Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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作是教已。復至他国。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
8  〔講義〕
 「良医病子の譬え」を説き終えた釈尊は、「さて、この良医はうそつきと言えるだろうか」と、弟子たちに問いを投げかけています。
 「どう思う?」「決してうそとは言えないだろう?」と。
 そして、弟子たちが同意するのを待って、「私も同じです」と、良医に重ね合わせる形で、自身の心境を語り出しているのです。このへんも、釈尊と弟子たちの心通うやりとりの雰囲気が伝わってくるところです。決して一方的ではない。独断的ではない。こうした心の指導者が、今の社会にはいなくなってしまった。
9  われらは戦うただ「民衆のために」
 方便の滅度を説いた釈尊の「心」──それは、「衆生の為めの故」という一語に尽きる。「ただ民衆のためのゆえ」に、無量の寿命がありながら、方便力をもって自身の入滅を示すというのです。
 この慈悲の心は、説法の場に連なった大衆の胸奥に、深く深くしみわたっていったにちがいない。師の心を、心で受け止めた民衆にとって、「虚妄の過」であるはずがありませんでした。以前に学んだように、仏語は「皆な実にして虚しからず」なのです。
 これが、「方便」と「虚妄」の根本的な違いです。見極める基準です。すなわち、民衆への深い慈悲から出たものか否か。また実際、民衆の人生の向上に資するものか否か──これが眼目です。
 一つの参考ですが、ドイツの哲学者ヤスパースは、社会一般の指導者論として、次のように論じています。
 「民主主義者も独裁者も、両者ともに民衆に呼びかける。(中略)誰れが成功をかちとるかは、ただその時々の民衆が判決をくだしうるのであるが、このことは、民衆が自分自身についても判決をくだすのと同じなのである」(『歴史の起源と目標』重田英世訳、『ヤスパース選集』9所収、理想社)と。
 民主主義者も独裁者も、形の上では、民衆に呼びかける点で同じなのです。
 ですから、彼らの言葉が真実であるか偽りであるかを見極めるのは、あくまでも民衆自身になる。それは、民衆が、自分自身の進む方向を決める選択にほかならない。ゆえに、どこまでも民衆自身が聡明になるしか道はありません。そして、この「民衆のために」(衆生の為めの故に)──わが身を削って真実を語り、行動しぬくのが仏法者なのです。
 虚飾渦巻く現代にあって、「為衆生故」の行動をまっすぐに貫いているのが創価学会です。このことを確信し、また堂々と証明しながら、私どもは、楽しく前進していこうではありませんか。

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