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日蓮大聖人・池田大作

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寿量品について  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

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1  生命のドラマ・如来寿量品
 「生きる」ということ──それは最大の神秘です。最大の不思議であり、謎であり、ロマンです。
 この人生を「生きる意味」とは何か。わが生命の「本来の姿」とは何か。われわれは「どこから」来て、「どこへ」行こうとしているのか──。これは、人間としての最も根本的な問いかけでしょう。
 どんなに物質的に豊かな生活をしていても、どんなに楽しく遊んで暮らしても、この根源の問いから目をそらしていては、真実の幸福も充実感も得られません。この根本の問いに答えたのが、法華経の如来寿量品第十六です。
 寿量品について、日蓮大聖人は、「一切経の中に此の寿量品ましまさずば天に日月の・国に大王の・山河に珠の・人に神のなからんが・ごとく」と述べられています。寿量品は、すべての経典の星々の中で最も輝く日月であり、すべての哲学中の王であり、すべての思想の中で最大の価値をもつ宝石であり、仏法の魂です。また、寿量品がなければ、すべての経典は「根無き草」「みなもとなき河」(同ページ)となるとも仰せです。あらゆる経典──開いて言えば一切の思想・哲学・宗教の「根っこ」となる生命の問題に、完壁な解答を示したのが寿量品なのです。
 いよいよ、この生命のドラマ・寿量品を、ともどもに学んでまいりたい。日々、私たちは寿量品の自我偈を読誦しますが、この寿量品の真髄を、できるだけ分かりやすく述べていきたいと思います。
2  寿量品には何が説かれているのか
 まず、如来寿量品には、いったい何が説かれているのでしょうか。端的に言えば、「永遠の生命」が説かれています。「寿量」とは″寿命を量る″ことです。仏の寿命が″無量″であると明かしたのが寿量品なのです。
 しかも、大切なことは、釈尊が自分自身の生命に即して「永遠の生命」を説いたということです。「永遠の生命」は決して抽象論ではありません。また、架空の話でもない。釈尊自身のいわば″体験談″なのです。
 この″体験談″の要旨を言えば、こうなります。
 ──多くの人は、私(釈尊)が若くして出家し、修行して、伽耶城近くの菩提樹の下で成仏したと思っているであろう。しかし、そうではないのだ。私は、じつに、五百塵点劫という考えも及ばないはるかな昔(久遠)に、すでに成仏していた。それ以来、この裟婆世界や他の無量の国土で無数の衆生を教化してきた。このように私の寿命は無量であり、常住にして不滅である──と。
 釈尊は、はるか久遠に成仏していた──これを「久遠実成」と言います。これに対して、釈尊が今世で始めて成仏したことを「始成正覚」と言います。
 ここで疑問を持つ人がいるかも知れません。″永遠の生命とはいうが、実際には、釈尊は入滅したではないか。仏の寿命もやはり有限ではないか″と。
 もっともな疑問です。これについては、寿量品に答えを見いだすことができます。すなわち、この世で始めて成仏し、入滅していく始成正覚の釈尊は″方便″の仏であり、常住不滅の久遠実成の釈尊こそ″真実″の仏であると、寿量品では説かれています。
 方便とは、すでに学んだように、衆生を導くための手立てです。仏の生命は真実には永遠であるが、衆生の求道心を高めるために、仮に方便として有限な姿をあらわし、方便として入滅していくのです。これが寿量品の答えです。
3  「永遠の生命」の壮大な叙事詩
 さらに、こういう疑問の声もあるかと思う。″永遠の生命といっても、仏だけの話ではないか。われわれ凡夫には何の関係もないのではないか″と。
 ところが、大いに関係があるのです。関係があるどころか、久遠実成の釈尊とは、つきつめていくと、じつは私たち自身、衆生自身のことなのです。日蓮大聖人は「(如来寿量品の)如来とは一切衆生なり」と仰せです。「永遠の生命」は、仏だけでなく、一切衆生の生命の真実の姿なのです。
 釈尊は、自ら悟った「永遠の生命」を明かすために、久遠実成の仏としての本地(真実の境地)を示しました。久遠実成の仏とは、「永遠に民衆を導き続ける仏」です。成仏した結果である仏の姿として永遠の生命を説くのが文上の法門です。
 しかし、この仏の姿も、究極するところ、宇宙根源の妙法の働きなのです。三世永遠の妙法が、一人の生命に蓮華のように花開き、苦悩の現実の中で清らかに気高く、慈悲と薫り、智慧と輝くのが仏の真実の姿なのです。
 この妙法の活動が永遠なのです。すなわち、妙法蓮華経こそ久遠実成の仏の実体であり、釈尊をはじめすべての仏は妙法の働きなのです。
 こうとらえるのが寿量文底の法門ですゆえに大聖人は「妙法蓮華経こそ本仏」であると述べられています。そして、この文底の立場から「如来寿量品」の「如来」とは「南無妙法蓮華経如来」、すなわち大聖人御自身であると宣言されているのです。
 さらに大聖人は、「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり」と述べられています。つまり、寿量品の主体者は、南無妙法蓮華経を受持する私たちでもあると、御本仏がはっきりと断言してくださっているのです。「永遠の生命」の壮大なる叙事詩・寿量品──皆さまこそ、その主役なのです。
4  妙法に生きるわれらは「生死ともに遊楽」
 この永遠の妙法に生きゆく私どもの人生は、「永遠の安穏」「永遠の歓喜」「永遠の遊楽」の人生です。無限の大宇宙を旅するような自在の境涯で、幸福の大道を歩んでいける。まさに「生も歓喜」「死も歓喜」の秘法を説くのが寿量品なのです。
 法華経は、全民衆を幸福にする経典です。なかんずく、寿量品には、釈尊が入滅した後においても全人類を救済できる大法が説き残されている。それが、寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経です
 大聖人は仰せです。「末法に入て爾前迹門は全く出離生死の法にあらず、但専ら本門寿量の一品に限りて出離生死の要法なり」と。
 末法の民衆を救済する法は、法華経の中でもただ寿量品一品に限るのです。出離生死とは、生死の苦悩からの解放です。民衆が根本から幸福になることです。
 寿量品では、すべての人の生命の本源である「永遠の生命」が説かれました。この寿量品を聞いて得られる「功徳」とは何か。──分別功徳品には「仏寿の無量なることを聞いて 一切皆な歓喜す」(法華経五〇一ページ)と説かれています。「永遠の生命」を知って、すべての人が生命の奥底からの「歓喜」を起こすのです。この歓喜こそ、いかなる深い苦悩も吹き飛ばす妙法の力なのです。
 言うまでもなく、この功徳とは文底の南無妙法蓮華経の功徳にほかなりません。大聖人は「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と仰せです。
 戸田先生も、御本尊を受持した境地を「根底が安心しきって、生きてること自体が楽しい」と表現しておられた。
 このように南無妙法蓮華経は、根源的に万人の生命を輝かせる大法なのです。生死の苦悩に沈む末法の衆生を根底から救う大良薬なのです。
5  わが同志こそ尊き「地涌の菩薩」
 その大良薬たる南無妙法蓮華経を末法の人々に教え、弘めていく″主人公″が地涌の菩薩にほかなりません。地涌の菩薩とは、久遠の妙法を自身の生命に所持した菩薩です。
 大聖人は「本法所持の人に非れば末法の弘法に足らざる者か」と仰せです。「本法」とは南無妙法蓮華経です。
 先に述べたように、末法の衆生を救う大良薬とは、寿量文底の南無妙法蓮華経です。南無妙法蓮華経は″生命の法″です。したがって、自らの生命にこの法を所持し、末法の衆生のために顕していける人でなければ、末法の衆生を救うことはできません。
 日蓮大聖人は、地涌の菩薩の上首・上行菩薩の再誕として、末法の民衆を救うために、寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経を御自身の魂とし、その御生命を御本尊として顕されたのです。
 また、大聖人は「此の本法を受持するは信の一字なり、元品の無明を対治たいじする利剣は信の一字なり」「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」とも仰せです。
 御本尊を信じ、大聖人と同じ心で広宣流布に邁進する私どもも、大聖人と同じく本法を所持する地涌の菩薩なのです。
 地涌の菩薩は″裟婆世界の下方の空中″から涌出してきた菩薩であると、法華経涌出品には説かれています。この「下方」について大聖人は、「下方とは真理なり」と示されている。
 地涌の菩薩は″真理の世界″から現実の裟婆世界に涌出してきた菩薩です。すなわち、宇宙の根源の大法──南無妙法蓮華経から、民衆のなかへ躍りでてきた勇者なのです。だから、行き詰まりがない。妙法の世界から無尽蔵に本源の生命力と智慧を汲み上げることができる。悪世末法においても、身をもって妙法を弘め、大難を忍ぶことができるのです。
 濁悪の末法で、大聖人の仰せのままに、仏法を現実の大地に弘めている人は、皆、誰人も地涌の菩薩です。今日に、おいては、経文に説かれる地涌の菩薩の姿は、すべて学会員の姿です。
 地涌の菩薩は「志念堅固」(法華経四五九ページ)──一度決めたらやり通す決意の人、持続の人です。なかでも多宝会の皆さま方は、草創以来、何があっても信心を貫いてこられた。どんな中傷のなかでも、一度決めた志を捨てなかった。不退転という「地涌の勲章」を輝かせながら。
 また、経文に「善く菩薩の道を学び、世間の法に染まらないのは、蓮華が泥水のなかで華を咲かせるようである」(法華経四七一ページ、通解)と。
 学会員は、五濁強盛な社会にあって、汚泥に染まらず、たくましく、純粋に仏法の世界に生ききってきた。現実の泥水の中で苦しむ人々を救ってきた。この人間の中に飛び込むことを厭い、離れて、ただ山の中にこもっていては、地涌の使命は果たせません。
6  対話の達人、勇気の戦士、信念の王者
 さらに、「難問答に巧みにして 其の心に畏るる所無く 忍辱の心は決定し 端正にして威徳有り」(法華経四七二ページ)ともあります。「難問答に巧み」──一言で言えば「対話の達人」です。第一線の中に生きた智慧がある。いわれなき悪口に対しては、「では、人生の幸福とは何か、語り合ってからにしましよう」と、一言でしなやかに押し返す智慧。皆さまこそ難問答に巧みな智者です。
 「其の心に畏るる所無く」──皆さま方は何者をも畏れない「勇気の戦士」です。民衆を蹂躙する邪悪な勢力とは、断固、戦ってきた。
 「忍辱の心は決定し」──粘り強さは、皆さまの真骨頂です。友の中にはグチばかりの人もいる。わがままな人もいたかもしれない。しかし、友を見捨てることは絶対にしなかった。最高のにんにく忍辱の人です。また、自身の困難にも、忍辱の二字で打ち勝ってきた。まさに「慈悲の王者」「信念の王者」です。
 「端正にして威徳有り」──心が、生命が輝いている。人を引きつけて止まない人間的魅力にあふれている。その豊かな人徳には、だれもが納得せざるをえない。
 このように、皆さま方一人一人が「「地涌の力」をもっているのです。あの支部長さんみたいだあの多宝会のおばあちゃんかなとなりのブロック担当員(現・白ゆり長)さんのことだ、と納得し、うなずいている人たちも、たくさんいるでしょう。
7  「地涌の実践」を現代に展開
 地涌の菩薩は、「人中の宝」(法華経四六九ページ)です。地域の宝です。日本の、世界の宝です。それほど尊貴な存在なのです。皆さま方一人一人に「地涌の心」がある。妙法厳護の「心」があり、「この人を励まそう」「あの人の心の痛みを、少しでも和らげてあげよう」という菩薩の「心」をもっている。あらゆる人を心から敬う。そこにこそ、法華経の心があり、地涌の菩薩の精神があるのです。
 また、皆さま方一人一人には「地涌の実践」がある。地涌の菩薩は、人々が最も苦しんでいる時、悲しんでいる所に生まれる。大聖人は末法の時代の様子を「執心いよいよ強盛にして小を以て大を打ち権を以て実を破り国土に大体謗法の者充満するなり」と仰せです。
 これは、大小や権実の教えが雑乱していることを指している御文ですが、現代社会の精神的風潮をも見事に言い当てています。低い価値観への執着が強く、卑小なものを好み偉大なものを嫌う。かりそめのもの、偽物を好み本物を嫌う。末法とは、浅い思想・生き方が受け入れられ、深い生き方を軽蔑する時代です。
 そんな顛倒した社会のなかで、目的地を失い放浪する人に、真の生き方を説き続けてきたのが学会員です。まさに「一人一人が大衆の唱導の首」(法華経四五三ページ、通解)とあるとおりの、民衆のリーダーとして光を送り続けてきた。
8  人類に「希望」を広げる大偉業
 今年(一九九五年)は、終戦五十年──。戸田先生が荒野に一人立たれて、学会再建の第一歩を印されてから五十年でもあります。学会員の皆さま方の魂の歴史は、日本のここかしこに刻まれています。
 住民を巻き込み、凄惨な地上戦が行われた沖縄で、また人類史上で初めて原子爆弾の災禍を受けた広島、長崎で。どの地にも、平和の種が植えられ、幸福と繁栄の大樹が育った。
 高度成長のなか、離農が相次いだ過疎の村々で、閉山になった炭鉱のヤマで、そして離島で。また、人々の心が砂漠となった都会でも。
 大変な場所で、だれもが「がうじやう強盛はがみ切歯をして」──歯を食いしばって頑張た。顛倒ゆえの、いわれなき非難と、中傷の嵐にも耐えた。そして、勝った。はつらつとした齢さんの笑顔が、日本を大きく変えたのです。また、その同じ笑顔が、世界の各地にも広がっている。
 戸田先生は、断言された。
 「われわれは末法に七文字の法華経を流布すべき大任をおびて、出現したことを自覚いたしました。この境地にまかせて、われわれの位を判ずるならば、われわれは地涌の菩薩であります」(『戸田城聖全集』3)と。
 皆さま方が恩師の師子吼を事実のうえで証明したのです。二十世紀の地涌の菩薩が果たした大偉業を、御本仏が、そして諸仏がどれほど讃嘆し、どれだけ喝采を送っていることか。
 しかし、世界には、まだまだ「悲惨」「苦悩」がある。日本も世界も混迷の度を深めている。地涌の長征は続きます。平和のために、幸福のために。そのためにも、いっそう、健康ではつらつと、そして長寿で──。皆さまの笑顔を、世界が待っています。
9  寿量品の題号の意義
 「妙法蓮華経如来寿量品第十六」──古来、法華経を読誦した人々は、この題号を読んで何を思い、何を考えたのでしょうか。多くの人々は、何気なく読み過ごしたことでしょう。反対に、この題号をめぐり、観念的な議論に熱中した人々も少なくなかった。
 まれには、天台のように、寿量品の内容を正確につかみ、そこから題号の意義を読み解いた人もいた。しかし、いずれにしても、この題号を、日蓮大聖人が読まれたように鮮明に読んだ人は、一人もおりませんでした。否、読めなかったのです。
 大聖人は、寿量品の題号を、こう読まれた。
 「此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり」と。
 寿量品の題号を自分の「身に当る大事」と読む──このように読める人は大聖人ただ御一人だけなのです。そのことは「神力品の付属」と密接にかかわります。
 すなわち、法華経の如来神力品第二十一で、釈尊は、上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩に、釈尊滅後の法華経弘通を託します。
 地涌の菩薩に託された、末法濁世の人々を救済する法──その実体は、寿量品の文底に秘沈されている南無妙法蓮華経です。久遠元初の大法です。
 日蓮大聖人は、この南無妙法蓮華経を御自身の御生命に所持されていた。そして、ひとまず上行菩薩の再誕としての御姿をあらわし、この妙法を末法の衆生のために弘められたのです。このゆえに、大聖人は寿量品の題号を「身に当る大事」とされたのです。
10  「南無妙法蓮華経如来の功徳を量る」の義
 また、寿量品の題号には、南無妙法蓮華経の功徳が示されている。この点について、もう少し立ち入って述べてみたい。
 題号の「如来寿量」とは、「如来の寿命を量る」ということです。如来の″寿命の長さ″を量ることは、″如来に具わる功徳の広大さ″をも量ることです。仏の寿命が長遠であれば、それだけ多くの人々を救える。功徳が大きいしたがって、天台は、「寿量」の意義について、「功徳を詮量する」、すなわち、さまざまな如来の功徳を量り、明らかにすることであると説明している(大正三十四巻一二七ページ)
 天台は、如来に具わる功徳として、具体的に、法身(悟られた真理)・報身(悟る智慧)・応身(衆生に応じて現す姿)の「三身」を挙げている。そして、この「三身」の徳を一身に具える真実の常住の仏は、久遠実成の釈尊であると説き明かしている。
 これに対して、文底では、三身常住の仏の功徳の根源が、南無妙法蓮華経であるととらえます。久遠実成の仏の具える功徳は、すべて南無妙法蓮華経に帰するのです。ゆえに大聖人は、寿量品の題号は、「 南無妙法蓮華経如来寿量」と読むべきであると示されているのです。
 戸田先生も「ここに南無というこ字をおつけになっただけで、如来という二文字の読み方が、ぜんぜん変わってくる」(『戸田城聖全集』5)と強調されていた。寿量品の題号を「南無妙法蓮華経如来寿量品」と読むとき、″文底の仏である「南無妙法蓮華経如来」の功徳を量る″という意味になるのです。
 大聖人が「此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり」と仰せになっているのも、御自身が文底の南無妙法蓮華経如来」であられるからです。
 また、この文底の仏を「無作の三身」とも言います。無作とは″本来″″ありのまま″という意味です。大聖人は「無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」とも仰せです。
11  民衆仏法の極意──「如来とは一切衆生なり」
 さらに、大聖人は「如来とは一切衆生なり」、「日蓮の弟子檀那なり」とも仰せです。私たちが南無妙法蓮華経を真剣に唱えれば、私たちの生命にも本来具わっている「無作の三身」が「念念に起る」のです。なんとすばらしいことでしょうか。私たち一人一人も、寿量文底の南無妙法蓮華経の功徳を表し量ることができるのです。
 大聖人の仏法から言えば、妙法に生きる私どもの無量の功徳をも量り、讃嘆しているのが「如来寿量品」なのです。したがって、文底の立場から見れば、この寿量品の題号は、燦然たる「民衆仏法」の光を放っているのです。
12  寿量品までの流れ
 法華経方便品以下では、舎利弗ら弟子たちが、次々と将来、仏になることが約束される。
 法師品第十からはテーマが変わり、釈尊滅後にだれが法華経を弘通するかが主題となる。
 宝塔品第十一では、荘厳な宝塔が大地から涌出する。
 そして虚空会の儀式が始まる。
 釈尊の呼びかけに答えて、迹化の菩薩(まだ久遠実成を明かしていない迹仏によって化導された菩薩)や声聞たちが、次々と釈尊滅後に法華経を弘めることを誓願する。他方の菩薩(他の国土、つまり裟婆世界以外に住む仏によて教化された菩薩)も集まり、「三類の強敵の迫害を受けても、命を惜しまず弘教する」と誓願した。
 しかし、釈尊は、この菩薩たちに滅後の弘通を託そうとせず、涌出品第十五で「この裟婆世界には、六万恒河沙という多くの菩薩たちがいる。この菩薩たちこそ、私の滅後に正法を弘通する者である」と語り出す。
 その時、突然、大地が割れ、たくさんの菩薩が地から涌き出る(地涌の菩薩)。それぞれが、リーダーとして、数多の人々を率いていた。
 地涌の菩薩は、立派な威儀と福徳を具えていた。その中のリーダーが、上行、無辺行、浄行、安立行の四人であった。
 その座にいた菩薩たちは、驚いた。人々を代表して、弥勒菩薩が地涌の菩薩の出現の意義を問う。
 「よくこの大事を聞いた」と弥勒を讃え、釈尊は語り始めた。
 「私は久遠よりこのかた、これらの人々を教化してきたのだ」
 皆、驚きと疑いを生じ、弥勒が代表して問う。いつ、この菩薩を教化したのか。どうか真実を語ってください、と。(動執生疑)
 この問いに対して釈尊は、如来寿量品を語り始める。
 そして、神力品第二十一で、釈尊は、地涌の菩薩に滅後の弘教を付嘱するのである。
13  本門と迹門
 法華経は二十八の品(章)からなる。このうち、前半の十四品が迹門、後半の十四品が本門と呼ばれている。
 本門とは、本仏の説いた教えのこと。迹とは″影″の意味で、迹門とは本仏の影である迹仏が説いた教えのことをいう。
 法華経の迹門では、釈尊は始成正覚の仏(迹仏)として法を説いている。しかし本門に入って、五百塵点劫の昔に成道した久遠実成の仏(本仏)の立場を顕した。こうした真実の境地を「本地」という。
 迹門と本門の関係は、たとえて言えば、迹門は「天の月が水に映った影(水月)」であり、本門は「本体である天月」にあたる。

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