらずば諸人の御ために御たからにてこそ候はんずらむめ、ふゆはせうまうしげし、もしやけなばそむと申し人もわらいなん、このふみついて両三日が内に事切て各各御返事給び候はん、恐恐謹言。

  十月廿日                      日蓮花押

   両人御中

   ゆづり状をたがうべからず