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日蓮大聖人・池田大作

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記念県長研修会 正しき仏法は生活、社会に脈動

1987.7.29 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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2  大聖人の仏法は実際的、活動的、積極的
 ご存じんじのように日淳上人は、学会に深い理解を示され、戸田先生をはじめ学会の同志を最大に守ってくださった。そのあたたかな御心は、今も忘れられない。
 日淳上人が青年時代に書かれたもののなかに「消極的信念より積極的信念へ」(『日淳上人全集 下巻』)という論文がある。
 そこでは仏法と実践についてふれられ、「由来仏教の精神は実際的でそれ故活動的である。そうしてそれは又積極的である。末法の本仏の教はの三つの精神を具えている」と。
 つまり、本来、大聖人の仏法の志向性は、実際的であり、活動的であり、積極的である、と。私もこの段を読んだとき、まったく深い共感を覚えたものである。
 「むづかしい議論や理屈を説いて仏の教をうであるといつてもれが実際とはなれてゐる場合には仏の教を談じて居るのではない」
 いくら高度な理論や高尚な精神を説いたとしても、それが現実の生活、人生、社会の中で顕現されていないならば、本当に仏法を説いたとはいえない、との厳しき言葉である。
 たしかに、むずかしい議論や理屈だけを説いて教学があるように見せながら退転していったものたちの姿を見るとき、このお言葉はまことに要を得たものと実感する一人である。
 ともあれ、仏教の精神を、本来「実際的」「活動的」「積極的」と述べられたところに、当時、青年僧侶としての気概がほうふつと感じられる。まさに、真実の仏法は葬式仏教ではない。生活と社会に、生き生きと脈動する生きた宗教なのである。
 さらに「本因下種と云ふ事は末法の本仏の衆生済度さいどに対する上の相の第一義ではありますが、此をもって仏様の御化導の上の姿の判別にのみ用いて自分の生活様式の範であることに気がつかぬなら本因下種の御教は死んで居る、其の時は本因下種を談じつゝ御本仏の生命を断っておるのである」と述べられている。
 大聖人の仏法は本因下種仏法であり、現実に生活を変革し、社会の転換をなしとげていける生きた仏法である。もしそれができなければ、本因下種仏法の生命を断っていることを深く銘記せねばならない。
 また、この論文は、生活と社会に根ざし「実際的」「活動的」「積極的」に広布を進めてきた学会の活動が、いかに大聖人の御心に則った、正しいありかたであるかを証明してくださるものであると思う。
3  さらに上人はこう述べられている。
 「本因下種とは常に此れからだといふ心持ちであることであるといって差支さしひかへあるまい(中略)此れを見ても如何いかに積極的であるかゞ伺はれる。私のいふ積極的信念とは此の境地に住し、すなわち此の末法の御本仏にすがっての信念である」と。
 つまり、法華経をたもち行ずる者にとって「積極的信念」とは、信心を根本に、いかなる苦境にあろうが、″つねにこれからだ″″これからが本当の勝負だ″との、前向きな姿勢を堅持し続けることである。
 北海道も、まさに″これからが本当の勝負″である。皆さま方は、常に″これからだ″との意気で、妙法を根本にたくましく郷土の建設に進みぬいていただきたい。
 また、私がつねづね感心するのは、北海道の歴代の青年部長、男子部長、女子部長が、一人も退転することなく、広布の使命に徹し切って活躍していることである。
 このような姿は各方面の模範となるもので、広布の基盤と人材の流れが、理想的に出来上がってきている象徴といってよい。
 厳寒の地・北海道は、すぐれた人材が陸続と輩出している国土となっている。北海道の広宣流布は、地道のようだが確実に前進してきた。その歴史は、哲学史上、思想史上、仏法史上、永遠に語りつがれていく壮挙であると私は確信する。
4  仏壇の由来と変遷
 さて、きょうは、仏壇の意義について、述べておきたい。
 この問題については、数年前に、大阪で少々語ったことがある。以来、仏壇の由来や御安置の仕方など、海外を含め数々の質問をいただいた。第一線の幹部の方々も、会員から、その点についての質問を受けたようである。そうした疑問に答える意味からも、本日は、正宗の化儀に則った正しい基準について、歴史や文献等を通し、明らかにしておきたい。
 昭和五十六年(一九八一年)のNHK疱瘡世論調査所の調査(『現代日本人の宗教意識』日本放送出版協会)によれば、「家に″仏壇″があって、それを拝むことがある」という人は五七%、一方「仏壇はない」という人は三九%となっている。地域別では、東京、大阪などで「仏壇はない」という人が五〇%を超えており、都市部とそれ以外との地域差も浮き彫りにされている。
 しかし、同じ調査で、「信仰をもっている人」は三三%であり、「信仰をもっていない人」は六五%である。つまり、″仏壇が家にある″人の割合は、″信仰をもっている人″のそれを大きく上回っており、善し悪しは別として、仏壇が日本人の生活に意外と深くかかわりがあることがうかがわれよう。
5  仏壇とは、いうまでもなく″本尊を安置する壇″である。このルーツ(はじまり)をたどると、インドで、須弥山しゅみせん(世界の中心にそびえるとされた高山)をかたどった数層の壇、すなわち″須弥壇″などの台上に仏を安置したことによるようだ。
 こうした方法は、日本でも古くから行われ、「聖徳太子伝私記」には「石檀二重あり、最上を須弥壇と名づく」といった記述が見られる。
 この″須弥壇″の伝統は、今日の仏壇にも生かされており、私どもでいえば、御本尊を御安置している台座が、それにあたる。
6  このように、もともと仏壇は、文字通り″壇″のことであった。が、今日では一般に、厨子ずしの形をしたものをさす。すなわち、正面に両開きの扉があり、屋根と台座がある形態のものである。「厨子」とは、その名が示すとおり、元来、厨房ちゅうぼう(料理室)の調度品を納める入れ物をさしたようだ。
 中国においては、仏像や経典を安置するものとして、この厨子の形や仕組みが応用され、今日の仏壇の形へ発展してきたといわれる。中国では、西暦五五〇年ころには、仏像等を厨子などに納めることが盛んに行われていたと、文献等から推測される。日本では、その起源は「仏法が伝来して間もない、蘇我氏等の時代(六世紀後半)に求めるのが妥当」(『現代の仏壇・仏具工芸』沢田勲氏らの共著、鎌倉新書)と考えられるが、七世紀半ばの製作と推定される、法隆寺の国宝「玉虫厨子」が、最古のものとして現存している。
 なお、『日本書紀』によれば、六八五年、天武天皇は「諸国に、家ごとに、仏舎を作りて、すなわち仏像及び経を置きて、礼拝供養せよ」とのみことのりを出している。
7  仏壇が、庶民の家にも急速に普及していったのは、江戸時代のことである。徳川幕府の宗教政策の、いわば″副産物″としてであった。
 つまり、寛永十四から十五年(一六三七年〜三八年)に起きた「島原の乱」を機に、幕府はキリシタンへの弾圧を強化する。寛永十七年に宗門改役あらためやくを置き、すべての人々が″キリシタンではない″との証明を檀那寺から受けねばならなくしたのである。
 毎年、村ごとに作成された「宗門人別改帳あらためちょう」には、一人ずつ、檀那寺が記るされ、その寺の証印が押されていた。これによってキリシタンでないことが証明された。
 こうした制度を通じ、村々の寺院は、大きな権力をもつにいたる。幕府の力を背景に民衆への支配力を得るのである。当然、その言動は、おごって、尊大なものとなつていった。
 政治権力と結託し、民衆を上から支配する宗教勢力ほど、宗教の精神に反するものはない。傲慢に振る舞いながら、庶民をだまし、財を得る。いつの時代でも、犠牲になるのは、庶民であり、民衆である。こうした長年の歴史を、民衆凱歌の時代へと転換しゆくのが、私どもの広宣流布の運動の目的なのである。
8  檀那制度が生んだ誤れる宗教観
 さて、江戸幕府の「檀家制度」の推進は、当然のごとく急速に一般家庭への仏壇の普及を促した。家に仏壇が安置してあることが、当時、禁止されていたキリシタンではなく、仏教徒であることの証となったからだ。
 こうして、一般庶民による仏壇の需要が高まり、江戸中期には、その産地が全国に広ろがっていく。そこには政治と結びついた仏壇商の存在もあったといわれる。
 このように、仏壇の普及は、一面で、上から押しつけられたものであった。そこに″信教の自由″はなく、人々に信仰の眼目ともいうべき「本尊」を選ぶ権利は与えられていなかったのである。しかも、仏教寺院を利用した支配体制が長く続くなかで、人々の心の中に″仏教は、どれでも同じ″との心情が培われていった。ここに、「本尊」に対する無自覚、無反省な態度が形成された一つの要因がある。
9  政治権力に依存した宗教について、日淳上人は昭和三十二年(一九五七年)五月の北海道総会で、次のように明快に御指南されている。(『日淳上人全集 上巻』)
 「日蓮大聖人様の正しい信仰が世の中に確立することを一番嫌うのがその幕府や大名でございます。(中略)何故これが嫌いかといいますというと、この″南無妙法蓮華経″の教えが、大名将軍の権勢を張って行くのにはまずい。云うてみますれば、他力念仏の念仏は、おまかせ、おまかせで、『大名におまかせしろ』という、おまかせ信仰だ。(中略)それで具合の悪いことは、あれもあきらめろ、これもあきらめろ、と絶対おまかせ申すというのだからして、大名にとってそんな都合のいい宗教はない」と。
10  さらに、同じ講演で、「信教の自由」について述べられている。
 「今、信仰の自由ということが叫ばれておりますが信仰の自由があればあるほど、日蓮大聖人様の教えが燎原りょうげんの火のごとく弘まっていかなければならないのでありまする。徳川時代は、信仰の自由がなかったから弘まらなかったのであります。今信仰の自由があるということは、大聖人様の教えが堂々と世間に弘まって行くということを物語っているのでありまする。
 私は、創価学会の正しい組織、正しい折伏、正しい指導と、世間のこの環境とが合致してです、ここに誇らしいところの発展をみるにいたったと考えるのでございまする」と。
 ここで日淳上人は、早くから学会の活動に対し、正しい「組織」「折伏」「指導」と仰せである。また現代は、「信教の自由」もあり、さまざまな面で、広布への環境が整ってきているといってよい。
 なお、この講演が行われた三十二年といえば、炭労事件の渦中、夕張大会、札幌大会が開かれた忘れえぬ年である。以来、三十星霜。この間の北海道の広布の躍進と、広布に走り抜いた方々の福徳あふれる勝利の姿に対し、私は、心から祝福申し上げたい。
 ところで民間に仏壇が受容されていった、もう一つの背景として、盆の精霊棚しょうりょうだながある。これは新たに亡くなった人のある家で、盆の期、縁側などに一時、仏棚ほとけだなを設ける風習であり、これが、つねに仏壇をを癒えに置く信仰的土壌をつくったと指摘されている。
 こうした背景から、一般の仏壇は先祖供養の場所としての性格を強く持つにいたった。仏壇に位牌いはいを安置することが多いのも、その一つの表れである。
 こうして仏壇は″本尊を安置する″との原義から離れ、肝心かなめの本尊の正邪が、ますます問われなくなっていった。
 位牌は拝む対象ではないゆえに、私どもは原則として仏壇には位牌を置かない。
11  大切なのは仏壇よりも本尊である。またこれが正しい信仰である。しかし民衆の無知につけこんで、いたずらに仏壇を重要視する宗教もある。
 古来、浄土真宗系では豪華な金仏壇が多く用いられてきた。本漆うるしりで、内部を金箔きんぱくで仕上げたものである。真宗の根強い北陸においては、今日でも″家を焼いても、厨子焼くな″との言葉も残っていて、仏壇を重視する傾向がみられると聞く。この金仏壇のきらびやかさは、死後に赴くとされる西方極楽浄土の象徴であったとされている。
 誤った思想は恐ろしい。しかし、それ以上に恐ろしいのは、誤った宗教である。ゆえに賢者は、道理に合わない宗教を避ける。多くの知識人が、いわゆる宗教を迷信的なものとして避けていく傾向も、私は理解できる気がする。
 仏壇は、きらびやかというよりも、すっきりと御本尊を拝せるものが正しいと私は思う。あくまで御本尊が根本である。装飾が主になって、いささかでも御本尊を拝しづらいようなものであってはならない。私どもの仏壇は金仏壇ではなく、廉価れんか唐木からき仏壇が標準である。
12  仏壇・仏具の荘厳は信心から
 さて仏壇は、どの程度のものがいいのか。お金があり余っている人はともかく、私ども庶民には現実的な問題である。また幹部だからといって、必ずしも大きい、高価な仏壇が必要というものでもない。生活が楽で、豪華な仏壇を安置すれば、それだけ信心が強いというものでもない。信心の強弱が根本であることを忘れてはならないのである。その原則から推し量って、相応の我が家の仏壇を考えていくべきではないだろうか。
 戸田先生は質問会で、「箱を仏壇にしていますが、かならず仏壇を買わねばならないのですか」という質問に、当時の社会状況に合わせ、次のように答えられている。
 「信・行が強くなれば、ミカン箱ではもったいない、ということになって、千二百円ぐらいの仏壇になり、まだもったいないと、一万円ぐらいの仏壇になるのです。
 そのように信心と仏壇とは結ばれています。功徳の状態により、お金があればあるように変わってきます。無理に仏壇を買えといってはいけません。借金して仏壇を買っては絶対に相なりません」(『戸田城聖全集 第二巻』)──。
 つまり、戸田先生の指導は、信心の深化に応じて仏壇を自発的に求めればよいというのが要点である。
 このように、戸田先生は、どんな質問に対しても、やさしく懇切に教えてくださった。私どもも同じように、だれ人に対しても優しく、分かりやすく、懇切に指導していきたいものである。
 また、いわゆる謗法払いであるが、かつてはこれを仏壇それ自体を壊す行為と曲解され、誤って宣伝されたことがあった。いうまでもなく事実無根である。問題は謗法の本尊等であり、仏壇ではない。
13  化法、すなわち人々を導く「法」は不変である。しかし化儀(儀式や形式)は時代によって変化する。最近は、電動式の自動扉の仏壇もある。これが良いと思う人、そうでない方がよいと思う人、これはその人の自然の心に任せればよいことである。
 日亨上人は、衣や建物に関する日有上人の「化儀抄」の文にふれて、次のように言われている。
 「要するに有師(=日有上人)の見識おおいに革新主義にして強いて旧態を固守するの意なき」「わが門の宿老大徳ややもすれば名を宗祖開山にたくして、旧儀をのみ固執して時運と背馳はいち(=そむく)せんとする者の反省を仰ぐ」(富要一巻)と。
 化儀の面において、いたずらに古いありかたに執着し、時代の進展にそむくことは誤りであるとのご指摘であり、時代即応の柔軟な姿勢を示されている。これはだれ人も納得できる道理である。
14  本尊は「根本尊敬」の義
 ともあれ、宗教、信仰において、もっとも重要なのは「本尊」である。次に、この本尊について述べておきたい。
 「本尊」の字義には「根本尊崇そんすう」「本有尊形ほんぬそんぎょう」「本来尊重」の三つの意義があり、「根本尊崇」をその中心となる。宗教の是非正邪は、この本尊の是非正邪によって決まる。ゆえに正しき本尊を選び、根本として尊崇すべきである。
 日寛上人は「観心本尊抄文段」の序で次のように仰せである。
 「鳳凰ほうおうは樹をえらんでみ、賢人は主を択んでつかう。いわんや仏法を学ぶ者、むしろ本尊を簡択かんたくし、これを信行せざるべけんや。若し正境にあらざれば、仮令たとい信力・行力を励むといえども、仏種を成ぜず」(文段集四六一㌻)
 ──鳥の王者・鳳凰は樹を選んですみ、賢人は主を選んで仕える。いわんや仏法を学ぶ者がどうして本尊を選んで信行しないでおられようか。もしも正しい対境の本尊でなければ、たとえ信力・行力を励んでも、仏種を成じ、成仏することはできない──。
15  仏法の正統な流れにおいては、本尊とすべきもの、本尊とすべきでないものについて明確に定められている。
 大聖人は「本尊問答抄」の中で、末法の正しい本尊を明かされるに当たって、種々の経釈を引かれている。その一つに、法華経の法師品第十の文がある。
 すなわち「……若しは経巻所住の処には皆応に七宝の塔を起てて極めて高広厳飾こうこうごんしきなら令むべし復舎利を安んずることを須いじ所以ゆえんは何ん此の中には已に如来の全身有す」と。
 これは──もしくは、この法華経を安置する所には、七宝で飾られた立派な塔を建てて、高く広く荘厳するがよい。そこには舎利(仏の遺身・遺骨)を安置する必要はない。なぜなら、法華経の中にすでに仏の全身が含まれているからである──という意味である。
 また大聖人は天台大師が法華三昧ざんまいを説いた中の文を引かれている。
 すなわち「道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置し亦必ずしも形像舎利並びに余の経典を安くべからず唯法華経一部を置け」──道場の中に立派な高座を設け、法華経一部を安置しなさい。その際、仏像や仏舎利や他の経典を安置してはならない。ただ法華経一部を置きなさい──と。
16  ここでいう「法華経」とは末法においては大聖人御建立の三大秘法の御本尊のことである。釈尊等の仏像や仏舎利は本尊とすべきでない。爾前にぜん権教の仏である大日如来や阿弥陀如来の像などは問題外である。
 大聖人は、さらに法華経のなかでも、文上脱益だっちゃく・理の一念三千・教相の本尊をしりぞけられた。そして文底下種・事の一念三千・観心の本尊を顕されたのである。
 「日女御前御返事」には、こう仰せである。
 「ここに日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹りゅうじゅ天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり
 ──ここに日蓮はどういう不思議であろうか。正法時代の竜樹・天親等・像法時代の天台・妙楽等でさえ顕されなかった大曼荼羅を、末法に入って二百余年を経たこの時に、はじめて法華弘通の旗印として顕し奉ったのである──と。
 さらに大聖人は「是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ摺形木たる本尊なり」と。
 ──この御本尊は、決して日蓮大聖人がみずから勝手に作り出したものではない。法華経に出現した多宝塔の中の釈迦牟尼仏ならびに十方分身の諸仏の姿を、あたかも版木で刷るように、そのまま顕した御本尊である──と。
 御本尊は大宇宙の実相そのものであり、御本仏の悟りの御境界を、そのまま御図顕されたものである。
17  大聖人御図顕の御本尊に大功力
 大聖人御図顕の御本尊の体徳たいとくについて、日寛上人は次のように述べられている。
 「本尊に迷う、故にまた我が色心に迷うなり。我が色心に迷う、故に生死を離れず。故に仏、大慈悲を起し、我が証得する所の全体を一幅いっぷくに図顕して、末代幼稚ようちに授けたまえり。故に我等ただこの御本尊を信受し、余事をまじえず南無妙法蓮華経と唱え奉れば、その義をらずというといえども、自然じねんに自受用身即一念三千の本尊を知るに当る。既に本尊を知るに当る故に、また我が色心の全体、事の一念三千の本尊なりと知るに当れり。たとえば小児の乳を含むに、その味を知らずして自然にその身を養うが如し。耆婆ぎばの妙薬、その方を知らざれども、服するに随って病を治するが如し。これすなわち本尊の仏力・法力の顕す所の功能くのうなり。これを疑うべからず」
 ──本尊に迷うが故に、わが色心(生命)に迷う。わが色心に迷うがゆえに、生死の苦しみを開きゆくことができない──。本尊に迷うゆえに成仏できない。不幸な、苦悶の姿で臨終を迎えざるをえないのである。
 御本尊を清く純粋な心で信じ奉り、広宣流布へ向かいゆく強き一念のある人は、必ず生死の苦悩を開いていけるのである。
 ──ゆえに大聖人は大慈悲を起こして、御自身の証得されたところの全体を、一幅の大曼荼羅に御図顕され、末法幼稚のわれら一切衆生に、これを授けられたのである。ゆえに、われらは、ただこの御本尊を信じ、余事をまじえることなく南無妙法蓮華経と唱えたてまつれば、その深義を理解することができなくても、自然に自受用身即一念三千の本尊を知ることになる。すでに本尊を知ることになるので、わが色心(生命)の全体が、事の一念三千の本尊であることを知ることになる──と。
 まことに深遠にして明快なる大聖人の仏法である。信心においては、策や私利私欲であってもならない。余事を交えず、深く純なる信仰であることが大事なわけである。その人こそ、自身が仏界の生命の輝いた尊い存在であることを、みずからが実感することができるからである。
 そして──たとえば幼児が乳の味を知らなくても、その飲んだ乳の栄養で自然に成長していくようなものである。また、釈尊在世の名医・耆婆の良薬は、その薬の処方は知らなくても、服すれば自然に病のいえるのと同じである。これがすなわち、本尊の仏力、法力の顕すところの功能なのである。このことを決して疑ってはならない──と仰せなのである。
18  御本尊の功徳について、戸田先生は「凡夫と御本尊」という論文で、次のように分かりやすく述べておられる。
 「尊上無比そんじょうむひの大御本尊の大功徳は、すべて、われわれ凡夫の一日一日の生活のなかに、ほとばしり出ているのである。われわれ凡夫は、ひたすらに御本仏の大慈悲心、大智力を信じまいらせることによってのみ、御本仏の眷属として、即身成仏と開覚されるのである。これ以外に『仏』というものは絶対にない。われわれの想像もおよばぬ色相荘厳の神様とか仏様が、雲の上や西方十万億土などにいるはずがないのである」(『戸田城聖全集』第三巻)と。
 信心は現実の人生、生活を離れてはありえない。御本尊の大功徳は、すべて日々の生活、そして社会のなかに現れてくる。
 仏法は現実解決の大法である。ゆえに困難や苦悩があればまず勇気をもって大御本尊に向かい、強き信心に励みゆくことである。そこに因果倶時で、必ずや一切の悩みを打開しゆく無量の開拓をなし得るのである。そして少し長い目でみるならば、その自分自身の願望は必ずや叶っていく。これが冥益の信心である。
 また、仏といっても、色相荘厳の姿で西方十万億土の世界等にいるのではない。それらはすべて空想であり、虚像に過ぎない。
 末法の御本仏は日蓮大聖人御一人であられるが、私ども凡夫は、御本尊を信受することによって「即身成仏」できる。たとえ、どのような立場の人であっても、みずからの胸中に、仏としての生命の境涯を開いていけるのである。まことにありがたく、すばらしい仏法であり、信心なのである。
19  また大聖人は、夫に先立たれ、幼子を育てながらけなげに信心を貫いている妙心尼に次のように仰せである。
 「おさなき人の御ために御まほりさづけまいらせ候、この御まほりは法華経のうちのかんじん肝心一切経のげんもく眼目にて候、たとへば天には日月・地には大王・人には心・たからの中には如意宝珠のたま・いえにははしらのやうなる事にて候
 ──あなたの幼子のために御守り御本尊を授けてさしあげましょう。この御本尊は、法華経の肝心であり、一切経の眼目であります。たとえば天では日月、地では大王、人では心、宝の中では如意宝珠、家では柱のようなものです−―。
 さらに続けて大聖人は「このまんだら曼陀羅を身にたもちぬれば王を武士のまほるがごとく・子ををやのあいするがごとく・いをの水をたのむがごとく草木のあめねがうがごとく・とりの木をたのむがごとく・一切の仏神等のあつまり・まほり昼夜に・かげのごとく・まほらせ給う法にて候、よくよく御信用あるべし」と。
 ──この曼陀羅(御本尊)を身に持てば、王を武士が護るように、子を親が愛するように、魚が水を頼みとするように、草木が雨を願うように、鳥が木を頼みとするように、一切の仏・菩薩、諸天善神等が集まってきて、昼夜にわたって、影のように護られるでありましょう。よくよく信じていきなさい──と。
 御本尊を受持した功徳を、じつに分かりやすく教えてくださっている。宝の中の宝、法の中の法であるこの御本尊を受持するとき、社会や宇宙の一切の働きが、諸天善神となって守護をしてくれると仰せなのである。
20  御本尊受持が信仰の根本
 また、大聖人の仏法においては、御本尊「受持」の一行に「受持即観心」「受持即持戒」「受持即受戒」の深義が含まれている。
 つまり、末法にあっては、御本尊を受持することによってのみ成仏ができる(受持即観心)のであり、御本尊を受持することが即持戒、戒を持つことになっている(受持即持戒)。また、御本尊を受持することが即戒を受けたことになる(受持即受戒)のであり、一度持てば、順縁、逆縁ともにすべての人が救われるので金剛宝器戒という。
 すなわち、御本尊の受持に一切が含まれており、そこにすべての人が等しく成仏得道できる唯一の方途が明かされている。
21  そして御本尊所住の所は、日寛上人の御指南のごとく「義の戒壇」となる(三大秘法の「本門の戒壇」には「事」と「義」がある。日達上人は「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり」と指南されている)
 また大聖人は次のように仰せである。
 末法今の時、法華経所坐の処、行者所住の処、道俗男女貴賎上下所住の処、しかしながら皆是寂光なり」(『昭和新定 日蓮大聖人御書』)──末法今の時、御本尊御安置の所、また御本尊を受持した人の活動の場所は、僧と俗、男性と女性、社会的地位の上下にかかわりなく、皆、寂光土なのである──。
 大聖人の仏法は一切が平等である。男女の平等にしても、我が国では第二次大戦後になって、具体的に実行されるようになったが、大聖人の仏法ではすでに七百数十年前から、明快に説かれていた。
 男性であれ、女性であれ、また僧と俗であっても、あるいは社会的立場に違いがあったとしても、御本尊を受持した人のいる所は、すべて平等に、寂光土となると仰せなのである。まことにだれ人たりとも納得できる平等大慧の大法である。
22  さて「持戒」をめぐる五老僧の誤謬ごびゅうについて、日興上人の「富士一跡門徒存知の事」には、次のように断じておられる。
 「一、五人一同に云く、聖人の法門は天台宗なりつて比叡山に於て出家授戒しおわんぬ。日興が云く、彼の比叡山の戒は是は迹門なり像法所持の戒なり、日蓮聖人の受戒は法華本門の戒なり今末法所持の正戒なり、之に依つて日興と五人と義絶しおわんぬ
 ──五人一同に言う。聖人の法門は天台宗である。そこで比叡山に於て出家授戒したのであると。
 日興が言うには、かの比叡山の戒は迹門ではないか。これは像法所持の戒である。大聖人の受戒は法華本門の戒であって、今日末法に所持すべき正戒であると。この相違によって、日興と五人と義絶してしまったのである──と。
 この御文について日亨上人は、「御講聞書集」の中に収めた日亨上人の講義として、次のように紹介されている。
 「これをよく拝すると、当時の門下における戒問題であって、これをいかにするかということについて、五人方は大聖人の出家授戒の跡を踏んで、門下の行儀としようとするに反し、日興上人は純然大聖人所立の本円戒(=御本尊を受持すること。金剛宝器戒ともいう)を主張なされたということがわかる」(『日亨上人全集 下巻』)と。
 ここで問題にされている「戒」は「出家授戒」であり、それはあくまでも出家つまり僧の次元の話である。
 五老僧は、この出家授戒の問題をとおして、大聖人が出家として天台比叡山で受戒された跡を踏むべきだということを理由として、天台仏教への逆行を考えていたといってよい。それはいわば権威への帰属であった。
 五老僧には、このほかにも「かな文字御書の軽視」などにもみられるように、民衆から離れ、権威に固執しようとする志向性があった。それは、仏法を民衆に徹底して開いていこうとする大聖人の御心に反するものであった。
 権威を求め、民衆を軽視し、民衆から遊離していこうとするありかたは、御開山日興上人の仰せのごとく大聖人の仏法でないことを、よくよく銘記していきたい。
23  生涯、強き信心を輝かせ
 日淳上人は、よく学会を理解してくださり、その活動をたたえてくださった。亡くなられる前日にも、当時の小泉理事長と私をお呼びくださり、戸田先生を賛嘆された。
 またご逝去の九日前の昭和三十四年(一九五五年)十一月八日には、学会の第二十一回秋期総会に祝辞を寄せ、次のように学会員をたたえられた。
 「宗祖日蓮大聖人は広宣流布は一時に来ることあるべしと、教えられておりますから、それは決して遠い未来の理想でなくして、秋の木の葉が、葉音高く、今我々の耳朶じだに響く如く、妙法広布の足音は、日々に我々の身辺に感ぜられているのであります。
 ただこれ一重に、学会会員の皆様の正しき信心のいたす所であります(中略)。
 今日、皆様が、勇猛精進に妙法広布のために折伏しておられることは、本門の本尊を信じて、本門の題目を唱えておるということであり、その人所住の所は義の戒壇であり、これいわゆる広義の三大秘法の顕現ともいえるのであります」(『日亨上人全集 上巻』)と。
 私どもの信心、学会の活動がいかに正しく、御本仏・日蓮大聖人の御心に適ったものであるかを、たたえてくださったお言葉である。
24  私が大変に尊敬し、すばらしいと思うことは、北海道には退転者が少ないということだ。この函館圏でも、大聖人の正義に違背した正信会の嵐があったが、それに紛動されて退転していった人はわずかであった。その意味で、北海道の信心の基盤は盤石なものができあがっており、安定感がある。
 これまでも話してきたが、退転者には共通の姿がある。それは、世間体を気にする。見栄っ張りで、おごりのある人に多い。また、憶病の人、ずる賢い人、策に走る人、権威の人などもそうである。
 社会的に有名な人も学会には多くいる。しかし人格的に問題のある人は、結局長続きしていない。また、あんな人は学会にいない方がいいと皆からいやがられながら、しがみついてくる人(笑い)、学会のお陰で偉くなりながら慢心と保身で信心をなくした人も、まじめな学会の世界にいられなくなり、やがては去っている。どうか皆さんは、どのような立場になっても、悲しき退転の道だけは歩んではならない。つねに自分を磨き、人格を深めながら、広布と信心の誉れの道を進んでいっていただきたい。
 朝な夕な、いかなる困難や障害をも乗り越えながら、凛々りりしき、雄々しきかんばせで、理想に向かって進みゆく青年時代がある。青年時代は胸を張って、はつらつと広宣流布に励む人は多い。
 だが壮年になるにしたがって、生気が乏しくなる。希望が薄らいでくる。愚痴も多くなる。愚痴も多くなる(笑い)。それにつれて人生の輝き、信心の輝きが薄らいでいく人も多い。それではあまりにもわびしい。その傾向は、高齢化とともに一層、濃厚になっていく場合もある。
 たしかに生老病死、成住壊空からいっても、それは厳しき現実の一つの実相かもしれない。しかし、信心の強さ、信心の輝きは、年代によって変わってはならない。
25  私どもの信心は、遠くは御開山日興上人が八十八歳になられても、厳とされていた御姿を忘れてはならない。第三祖日目上人の七十四歳になられてもなお国主諫暁に向かわれた峻厳な御姿を忘れてはならない。近くは、牧口先生の、七十三歳にしてなお獄中で貫かれた死身弘法の信心を見失ってはならない、と強く申し上げたい。
 どうか、青年の″午前八時の太陽″のごとき生命力あふれる信心、壮年の人生経験豊かな炎のごとく輝く信心、人生の総仕上げをめざす先輩の方々の赫々かっかくたる信心、この青年と壮年と大先輩の方々の、三つの信心の光と力があいまって進んでいくとき、無限にして迫力ある広宣流布の推進がなされていくことを確信してやまない。
 皆様方のますますのご健勝とご多幸、ご奮闘を心から念願し、本日の記念のスピーチとさせていただく。

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