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日蓮大聖人・池田大作

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太陽と月  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

前後
1  ともに奏でるハーモニー
 松岡 じつは私ども「聖教新聞」の編集部にとりまして、奥さまは強い味方なんです(笑い)。といいますのも、重要な会見等で、奥さまが記者がわりにメモを取ってくださって、ずいぶん助けていただいております。
 夫人 いえいえ、主人がいて、私の役目もでてくるんです。主人と私の関係は、主人が太陽で、私は太陽の光で輝く月だと思っています。太陽がなくなると、輝かなくなるんです。
 池田 それぞれの役目だね。太陽のような情熱、力強さが必要な場合もある。月のような涼やかな知性、さわやかさが求められるときもある。生かしあって、働きあって、たがいに存在するということは美しい。
 周恩来総理と夫人の鄧穎超さんを見ても、夫人は、総理亡き後も同志として、ともに生きているというか、人民への奉仕に徹しておられた。その、同じ志が大切なんだよ。
 夫人 鄧穎超先生には、いつも娘のようにつつんでいただきました。長くご苦労をともにしたご主人を偲びながら、いつまでも同じ理想に生きようとするお姿を、尊く思いました。
 周総理が逝去された時、数多くの真心の花束が寄せられたといいますが、そのなかの小さな花輪には「恩来戦友へ 小超」とあったそうです。小超は、夫人の愛称で、私は「戦友」の二文字に、万感の思いが、集約されているような気がいたしました。
 私自身、戸田先生に「月光の 優しきなかにも 妙法の 強き力を 合わせもてかし」とのお歌をいただきました。たいへん懐かしいです。
 男性と女性はそれぞれが競いあうのではなく、おたがいに補いあいながら、法のため、人のために活躍することが大切です。
 同じ心であっても、それぞれの役割が、あるのではないでしょうか。
2  負けない人生を
 松岡 月といえば、先生は最初は、月から写真を撮られましたね。それはもう二十八年前になると記憶しています。
 ときには、三脚を構え、広角から望遠までのレンズを使い分けながらファインダーをのぞき、撮影をされておられた姿が、今でも鮮やかに残っております。
 今はカメラを自由自在に持ちながら撮られていますね。
 佐々木 二十何年か前のモスクワでのことです。当時のエリューチン高等中等専門教育相の招待で、モスクワ川を行き来しながら、お二人で教育会談されたことがありました。
 その合間に先生は、ボートの先端に行き、美しい新緑の光景を見ながら、何枚も撮っておられた。その折、「この一瞬の風景は、永遠に見られない。この一瞬の光景を、私の心にとどめたい。これが心で撮る写真だ」と言われました。
 池田 写真は、心で撮るものです。心の感性が豊かならば、自然の豊かさもとらえられると思う。
 人間の心は移ろいやすいけど、自然は変わらずに、どっしりと大きく受け止めてくれるからね。
 松岡 今は写真を撮られ始めたころと違って、ファインダーをのぞかずに、一瞬にパッと写されますね。
 ″瞬間写真″の妙と、著名な写真家が評していました。
 長らく日本写真家協会会長をされており、先生の写真を見続けて感嘆されていた写真家の三木淳さんに、お聞きしたことがあります。
 「ファインダーをじっくりのぞいている間に、せっかくのシャッターチャンスを逃している人がいます。名誉会長は見事なシャッター・チャンスで、すばらしい写真を撮られています。なかなかあのように心広々とした写真は撮れませんよ」と語っておられました。
 また「名誉会長の作品には、てらいがなく、天衣無縫というか、自然体という言葉が適切です。作者の心の広さが、無限大に感じられるのです」とも話されていました。
 夫人 主人の場合、写真撮影の旅ではありません。激闘の合間ですけど、時間を見つけて写真を撮っております。
 池田 一瞬も無駄にしたくない、といえばいいか、ともかく会員の方々の激励になる場合もある。
 「自然との対話」展(池田大作写真展)がきっかけで、ともどもに広々とした心を共有できれば、とも思うのです。
 夫人 女性としては、ときには自然の草花に語りかけるような、ときには良い音楽の音色に耳をかたむけるような、ときには美しい絵を見て″ああ、いいな″と思えるような、心の余裕、ゆとりを失ってはいけないと思います。
 佐々木 そんな奥さまのモットーは、何でしょう。
 夫人 そうですね、勝たなくてもいいから、負けないこと。どんな事態、状況になっても負けない一生を、ということでしょうか。
 池田 そう、大事な点だね。
 私も創価学園の生徒の皆さんには、負けじ魂を強調しています。自分に負けないかぎり、いつか必ず、開ける時が訪れる。自分を卑下してはいけない。自分を大事にすることです。
3  子育ては心豊かに
 松岡 奥さまは、お子さんを育てられるさいに、母親として、何を心がけられたのでしょうか。
 夫人 やはり、いちばん大切なことは、母親の心が子どもにどう反映するか、でしょうね。
 世間では、親も競争している、子どもも競争している。そんな時代ですから、余裕をもって優しく、子どもをつつみ込んであげられる母親であろうと努めました。
 もともと母性そのものが、人間性のなかでいちばん自然に近い情緒だと思うのです自然は懐が深いといいますか、母親もそうあらねばと思うのです。
 いい学校に入れたいとか、いい成績を、といった母親の願望のみで、冷たく、無機的にしばらずに、″たとえ成績が悪くても丈夫ならいい″というぐらいの、おおらかな心で接すべきと思うのです。
 佐々木 お子さんには、どのように信心を教えられたのでしょうか。
 夫人 それはもう、どこのご家庭とも同じだと思います。まず、勤行は学会の家庭の基本ですから、一字一字、一緒に読んで教えました。
 主人とも話しあったことがありますが、厳しすぎてもいけないし、甘やかしてもいけない……。主人が言いますのは、「やはり母親の信心だろうね」と。
 朝の勤行は一日の始まりですから、もちろん大切ですが、ときとして学校へ間に合わないことがありますよね。
 そういうときは、出がけにガミガミ言つてはむしろ逆効果で、笑顔で気持ちよく送り出して、「私が、あなたの分もちゃんとやっておきますからね。心配いらないわよ」と。
 池田 やはり知恵だろうね。でも、長い間、いろんな家庭を見てきて言えることは、やはり母親の信心に尽きる。父親の責任を放棄して言うのではないのですが。(笑い)
4  「子生まれて春の月」
 夫人 長男の博正が生まれたのは、昭和二十八年の四月二十八日。立宗宣言の日で、主人は、東京を離れ、戸田先生のもとで、青年部の会合へ行っておりました。
 戸田先生も喜ばれまして「子生まれて 嬉し 春の月」と、その時、持っておられた扇子に毛筆でしたためてくださったのです。扇子は、わが家の宝物になっています。
 博正は、小さいときから、私の学会活動によく連れて歩きました。戸田先生の出席された総会、幹部会、御書講義などにも一緒に行きました。
 主人が会長になったのは、小学校一年生の時でした。その時から、毎年の本部総会には、池田家の代表として、いつも出席させました。そうしたことで、自然と、学会大好き人間になっていったと思います。「聖教新聞」の切り抜きファイルなども、くったりしていました。
 松岡 お子さんは、男の子ばかり三人でいらっしゃいましたが……。
 夫人 ええ。二つ違いで城久が生まれましたが、主人はますます多忙を極めましたでしょう。
 三男の尊弘となると、戸田先生がお亡くなりになったのが四月二日で、その直後の四月十一日の誕生です。
 私は、三月十六日の広布後継の式典には、尊弘が生まれる直前でしたので、参加しておりません。ただ、本山におられました戸田先生より呼んでいただきまして、三月十八日に先生のもとに参りました。先生のど容体は厳しい感じがいたしました。そして、それが最後となりました。
 戸田先生の逝去後は、学会は空中分解するといわれた、たいへんなころですから、主人はもう全国を駆けめぐり、ほとんど家におりません。
 子どもたちは、出張から帰る主人を、お土産はまだかまだか、と待っています。主人は「お土産か、わかった」と子どもに約束して飛び出すのですが、忙しくて買う暇もないことを、私は知っています。ですから、子どもたちが喜びそうなものを私が買い置きしておき、「はい、お土産だよ」って、主人が渡せるようにしておいたものです。
 松岡 ほのぼのとしたご家庭のご様子が、目に浮かぶようです。
 そのころ、先生のお体のど様子は、いかがだったのでしょう。
 夫人 ひじように疲れやすく、いつも体調は良くなかったのではないでしょうか。
 夜中に、よく起きて、冷たいものを飲みたいなどと言ったものです。熱があったのでしょう。冬でもいつも寝汗をかいて、朝はボーッと赤い顔をしていましたから。
 でも、私は、主人の健康を守るために生まれてきたようなものですから、当時と比べて、今のように、信じられないほど元気になった姿を見られることは、私の最大の幸福なのです。
 佐々木 それは、すべての学会員の気持ちでもあると思います。
5  一家をあげて学会のために
 夫人 ありがとうございます。三人の子どもは、信心を自分なりに理解し、取り組むようになりました。
 こんなことも、ありました。
 三男の尊弘が高校生の時に、小笠原に星の観察に行くというのです。私は未来部の会合に出るべきだと言ったのですが、学校の友人たちとの前々からの約束だから、どうしても断れない、と言います。
 主人に相談したら、「信仰は一生涯取り組むべきものだし、長い目で見れば、今回は小笠原に行かせてもいいのではないか。大事なのは、信心しぬくことなんだから」と言うのです。私も、なにかホッとしまして……。
 長じて、信仰への理解が深まるにつれ、学会の指導や広布の実践に関しては、「父」というより「師匠」として、きちんと主人に接するようになっていきました。
 松岡 周りで拝見していても、師弟の関係を踏まえておられ、本当にすがすがしく感じております。
 夫人 二男の城久は二十九歳で亡くなりましたが、世の親御さん同様、私も悲しみを味わって、人間として人の苦しみや悲しみを深くわかるようにしていただきました。なにか苦しみや悲しみがなければ、本当に人の苦しみゃ悲しみを知ることはできないものですね。
 人生はすべてが生かされて、体験になるものですね。
 佐々木 先日、先生のお孫さんの貴久さんにお会いした時に、本当に大きくなられたので驚きました。
 立派になられ、貴公子ですね。もう大学生になられたようですね。
 奥さまと、城久さんの奥さんと、貴久さんと、和やかに語りあっておられるお姿を見て、じつにすばらしい光景だと感じました。和やかに楽しそうに、手をつないで歩かれていたお姿を、私は忘れることはできません。
 夫人 博正は大学(慶麿義塾大学)を卒業し、就職するにさいし、いろいろな会社からお声をかけていただいたようです。でも、教育を終生の事業とする父親の姿を見て育ったせいでしょうか、みずから教職の道を選び、関西創価学園にお世話になりました。
 今は対外的な諸活動が増えましたので、主人の名代として動くことが多くなりましたが、皆さまのお役に立ってほしいと願わずにおれません。
 尊弘も創価大学を卒業後、教職の道に進み、関西創価小学校に就職しました。最近は手がいくつあっても足りない状況ですので、主人の近くで動くことが多くなりました。
 松岡 奥さまは尊弘さんの就職にさいし、「大学の先生になるより、小学校の先生の方が、子どもたちにあたえる影響を思えば、大事でしょう」と言われたと、先生からうかがったのですが。
 夫人 ええ、そう申しました。牧口先生、そして戸田先生も、小学校の先生でいらしたでしょう。創価教育学会が、学会の栄えある発足ですもの。
 池田 私は公私を立てわけ、これまであまり家のことは話しませんでしたが、ここでは、いろいろとオープンにされてしまった。(笑い)
 松岡 ありがとうございました。読者の要望が多かったものですから……。
 池田 私は、戸田先生の弟子として、命の続くかぎり、広布に尽くしていきます。一家をあげて、学会のために、会員の皆さまのために、働かせていただくのみです。
 一九七五年にグアムで、SGIの会長に就任した時、私は世界の代表に、こう呼びかけました。
 「皆さまは、自分が花を咲かせようというのではなくして、全世界に妙法の種をまいて、尊い一生を終わってください。私も、そうします」と。
 この決意は、終生変わりません。

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