Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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山形幹部大会 仏法は心尽くす行動のなかに

1987.7.6 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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2  山形の県民性は「誠実」と「正直」といわれる。ウソをい虚偽を憎む。その性質は、信心の上でも、正法流布の上でも、いかんなく発揮され、大きく生かされている。この山形を訪れる人は、たちまち「誠実」と「正直」の鏡に照らし出されるような気がするにちがいない。
 山形は、何といっても、″果実王国″である。生産量も、洋ナシが全国一位、ブドウが二位、リンゴ・カキが三位、モモ四位、スイカ七位など、まさに″王国″の名にふさわしい。
 特に、サクランボの生産は、群を抜き、日本では七八%の占有率といわれる。サクランボの品種は、世界で約千二百あるといわれるが、山形の「佐藤錦」「ナポレオン」種は、特に優れていると聞く。
 しかも、丹精込めてつくられ、その様は、学会の人材育成の在り方にも似ているが、最近は貿易自由化の動きで、海外ものも進出しており、将来は、産業としても、予断を許さない。
 しかし、山形人特有の粘り強さで、どんな苦難も乗り越え、″果実王国″としての繁栄を守ってほしい。また、それ以上に、″福運の王国″″正法の王国″となっていただきたい。それが、私の心からの念願である。
3  迅速、善根、納得の励ましを
 さて、ここで大聖人の御書を拝しながら、少々、話を進めたい。
 「妙法尼御前御返事」には、次のような仰せがある。
 「おもんみれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがあつめて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並に臨終の後とに引き向えてみ候へばすこしもくもりなし
 ――そもそも、振り返ってみれば、日蓮は幼少のころから仏法を学んできたが、その時に念願したことは、″人の寿命は無常である。出る息は入る息を待つことがない。風の前の露という表現もなお、このはかなさのたとえとしては十分ではない。賢い者も、愚かな者も老いたる者も若い者も、いつどうなるか分からないのが世の常である。それゆえ、まず臨終のことを習って、後に他のことを習おう″と思い釈尊一代の聖教と、論師や人師の書や釈をあらあら考え集め、これを明鏡として一切の人々の死ぬ時と臨終の後とを引き合わせてみたところ少しもくもりがない――と。
4  本抄は、弘安元年(一二七八年)七月十四日、大聖人御年五十七歳の時の御手紙で、夫の臨終の様子をご報告申し上げた妙法尼に対する御返事の一節である。
 この御文で、大聖人は、妙法尼の報告にあった夫の立派な臨終の相からして、また、その臨終間際まで唱え抜いた題目の功徳によって、夫の成仏は絶対に間違いない。さらに、そのような人と夫婦になった妙法尼自身の成仏も疑いないと、温かく激励されている。
 ところで、このように妙法尼の夫が確信と安心を持って生涯を終えることができたのも、また残された尼御前が、毅然と夫の死を報告できたのも、夫の臨終直前の大聖人の御指南があったからである。
 ここで、私が申し上げたいのは、この七月十四日の御手紙とともに、十一日前の三日にも、妙法尼に御手紙を差し上げられているということである。
 当時は、今のように電話や電報があったわけではない。しかし、″夫の病気が重い″と聞かれて、即座に御手紙を出される。そして″亡くなった″との報告を受けられては、直ちに励ましの御手紙を、したためられている。わずか十一日の間に、二通も御手紙を差し上げておられる。
 妙法尼は、今でいえば、第一線でまじめに信仰に励む一婦人部である。そうした方に、御本仏であられる大聖人御自身が迅速に、しかも全魂を込めて真剣に激励しておられる。
 いわんや我々は凡夫である。だれにも増して、迅速に、真剣に、人々のために尽くしていかねばならない。
 今はスピード時代といわれるが、なぜ学会がここまで発展してきたか。それは何事にも″迅速″であったからである。また″全魂″″真剣″であったからである。
5  御本仏の大慈大悲の御振る舞い
 ところで、妙法尼を激励されたこの頃、身延での大聖人の御様子は、いかがであられたのか――。妙法尼への二通の御手紙には、そのことが全くふれられていない。しかし、実は、この弘安元年七月当時は、大聖人御自身が、大変な状況の中におられたのである。
 たとえば、この二カ月後の九月、塩等の御供養をした南条時光への御手紙にはこうある。
 「ことに七月より大雨ひまなし、このところは山中なる上・南は波木井河・北は早河・東は富士河・西は深山なれば長雨・大雨・時時日日につづく間・山けて谷をうづみ・石ながれて道をふせぐ・河たけくして船わたらず
 ――七月から大雨が降り続いていた。身延は山と川に囲まれた地形であるため、山が土砂崩れを起こして谷を埋め、石が流れて道をふさいだ。増水で川の勢いが激しく船も渡れない。その結果、交通も途絶えがちになってしまった――。
 そして「富人なくして五穀ともし・商人なくして人あつまる事なし、七月なんどは・しほ一升を・ぜに百・しほ五合を麦一斗にかへ候しが・今はぜんたい全体・しほなし、何を以てか・うべき、みそ味噌も・たえぬ」と。
 富める人がいないので米・麦・あわきび・豆などの穀物も乏しい。商人がこないので人が集まることもない。そのため七月などは塩一升を銭百文、塩五合を麦一と取り換えたが、九月になると塩も全くなくなり、何をもっても買うことができない。味も無くなってしまった――との仰せである。
 このように当時の大聖人の御生活は、食糧や生活物資の深刻な欠乏の中にあられた。七月に「塩一升を銭百文」というのは、ある資料から推計すれば、通常の二十倍もの異常な高値という。しかも、状況は日を追うごとに悪くなりつつあった。
 そのうえ、大聖人のお体の具合も良好ではなかった。この年の暮れ、池上兄弟に与えられた御手紙には、こう仰せである。
 「去年の十二月の卅日より・はらのけ下痢の候しが春夏やむことなし、あきすぎて十月のころ大事になりて候しが・すこして平愈つかまつりて候へども・ややも・すればをこり候
 ――去年の十二月三十日から下痢をしていましたが、今年の春・夏になっても治らない。秋を過ぎて十月のころ重くなり、その後、少し良くなったものの、ややもすれば、ぶり返します――と。
 ちなみに、この冬は、身延の古老たちが口々に、「これほど寒い年はかつてない」と言ったほどの厳寒であった。また前年から全国的に疫病が流行し、亡くなる人が後を絶たなかった。
 このように、大聖人は示同凡夫の御姿として、御自身の厳しい欠乏と病気のさなかにあられた。にもかかわらず、妙法尼を全魂で激励されたのである。
 こうした背景に思いをめぐらせる時、大聖人の大慈大悲が一段と強く鮮烈に胸に迫ってくる。しかも、妙法尼への御手紙の中では、微塵もそうした困苦にはふれられていない。
 ただただ尼の悩みに同苦し、その心に、まっすぐ分け入るようにして渾身の指導・激励をされておられる。そこには、妙法尼とご主人を誤りなく成仏に至らしめんとされる無辺の大慈悲以外の何ものもない。その尊貴なる御本仏の御姿を拝する時、私の心には、限りなき感動の思いが込み上げてくる。ここに御本仏・大聖人の崇高なる御精神がある。私ども門下の深く拝さねばならない亀鑑きかんがある。
6  娑婆世界という現実の世は、永遠に苦脳の連続である。それが実相である。
 だれしも、それぞれの悩みがある。皆さま方も、例えば健康や仕事、家庭のことなど、何らかの悩みをお持ちにちがいない。
 しかし皆さま方は、その中にあって、他の人の苦悩を救うため、日夜、弘法に、友の激励・指導にと奔走し、心をくだいておられる。また祈っておられる。これ以上、尊き″仏の使い″の行動、人生はない。
 ″自分のことはいい、まず友に幸福になってもらいたい″″何よりも、まず友の悩みを解決したい″――この、やむにやまれぬ強き思いの中に不変の学会精神がある。大慈大悲の大聖人の門下としての誉れの行動がある。
 このことを銘記し、山形の皆さまは生涯、″我、仏の使いなり″との確信と誇りを貫いていただきたい。
7  深き境涯の人が″生命の宮殿″の住者
 さて、この弘安元年七月には、もう一つ、特筆すべきことがあった。佐渡から、はるばる阿仏房が大聖人のもとに参詣にきたのである。
 一説によれば、阿仏房は当時、九十歳。いずれにしても、かなりの高齢であったろう。佐渡からの道は遠い。現在のように新幹線や飛行機があるわけではない。山中で疲れても、自動販売機でジュースを飲むわけにもいかない。御供養をたずさえ、二十日余りの道を歩き通しての旅である。若い者でもつらい。道中には海賊ぞく、山賊もいる。しかも、先ほど述べたように、折からの天候不順と疫病の流行もあった。
 阿仏房の身延参詣は、この時が三度目である。翌年、阿仏房は亡くなっている。
 死の前年という高齢で、あえて困難な旅に出発した阿仏房。その一身には、どうしても大聖人にお目にかかり、一日でもお仕え申し上げたいという、ひたむきな求道と恋慕の一念が燃えていたにちがいない。そこには、いささかの利害の心も打算もない。
 それは、ある意味では、狭い常識を超えた、ひたぶるな人間性の発露である。また、誰人にも断ち切ることのできない師弟の生命のきずなである。そこに奥深き、偉大な信心の″心″がある。
 大聖人は、この時、阿仏房の尊き志をめでられ、御自ら酒を温め、もてなされたという。一幅の名画のごとき美しき御姿と拝する。
8  大聖人は、阿仏房が佐渡に帰った後、夫人の千日尼に激励の御手紙をしたためられておられる。その末尾には、
 「我等は穢土えどに候へども心は霊山に住べし、御かおを見てはなにかせん心こそ大切に候へ、いつか早晩いつか釈迦仏のをはします霊山会上にまひりあひ候はん
 ――私もあなたも、悩みと苦しみに満ち汚れた国土に住んでいる。しかし心は霊山浄土に住んでいるのである。お顔を見たからといって何になろう。心こそ大切である。いつかいつか、釈尊のいらっしゃる霊山浄土に参り、そこでお会いしよう――と仰せである。
 先にも少しふれたように、大聖人御自らも、示同凡夫の立場で、悩みの御姿を示されている。決して、何の悩みもないような何か超人間的な特別な御姿であられたのではない。常に、ありのままの人間としての無作の御振る舞いであられた。
 釈尊もまた、どこまでも、偉大なる″人間″であった。天台も同様である。表面から見れば、誰しも皆、同じ″人間″である。ただ、違うのは、目に見えぬ内なる″境涯″なのである。
 たとえば、湯川秀樹博士という一流の物理学者を前にしても、ただ姿を見ていたのでは、物理学の次元における彼の深い境涯は分からない。他の人についても同様である。
9  「心は霊山に住べし」とは、″仏界の境界″を指されている。大宇宙にも、我が生命にも、この最高の境界が厳然とある。この境界は、無辺の青空に太陽が輝き、妙なる音楽を楽しみつつ、悠々と遊戯ゆうげしていくような大歓喜の境界である。一切の所願は満足し、くめどもつきぬ充実感と、智慧と慈愛に満ち満ちている。言葉では言い尽くせぬ壮大なる実在の境界である。
 私どもは、信心によって、この生命の″宮殿″に住むことができる。たとえ″宮殿″のごとき家に住めなくても、いささかも他をうらやむ必要はない。こうした境涯から見れば、あらゆる現世の華やかさは、幻のごとき一時の現象にすぎない。
10  「かおを見てはなにかせん心こそ大切に候へ」とは、阿仏房を送り出しながら、自分は留守を守った千日尼の胸中を思いやられての御言葉と拝する。
 千日尼も、さぞかし大聖人にお会いしたかったにちがいない。大聖人は、その純粋な心を深く知っておられた。だからこそ″会わなくても、信心の心は通じていますよ。お会したのと同じですよ″と温かく激励されているのである。
 大切なのは「心」である。外見ではない。たとえば、事情があって、会合に来たくても、来られない場合がある。その法を求める心を察し、たたえることが大事なのである。反対に、会合に出ていないという姿のみを見て判断し、むやみに叱るような愚かな指導者であっては絶対にならない。
 大聖人はさらに、高齢の千日尼に対して、死後も同じく霊山浄土に行くのだから、そこで必ずお会いできますよ――と約束されている。どこまでも相手の心を思いやってやまない大聖人の御慈愛に深い感銘を覚える。
11  妙法の功力は悪業を善根へ
 さて、先ほども紹介したように、大聖人は「妙法尼御前御返事」に「日蓮幼少の時より仏法を学び候し」と仰せになっている。大聖人は、まだ善日麿と名のられていた時代、御年十二歳の時に、「日本第一の智者となし給へ」との願いを立てられた。その立願の機縁となった疑問の一つが、「臨終」の問題であった。
 当時、大聖人は、念仏を唱える人々が臨終に当たり、狂乱悶死もんしの相を呈するのを目の当りにされた。それで、念仏に深い疑問を抱かれるとともに、「死」とは何か、「成仏」とは何か、との問題への解答をつかむために、仏法の真髄を究めんとされたのである。
 そして、一切の経教、諸宗の子細を研究し尽くされ、寿量文底の法華経、即ち三大秘法の南無妙法蓮華経こそ末法における唯一の成仏の法であり、他経はすでに効力を失い、むしろ邪教となって民衆を惑わしていることを示されたのである。
12  そして、「妙法尼御前御返事」には「白粉の力は漆を変じて雪のごとく白くなす・須弥山に近づく衆色は皆金色なり、法華経の名号を持つ人は一生乃至過去遠遠劫の黒業の漆変じて白業の大善となる、いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり」と仰せである。
 ――白粉の力は黒い漆を変えて雪のように白くする。須弥山(古代インドの世界観で、世界の中心にあるとされる山)に近づくもろもろの色は皆、金色になる。法華経の題目を持つ人は、一生ないし過去遠々劫の黒業の漆が変わって、白業の大善となる。ましてや、無始以来の善根は、皆変じて金色となるのである――。
 妙法の功力は、過去遠々劫の悪業も転じて善業とする。大聖人は、これをもって、妙法を唱えて亡くなった妙法尼の夫の成仏は間違いないと断言されている。とともに、その妻の妙法尼の成仏をも間違いないと激励されている。
 御本尊をたもち、唱題に励んでいくことによって、一切の悪業は善根へと変えていける。すべての悪しき宿業は、煩悩即菩提、生死即涅槃で、そのまま成仏への因とすることができる。つまり、妙法によってこそ、人生の根本目的である一生成仏ができるのである。
 しかし、それは当然、信心の厚薄による。ゆえに、何があっても、信心だけは純粋に、粘り強く、貫き通していくことが大事となる。
13  牧口初代会長の誠実な弘教の姿に学べ
 さて昭和十七年七月のことであるが、初代会長の牧口先生は、お一人で、福島の郡山を訪問されている。それは、東京で入信したある姉弟の両親を折伏するためであり、二度目の郡山訪問であった。
 当時、創価教育学会の機関紙「価値創造」は、治安当局によって廃刊を余儀なくされていた。戦況は次第に悪化し、それに伴って軍部権力の思想統制は厳しさを増していた。そうしたなか、牧口先生は七十一歳の高齢でありながら、一家庭を救うために、遠路足を運ばれたのである。
 「水泳をおぼえるには、水に飛び込む以外にない。畳の上では、いくら練習しても、実際にはおぼえられない。勇気を出して、自ら実験証明することです」――真心こもる牧口先生の言葉に、彼らの両親は入信を決意したという。
14  その後、牧口先生がその父親にあてた手紙が残っている。それは、文面から礼儀と誠実な心情がにじみでている、さわやかな手紙であり、さらに、相手が心から納得できるよう、心深く、また温かく包容されている。
 「拝啓 過日は突然参上つかまつそうろうところ、御家中の意外なる御厚遇に接し感激つかまつり候、幸にかる微力が暗雲一掃の一助となり、濶然かつぜんたる開眼によって御一家御信仰の好機と相成あいなり候ご本懐の至りに候」(『牧口常三郎全集 第十巻』第三文明社)
 ――拝啓 過日は突然お邪魔したにもかかわらず、ご家族の皆様より、思いもかけぬ厚いおもてなしをいただき、感激しております。幸いにも私の微力が、貴家の暗雲を一掃するための一助となりました。そして、あなたのかつ然とした信心への目ざめによって、ご一家全員が信心をされる良き機会となり、私がかねてから望んでいたことがようやくかないました――。
 このあと牧口先生は、次のようにも記しておられる。
 「その後の御感想は如何いかん、なほ道のため十分御腹蔵なき意見も交換し、此際十分の検討を経て信念を確立なされたく切望の至りに存し候」(同前)
 ――その後のご感想はいかがでしょうか。さらに真実の道のため十分率直な意見を互いに交換し、この機会に納得のいくよう十分検討して信心を確立されますよう、強く願っております――。
 このお手紙からも分かるように、信心の指導は、どこまでも礼儀をふまえた″誠実″と″納得″の励ましでなくてはならない。そこに人間尊重の学会精神がある。たとえ幹部だからといって、高圧的になったり、人を見下すような命令的な指導であってはならない。むしろ大勢の人の上に立つ責任ある立場になればなるほど、謙虚にして誠実、そして人間性豊かな指導者へと成長してほしい。
15  最後にどうか、大沼新県長を中心に、日本一″幸福な山形″になっていただきたい。日本第一の″広宣流布の模範・山形″、″繁栄と栄光の山形″を築いていただきたい。皆さま方のますますのご健勝とご長寿を心からお祈りするとともに、明年再びお目にかかれることを切望し、私の話としたい。

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