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日蓮大聖人・池田大作

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作是教已。復至他国。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

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9  われらは戦うただ「民衆のために」
 方便の滅度を説いた釈尊の「心」──それは、「衆生の為めの故」という一語に尽きる。「ただ民衆のためのゆえ」に、無量の寿命がありながら、方便力をもって自身の入滅を示すというのです。
 この慈悲の心は、説法の場に連なった大衆の胸奥に、深く深くしみわたっていったにちがいない。師の心を、心で受け止めた民衆にとって、「虚妄の過」であるはずがありませんでした。以前に学んだように、仏語は「皆な実にして虚しからず」なのです。
 これが、「方便」と「虚妄」の根本的な違いです。見極める基準です。すなわち、民衆への深い慈悲から出たものか否か。また実際、民衆の人生の向上に資するものか否か──これが眼目です。
 一つの参考ですが、ドイツの哲学者ヤスパースは、社会一般の指導者論として、次のように論じています。
 「民主主義者も独裁者も、両者ともに民衆に呼びかける。(中略)誰れが成功をかちとるかは、ただその時々の民衆が判決をくだしうるのであるが、このことは、民衆が自分自身についても判決をくだすのと同じなのである」(『歴史の起源と目標』重田英世訳、『ヤスパース選集』9所収、理想社)と。
 民主主義者も独裁者も、形の上では、民衆に呼びかける点で同じなのです。
 ですから、彼らの言葉が真実であるか偽りであるかを見極めるのは、あくまでも民衆自身になる。それは、民衆が、自分自身の進む方向を決める選択にほかならない。ゆえに、どこまでも民衆自身が聡明になるしか道はありません。そして、この「民衆のために」(衆生の為めの故に)──わが身を削って真実を語り、行動しぬくのが仏法者なのです。
 虚飾渦巻く現代にあって、「為衆生故」の行動をまっすぐに貫いているのが創価学会です。このことを確信し、また堂々と証明しながら、私どもは、楽しく前進していこうではありませんか。

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