Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「師子王の心」もつ民衆の誕生  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

前後
1  魔の本質は「奪命者」
 森中 これまで駿河における若き日興上人の弘教の戦いと、熱原法難の初期の動向を考察していただきました。引き続き、熱原の法難について考察していただきたいと思います。
 池田 青年と民衆が立ち上がり、見事に師の戦いを継承した。そして、勝ちきった。そこに熱原の戦いの真髄があります。この頃、大聖人は門下に「日蓮と同じく」「日蓮が如く」と呼びかけられている。この師の烈々たる呼びかけに応え、庶民の弟子たちが、大聖人と同じ心で、命に及ぶ大難に立ち向かい、師弟不二の実践を見事に貫いたのです。
 斎藤 その民衆の代表が神四郎、弥五郎、弥六郎のいわゆる「熱原の三烈士」ですね。この三人の兄弟が入信するのが弘安元年(1278年)ですが、この年は2年越しで疫病が蔓延し、また飢饉も起こり、多くの死者が出た大変な年でした。
 池田 民衆が、そうした大変な苦悩に直面していた時に、熱原・滝泉寺の院主代・行智らの腐敗・堕落は極まっていく。
 森中 はい。行智は、僧職にありながら、鶉を狩り、狸を殺し、鹿を取っては食っていた。さらには、毒物を仏前の池に入れて多くの魚類を殺し、村里に出して売ったりしました。はては、法華経の教典を渋紙(柿渋を塗って防水・補強した紙)に作り変えて、堂舎の修理に使ったりもしました。
 池田 行智の悪行は目に余るものがあった。民衆への同苦を忘れた宗教は、たちまちのうちに魔物になる。その卑劣な魔手が、ついに農民信徒に襲いかかっていく。
 斎藤 はい。まず、弘安2年(1279年)4月のことです。行智は、富士下方の得宗政所の役人と結託して、神事中に法華信徒・四郎男(四郎の息子)に刀で斬りつけ傷を負わせます。
 森中 さらに、同年8月には弥四郎の息子の頸を刎ねて殺害します。しかも、それらの罪を、日秀ら大聖人門下になすりつけようとしたのです。
 池田 大聖人は、謀略とデマで法華経の行者を陥れようとする行智らの悪行は、釈尊在世の大悪人・提婆達多と同じである、と厳しく断罪されている。
 魔の本質は、「奪命者」「奪功徳者」です。民衆抑圧の勢力は、デマと謀略、果ては暴力を繰り返す。
 森中 デマで人間を動かそうとすること自体、人間性に対する最大の冒涜だと思います。
2  「日蓮と同じく」の実践の誉れ
 池田 風雲急を告げる9月16日、大聖人は寂日房はじめとする下総(千葉県北西部)の門下に与えられたお手紙の中で、御自身の戦いは上行菩薩の闘争に当たることを宣言されています。上行菩薩の闘争とは、どこまでも世間の中、民衆の中で「南無妙法蓮華経の五字の光明」を掲げ、末法の衆生の「無明煩悩の闇」を照らす戦いです。
 そのうえで「かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」と仰せです。
 〈通解〉――このような法華経の行者の弟子・檀那になる人は、過去世からの縁が深いと思って、日蓮と同じく法華経を弘めるべきである。
 まさに、立宗のその日から大聖人お一人が無明の闇を破る闘争を開始されて27年。「民衆こそ仏」、と立ち上がった戦う民衆が成仏への道を大きく開きつつあった。その時に、魔の跳梁も頂点を迎えた。それが9月21日の大事件です。
 森中 その日、熱原の農民門下が稲刈りをしていたところに、突然、馬に乗り武器をもった者たちが襲ってきました。大田親昌、長崎次郎兵衛尉、大進房らです。そして、神四郎はじめ農民信徒20人が、不当にも逮捕されました。
 斎藤 弾圧の張本人は、滝泉寺の院主代・行智です。行智一味は、日秀・日弁の田畠の作物を刈り取り、さらに乱闘騒ぎを起こします。
 森中 そして、神四郎らの兄である弥藤次入道を唆して、事実とは逆に、日蓮門下による乱暴狼藉として、幕府に訴えさせたのです。そのため、捕縛された熱原の信徒たちは鎌倉に連行されます。
 池田 行智らの訴えについて大聖人は「跡形も無き虚誕こたんなり」と仰せです。まったく根拠のない嘘、でたらめであった。
 斎藤 行智らが訴え出た罪状は、殺人、傷害、武装しての稲泥棒すなわち強盗です。これらは刑事事件なので侍所の管轄となります。その実質上の責任者は、あの平左衛門尉頼綱でした。
3  「滝泉寺申状」など、言論戦を展開
 池田 行智は、頼綱を頼りとして、本来なら無謀な訴訟でも勝てると踏んでいたのでしょう。事件は、いわば法廷闘争に移っていきます。
 大聖人は、この期間、頻繁に日興上人と書簡のやりとりをされています。矢継ぎ早に的確な手を打たれたと拝される。
 森中 そして、行智に訴えられた形となった日秀・日弁は、幕府に対して弁明書を提出することになります。
 池田 おそらく、日興上人を中心に、日秀・日弁らで綿密に下書きを作ったことでしょう。それに大聖人が加筆・修正をされたものが「滝泉寺申状」(849㌻)です。
 斎藤 前半では、大聖人の「立正安国」の願いに貫かれた不惜身命の御化導を要約し、真言亡国の現証を示して諫められています。また、後半は、行智の悪行を徹底して糾弾されています。
 池田 大聖人は冒頭に、行智らの悪の本質を「条条の自科を塞ぎさえぎらんが為に不実の濫訴を致す」と喝破されています。彼らは自分たちの罪を隠すために、人に罪をなすりつけ、虚偽の訴えを起こしたのです。
 森中 まさに現代で言えば、「狂言訴訟」であり、「訴権の濫用」にほかならないですね。
4  出世の本懐を遂げられる
 斎藤 また、この時、併せて日興上人に送られた御手紙(伯耆殿御返事1456㌻)で、大聖人は裁判における具体的な注意を与えられています。
 この御手紙の日付は、10月12日となっています。大聖人が大御本尊を御図顕された日と同じです。
 池田 大聖人が「聖人御難事」を認められ、出世の本懐を遂げられることを宣言されたのが、10月1日です。法戦の全魂の指揮を執られながら、一方で大御本尊御建立の準備をされていかれたと拝せる。
 斎藤 広宣流布の激闘の中で大御本尊を御建立された、ということですね。
 池田 広宣流布に戦う信心強き庶民群の本格的な出現を機に、大聖人は大御本尊を建立されたのです。
 3年前の建治2年(1276年)に著された「報恩抄」に仰せのように、南無妙法蓮華経が万年の未来まで流布して末法の人々を救っていける大法である。
 しかし、出世の本懐である大御本尊の建立は、それを受持し奉る「不惜身命の民衆」の出現を待たれて実現されたのです。
 捕らえられた20人は信念を揺るがさずに毅然たる姿を示した。このことは、何の力も持たない民衆が、障魔の強大な圧力を信心の力で跳ね返したことを示している。
 民衆が、仏界の生命を現し、生命の底力を発揮していくことこそが広宣流布の根本方軌です。
 熱原の民衆の深く強い信心は、妙法五字の大光明が、虐げられた末法の人々の胸中を赫々と照らしうることを証明しているのです。
 森中 末法の衆生の「無明煩悩の闇」を払う上行菩薩の使命を継ぐ人、つまり地涌の菩薩が無限に出現しうることをも証明していますね。
 池田 そうです。後世の地涌の菩薩ののために、広宣流布の大願をこめて顕された大御本尊です。何としても広宣流布を実現していこうという信心がなければ、大御本尊の偉大な功徳は現われるはずもありません。
 斎藤 現在、広宣流布の信心を受け継いでいるのは創価学会しかありません。三代会長の不惜身命・死身弘法の信心に連なった実践のなかにしか大御本尊の功力は現れないと確信します。
5  人権闘争の偉大な先駆
 森中 さて、20人の農民信徒の不退転の姿勢に、平左衛門尉頼綱は焦ったのではないでしょうか。10月15日に行われた彼の尋問の様子は尋常ではありません。
 斎藤 頼綱は次男の飯沼判官助宗に命じて、念仏を唱えるよう20人に強要します。蟇目の矢をさんざん射させるなど、迫害を加えます。
 池田 しかし、1人として退転するものはいなかった。平左衛門尉は最初から処刑するつもりではなかったかもしれない。しかし、権力の中枢に登り詰めている自分に対して、農民が断固抵抗し、自身の信念に殉じようとしている。
 この時、権力者の胸中にどうしようもない瞋恚の心が湧き起こっていったのではないか。
 斎藤 そして、無実の民衆の処刑へと暴走していくわけですね。
 池田 この20人の勇敢なる庶民の行動は、13世紀の封建時代の日本で起きた偉大な先駆の人権闘争です。苗字もない一介の農民が、厳然と宗教的信念を貫き、権力者の横暴に対して断固として「ノー」と叫ぶ。人類の人権の教科書の一頁を飾るべき出来事とも言えるのではないでしょうか。
 斎藤 三烈士の処刑日については、この10月15日の尋問の際に処刑されたという説と、翌弘安3年(1280年)4月8日説と、両説あります。
 森中 10月15日の尋問の様子について、日興上人からの急報を、大聖人は17日の酉の刻(午後6時頃)に身延で受け取られます。そして「偏に只事にあらず」と即座に筆を取られ、戌の時(午後8時頃)には返信を認め終えられて、弟子の淡路房を鎌倉へと遣わされます(聖人等御返事1455㌻)。
 池田 正確な情報、敏速な応戦、スピードが攻防戦の死命を制するのです。ゆえに、大聖人は迅速に手を打たれた。
 斎藤 この御手紙が「聖人等御返事」と呼ばれているのは、大聖人御自身が文末にそのように認められているところからです。
6  「師子王の心」を取り出せ
 池田 日興上人ら熱原の法難で命を賭して戦う弟子を大聖人は「聖人」と最大に称えられている。
 佐渡流罪の時にも学んだが、大聖人は、邪法の僧と権力者が結託して命に及ぶ弾圧を加えてきた時、「師子王の心」をもって屈せず戦い抜く人こそ仏になれると仰せです。
 法難のまっただ中で大聖人は、鎌倉や熱原の門下たちに、その「師子王の心」を取り出して、今こそ成仏の境涯を赫々と現していきなさいと仰せです。
 森中 「聖人御難事」のその御文を拝読します。
 「各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり
 〈通解〉――日蓮門下の一人一人は、師子王の心を取り出して、どんなに人が脅してもひるむことがあってはなりません。師子王は百獣を恐れません。師子王の子もまた同じです。彼らは狐などが吼えているようなものです。日蓮の一門は師子が吼えているのです。
 池田 前にも述べたが、「師子王の心」とは最高の勇気です。そして、勇気を奮い起こした生命に現われる本源的生命力です。
 この力こそ勝利の源泉です。勝ちきっていくには、「師子王の心」を満々と現す以外にない。強敵にも、大難にも、恐れずに、また退かずに、勇気の信心を奮い起こして立ち向かっていくのです。
 大聖人は「師子王の心を取り出せ」と呼びかけられています。ここに仏法の真骨頂ともいうべき重要な観点があります。
 だれもが本来、胸中に「師子王の心」を持っているのです。本来持っているから「取り出す」のです。その「師子王の心」を取り出す鍵が「月月日日につよる」強き信心です。
7  「日々、つよる心」で勝ちきる
 斎藤 同じく「聖人御難事」に「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と仰せです。
 池田 あまりにも有名な御文です。
 昨日より今日、今日より明日。瞬間瞬間、今が戦う時です。今、この時が、魔との闘争だからこそ、「つよる心」を忘れたら、魔が付け込んでくるのです。
 三世永遠に法に則っていく、充実と満足と勝利の信仰の道を進むか。臆病と不信から身をさいなんでいく後悔の人生となるか。
 それは、今、この瞬間瞬間の心で決まる。それが現当二世の信心です。
 森中 熱原の法難でいえば、前者の代表が三烈士の闘争であり、後者の代表が、応援の派遣で来ていながら変心して不慮の死を遂げた三位房ですね。
 池田 悪鬼入其身の平左衛門尉父子の末路も悲惨であった。「終にほろびざるは候はず」と仰せのとおりです。
 傲れる権力は必ず滅びる。しかし、魂の輝きは永遠です。その峻厳なる明暗に照らして、凡夫が仏の境涯を確立するためには、「つよる心」による前進しかありません。
 斎藤 学会は、三代会長が「師子王の心」を貫いてきてくださいました。だからこそ大難を乗り越え、乗り越えて、勝ちきってくることができたのです。
 池田 今こそ、後継の師子が陸続と立ち上がる時です。その人が仏となるのです。

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