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日蓮大聖人・池田大作

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生涯現役の心意気  

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

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2  晩秋の栃木で檜山先生と再会
 松岡 人に温かみをあたえるということでは、小学校で池田先生の担任をされていた檜山浩平先生が言っておられたことを思い出します。
 池田ああ、檜山先生ね。懐かしいですね。立派な先生でした。昭和十三年(一九三八年)から昭和十五年(一九四〇年)まで、蒲田の椛谷小学校の五年、六年の担任をしていただいた。かつて、栃木の県幹部会に行ったとき、その前年に校長を定年退職されていた檜山先生が、ご夫妻で、バスに一時間半揺られて会いに来てくださった。(一九七三年十一月)
 松岡 会場の体育館の控室で、池田先生と檜山先生がおたがいに「先生……」と呼んで、楽しそうに会話をされていた。
 佐々木 なんともいえない、心和むすばらしい光景ですね。
 松岡 その直後、檜山先生に取材記者としてインタビューをしたのです。
 初めは、「そうですね、池田先生は……」と、前の会話の続きの口調だったのですが、「小学校時代の池田先生は、どんな生徒でしたか」と聞くと、とつとつと次のように語り始められました。
 「なんと言いますかね。あの子は、友だちに温かみをあたえる子だった。それが、そのまま大きくなって、他人に温かみをあたえる人間になった。そんな気がします」
 佐々木 昔を想いめぐらされて、「先生」から「あの子」になったわけですね。おもしろいですね。
 松岡 そうなんです。このようにも言われていました。
 「あの子は、小学校のとろから、友だちの信頼が厚い子でしてね。決して言い訳などしない、落ち着いた子でした」
 池田 いつになっても、先生という存在は、ありがたいですね。あの時も「体を壊さないように頑張ってください。本当に休む暇もないようで……」と、親身になって心配してくださった。
 あるときは「高木は風に妬まれる」とのことわざを引いて、励ましの手紙をくださったこともあります。
3  ″よし、やるぞ″と雄々しき心で
 佐々木 もう一人、関西で紹介したい人がいます。和歌山の福本ツヤさんで、数年前まで旅館経営をされていた九十三歳の方です。
 聖教新聞和歌山支局の記者が取材に行きました。支局から車で二時間ぐらいかかる西牟婁にしむろ郡に住んでおられます。
 渋滞に巻き込まれて、約束の時間に五分ほど遅れてしまった記者を、出迎えた福本さんは開口一番、机を叩いて「遅い!」と一言。一呼吸おいて破顔一笑し、「遠い所、ご苦労さまでした」と。
 ともかくその間合いが絶妙で、圧倒されてしまった。(笑い)
 松岡 昭和三十年(一九五五年)に始めた旅館を、八十九歳まで一人で切り盛りされてきた。その間三十七年余、毎朝三時半に起床し、勤行・唱題。お客さんの履物の音を聞いてから吸い物を温め、食事の手配をする。
 そのこまやかな心配りで、わずか四部屋ながらも多くのお客さんに慕われ、旅館を続けてこられたといいます。
 佐々木 福本さんは、「九十になって初めて、年いったなと感じた」というのですから驚きです。
 現在、その旅館は改装され、息子さん夫妻が食堂を営んでいるのですが、今も福本さんは、毎日、九十匹のエビの皮をむくなどの手伝いもされている。
 「できるだけ、自分のことは自分でやります。弱音を吐いたら、病気が寄ってくる。負けたらアカン! 掃除もするから力も強いんや」と。(笑い)
 この「負けたらアカン!」という時、右の拳を固め、天を突く、この動作で人を励まし、みずからも確認するというのが、福本さんのトレードマークです。
 池田 まさしく関西魂そのものだね。
 私が、関西をとよなく愛し、どこよりも安心しているのも、そうした不屈の庶民の心意気と、飾らない人柄にあるのです。
 人生は闘争であり、勝負である以上、勝利する以外にない。戦いである以上、勝たねば不幸になる。負けてしまえば″この人生をぞんぶんに生きた″との喜びは、手にできないのです。
 そのための根本の法を説いたのが、仏法です。決して観念ではない。
 ″よし、やるぞ!″と雄々しき心が大切です。信心とは、一に勇気、二に勇気といってもよい。一日一日を、自分らしく勝利していく――その繰り返しのなかにしか、三世にわたる幸福と勝利の軌道を築いていく道はありません。
 御書に、「仏法と申すは勝負をさきとし」とありますが、私はこの五十年間、まさにその思いで広布の戦野を駆けてきました。
 たとえ人生の上で一時負けたとしても、広宣流布の戦だけは絶対に負けるわけにはいかない。民衆救済の尊い使命ある学会は、なにがあろうと、負けてはならないのだ――と、火を吐くように言われていた戸田先生の言葉を、何度も何度も反芻しながら、広布の道を開いてきたのです。
4  高熱を押しての雄揮の指揮
 松岡 わかりました。深く心に刻みます。
 福本さんにとって忘れられない思い出は、昭和四十四年(一九六九年)の十二月、池田先生が出席されて行われた和歌山の県幹部会だったといいます。
 会合の最後で「武田節」の指揮を執られた先生の姿を克明に覚えており、「まるで鶴が舞いおりたように美しかった。皆がわーっと吸い込まれるようでした」と、述懐していました。
 池田 あの時は、最悪の体調で、熱が四〇度近くありました。肺炎だったのです。熱っぽくて苦しくて、口はカラカラで、唇は真っ白に乾くし、体がぞくぞくと震えて、関西指導の途中に妻に駆けつけてもらった。
 食欲もまったくなく、疲労は限界に達していましたが、和歌山の同志が待っているので、私は行きました。
  和歌山の
    友の魂
      とどめむと
    熱き生命の
      舞の歴史は
 と詠みました。
 松岡 鬼神も哭く、先生の激闘、舞の指揮に、和歌山の同志は連戦連勝の伝統を築きました。
 佐々木 福本さんも、その時の感激を胸に、頑張ってこられました。
 長年、日課として、「聖教新聞」に連載の「きょうの発心」をノートに書き写し、そのノートは七十九冊目になった。最近は、拡大鏡を片手に、先生の長編詩も書き写すなど、「おかげで、転んで骨を折ったこともない。涙流すほど苦労してきたけど、今は天下泰平じゃ!」と笑顔です。
 池田 山を越え、あらゆる苦労を乗り越えて、初めて人生は光るのです。
 牧口先生は、「昔はよかった、ああだ、こうだと、昔の自慢話ばかりする人は、今が悪いという証拠である。その反対に、昔は悪かったと話す人は、今がよい生活をしている人である」と述べられている。この端的な表現のなかに、人生の極理が説かれている。
 仏法は「旭日」の法です。
 「衆罪は霜露の如し慧日能く消除す」(開結七一一ページ)です。すべてを「希望」へと転じ、上昇していけるのです。

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