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日蓮大聖人・池田大作

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「宿命転換の大宗教」の確立  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

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1  戦い続ける心
 池田 厳寒を越えて、”春本番”が感じられるようになってきました。日一日とふくらむ木の芽、柔らかさを増す日差し、色あいを豊かにしていく風景。自然は一瞬たりとも立ち止まらない。一歩一歩、静かに春が近づいてくる。「冬は必ず春となる」です。春の花の開花も間近です。
 森中 沖縄ではもう2月上旬に桜が満開でした。これから各地で次第に開花していきます。
 池田 そう。戸田先生も桜がお好きだった。戸田先生の事業が最も大変な最中にあって、戸田先生が私に「厳寒の冬を耐えて、また、桜が咲いたよ」としみじみと語られた一言は、今も忘れることができない。
 冬を耐え抜くからこそ桜は美しく咲き誇る。
 人生も同じです。何事も変化、変化の連続です。時を見つめ、時を待ち、時を創りながら、耐え抜き戦い抜いていく。その積み重ねの中に、人生の満開の勝利がある。
 斎藤 瞬間瞬間が、戦いだということですね。「破壊は一瞬 建設は死闘」(「建設之譜」)の一節を思い出します。どこまでも「前へ前へ」という生き方が大切だと仏法は教えています。
 池田 戸田先生がよく言われていた。
 「完璧な仕事というものは、普通の二百倍、三百倍の努力をしなければ出来ない」
 人生万般に通じる言葉だと思う。「気を入れる」というか、一つ一つを疎かにしない。全魂を込めて戦っていく。その連続闘争の中に勝利がある。それなくして偉大なる人生の完成はない。
 大聖人は「心こそ大切」と仰せです。また、「一身一念法界に遍し」とも仰せです。
 「此の心の一法より国土世間も出来する事なり」とも言われている。これが仏法の真髄です。ゆえに、どこまでも「闘い続ける心」が大切です。その心が強い分だけ勝利は広がる。
 森中 日本人は宗教というと、精神世界の中に閉じ込め、限定しようとする傾向がありますが、日蓮仏法は違いますね。どこまでも現実を変えるための宗教です。
2  池田 牧口先生は「人を救い世を救うことを除いて宗教の社会的存立の意義があろうか」と言われている。
 戸田先生は「大苦悩に沈む民衆を救わなくてはならぬ」と叫ばれた。
 自分自身を変え、社会を変える。それが真の信仰の在り方です。そのための現実の一歩一歩の労苦です。そして、戦った分だけ自分自身の境涯が広がるのです。
 斎藤 日蓮大聖人が大難を超えながら示された精神闘争が、そうであられました。「人間はかくも偉大である」「尊貴な人間の魂を縛る鎖は存在しない」という真の自由の境涯を教えられていると思います。
 池田 大聖人が起こされた"佐渡での戦い"は、主として言論闘争です。多くの著作・書簡を認められている。この言論闘争には、大きく分けて「教義の確立」と「教団の再建」の二つの面を拝することができます。いずれも末法万年の「広宣流布」を展望されての戦いであられた。
 斎藤 「教義の確立」について最も重要なものは、「開目抄」と「観心本尊抄」を著されて本尊の意義を明示されたことであると拝察できます。これについてはすでに考察していただきました(本全集第32巻、第9章「御本尊」)。
 池田 そのほか、修行論(折伏論)、広宣流布論などが佐渡流罪の時に整えられていきます。これらの教義については、別の機会に拝察していきたいと思う。
 「教団の再建」のための戦いとしては、門下へ激励のお手紙を頻繁に認められています。また、遠い道のりを乗り越えて、佐渡を来訪する門下も少なからずいた。その師弟の交流の中で、大聖人の師子王の心を教えられ、迫害者の本質が悪鬼入其身であることや、さらに仏法上の難の意義を教えていかれます。
 それによって、門下たちは強き信仰者へと育ち、弾圧を跳ね返して、再び末法流布の潮流が興っていきます。
 森中 その中で大聖人が強調された「宿命転換」の原理について語っていただければ幸いです。
3  地獄の苦しみぱっと消えて
 池田 「宿命転換」の原理は、大聖人の人間主義を示す法理の一つです。大聖人は佐渡流罪の時に、この原理を明確に示されました。それは、真面目に信仰を貫く門下が弾圧に直面し、苦しんでいたからです。その門下の苦しみに同苦され、仏法者がどうしてこのような苦しみを味わわなければならないかを明かされたのです。
 そのために大聖人は苦悩の原因となる「宿業」に注目されます。
 実は、大聖人の教えられる宿命転換の原理は、既に拝察した「難即成仏」、「難即悟達」と本質的には同じです。
 斎藤 はい。「難即成仏」とは、仏界の生命を涌現させて難を乗り越えていき、その生命の鍛錬によって一生成仏を遂げていくことです。
 池田 その生命変革の原理を、人生の苦難に焦点を当てて示した法理が、大聖人の宿命転換論です。
 大聖人は、まず、涅槃経の「転重軽受」の法門に注目されています。「重い宿業の報いを軽く受ける」という法理です。この法門について最初に明確に記された御書は「転重軽受法門」です。竜の口の法難から一カ月余、依智に滞在されている折に、大田左衛門尉、曾谷入道、金原法橋の三人に与えられた御消息です。
 森中 拝読します。
 「涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候
 〈通解〉――涅槃経に、「重きを転じて軽く受ける」という法門がある。過去世でつくった罪業が重くて、今の一生では消し尽くせず、未来世に地獄の苦しみを受けなければならないはずであったものが、今の一生においてこのような重い苦しみにあったので、地獄の苦しみがぱっと消えて、死んだ時には、人・天の境涯、声聞・縁覚・菩薩の境涯、そして成仏の利益が得られるということがある。
 斎藤 転重軽受とは、「重きを転じて軽く受く」と読みます。ここで「重き」とは、私たちが過去遠々劫から積み重ねてきた重い罪業です。
 それを「転じて軽く受ける」というのは、本来なら今世だけでなく、未来にわたって受けなければならない重い罪業の報いを現世に軽く受けて、罪業を消してゆくことができるということですね。
 池田 大聖人は「地獄の苦みぱつときへて」と仰せられている。ここがポイントです。そして、成仏の利益を挙げられています。これがもう一つのポイントです。即ち、仏法のために受ける大難で感ずる苦しみは、永劫の地獄の苦しみを直ちに消していくための少苦であり、成仏に通ずるのです。これが大聖人が説かれる「宿命転換」の原理です。
 仏意仏勅のわが創価学会においては、何十万、いな、何百万もの人が強い信心で苦難と戦い、自身の苦悩が「ぱっ」と消えた蘇生の体験をもっている。宿命を転換する日蓮仏法の力強さは、一千万人が現実の人生の上で証明してきたともいえる。
 森中 "宿業が消える"ということについて、業は善業、悪業いずれにしても積み重なるものだから業がなくなるのは、因果の道理から見ておかしいのではないか、という質問を受けることがありますが。
4  池田 そうだね。順番に考えていこう。まず、「業」とは何か。そこから整理していきましょう。
 斎藤 「業」という言葉自体は、古代インド思想に見られます。すなわち、サンスクリット(梵語)の「カルマ」という言葉です。もともと「カルマ」とは、「行動・行為」などを意味しています。仏法が中国に伝わる時に、「業」と訳されました。漢字の「業」は、「業績」などというように、「行い」という意味があります。
 森中 そして古代インドでは、善悪の様々な行い「カルマ」によって、輪廻転生が決定づけられていくと考えていたようです。
 池田 もともと「業(カルマ)」という言葉は、善と悪の両方を含むものであったということだね。しかし、いつしか「業」というとおおむね「悪業」のことを指すようになった。
 斎藤 人間は、やはり苦しいことのほうが忘れられないからでしょうか。悪業の転換が宗教の大きなテーマになってきたことは事実です。
 池田 「業」という概念は、現代人には、「運命」と置き換えたほうが分かりやすいかもしれない。
 運命は転換できるのか。国家の運命、人間の運命、人類の運命は、転換できるのかどうか。これは、宗教や思想だけでなく、芸術や文学でも重大なテーマです。
 森中 「運命」というと、若き日の先生が好んで聴かれたというベートーヴェンの交響曲第五『運命』を思い出します。
 池田 大森のアパートの一室で、レコード盤の溝がすりへるまで聴きました。といっても、今の若い人たちには、レコードの溝がすりへるといっても分からないかもしれないが(笑い)。
 嵐の咆哮が激しく扉を叩くような旋律は、なんど聴いても衝撃でした。まさに、ベートーヴェン自身の「運命」との闘争を物語っていた。彼は、聴覚の異常という運命と格闘し、運命を叩きながら数々の名曲を創造していった。
 交響曲第五番『運命』には、葛藤に雄々しく立ち向かう魂の鼓動が響きわたっている。
 トルストイは『運命』を聴いて、「ああ、勇気が出てくる」と語ったそうだが、私もの一人でした。
 ある意味で『運命』は、宿命転換の旋律ともいえるかもしれない。また、交響曲第九番(合唱付)は人間讃歌の旋律ともいえるでしょう。
 斎藤 今、先生が語られたように、「宿命転換」こそが人類が普遍的に持つ願望の一つではないでしょうか。
 そして、世界宗教をはじめあらゆる思想的・宗教的営みは、それを解決しようと努力を積み重ねであったと考えることもできます。
 森中 しかし、「神」に運命がゆだねられていると考えることは、多くの現代人には耐えられません。運命を支配する神が絶対的な存在であればあるほど、人間の運命は絶対者に操られていくだけで、その存在はますます卑小なものとなってしまうからです。
 古代インドの業でも、業による輪廻からの解放は、聖職者による祭祀に拠るしかないとされていました。
5  池田 端的に言えば、そこに仏教誕生の一つの重要な意義があるといえるでしょう。仏教は、業思想を絶対的なものによる支配から解放し、人間の自由意志を強調した。自分自身の運命の形成も、また運命からの解放も、あくまでも自分の意志と行為によると捉えたのです。そこに「内道」の本質があります。
 詳しくはまた別の機会に譲るとして、真の成仏の因果を探究する「五重の相対」の従浅至深の道筋は、そのまま宿業からの解放の道筋に他ならない。
 結論的に言えば、万人に仏性が内在していることを説く法華経こそが、宿業からの根源的な解放を実現した経典です。
 ここが急所です。爾前経の因果では不十分であることが分かり、法華経の宿命転換が分かれば、日蓮大聖人の仏法の宿命転換の功力が浮き彫りになっていく。
 そこで焦点を法華経に絞って語っていきたい。
6  不軽菩薩の其罪畢已
 斎藤 先ほどの「転重軽受法門」でも、転重軽受の原理を説明された後、大聖人は、続いて法華経の不軽菩薩について論じられています。
 続きを拝読します。
 「不軽菩薩の悪口罵詈せられ杖木瓦礫をかほるもゆへなきにはあらず・過去の誹謗ひぼう正法のゆへかと・みへて其罪畢已ございひっちと説れて候は不軽菩薩の難に値うゆへに過去の罪の滅するかとみへはんべり
 〈通解〉――不軽菩薩が悪口罵詈され、杖木瓦礫を受けたのも理由のないことではない。過去世に正法を誹謗したためであるかと経文に拝されるのである。すなわち法華経不軽品に「其の罪畢え已って」と説かれているのは、不軽菩薩が難にあったために、過去世の罪が滅するのだということであると経文に拝されるのである。
 森中 不軽菩薩は、一切衆生に仏性があるとする法華経の中心思想を現実に実践した菩薩です。その中心思想を表現した「二十四文字」の法華経を唱えながら、あらゆる人々を礼拝しますが、悪僧や尼、在家の男女たちが杖木瓦石で不軽菩薩を迫害します。しかし、不軽菩薩は屈することなく戦い、六根清浄の功徳を得て、二百万億那由佗歳もの寿命を延ばし法華経を説き続けます。この不軽菩薩が後の釈尊です。
 斎藤 もともと、この法華経常不軽菩薩品第20は、滅後に正法を弘通する者には六根清浄の功徳があること、そして、迫害する者には大なる罪報があることを述べた品(章)です。
 法華経では、不軽菩薩が迫害されたことで自身の罪を滅し、六根清浄の功徳を得たことが説かれています。それが「其の罪畢え已って」の文です。
7  池田 大聖人は、竜の口の法難以降、依智滞在中や佐渡流刑中に、この不軽菩薩の留難を強調されている。佐渡に向かう船が出る港・寺泊で、大聖人は、こう強調されている。
 「法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、今の勧持品は未来は不軽品為る可し、其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為る可し
 実に重要な仰せです。法華経には三世にわたる仏法の弘通が説かれている。そして、その仏法弘通において大難が必ず出来することが普遍的な原理であると示されている。そう拝することができます。
 また、過去の法華経の儀式を、今に移した時、その儀式の主人公は日蓮大聖人にほかならないことを宣言されている。
 斎藤 「過去の不軽品」とは、釈尊の過去世における不軽菩薩としての実践を指します。また、「今の勧持品」とは、末法の今、三類の強敵と戦う日蓮大聖人の闘争を指します。
 "今、勧持品二十行の偈に説かれる三類の強敵を呼び起こしたのは私である。それは、過去に不軽菩薩が戦った民衆尊敬の闘争を今、この身で実践しているのであり、未来から見れば、私は不軽菩薩と同じであると分かるであろう"――という大聖人の壮大な御心が伝わってきます。
 池田 大聖人は、経文に説かれた不軽菩薩の実践は御自身の実践と一体不二の闘争であると読まれている。
 そのことによって、大聖人は門下の人々に、大難によって自身の過去世の罪が滅するということを教えられているのです。そして、法華経二十八品を身をもって読まれたことで成仏は間違いないことから、「いよいよたのもし」と仰せです。
 経文に説かれている通りの大難を受けることで成仏は疑いがない。"いよいよ頼もしいことだ"――これが、大聖人に随順して難を受けている門下に対するお言葉です。
 大難を受けている渦中にあって、御自身の御姿を通して、成仏は間違いないという大激励です。
 森中 普通なら、受難を慰めあうところだと思います。まして門下に対して、「いよいよたのもし」と呼び掛けるとは通常の考えでは及びません。
 池田 根本的に、法華経の「罪障消滅」観が違うのです。
 先ほど、人間の自由意志を尊重するのが仏教の業思想の特徴であることを確認しました。しかし、その出発点とは別に、現実の仏教の展開は、業そのものに人間が縛られていく方向があったことは否めない。要するに、過去から無量の罪障を積んで現在に至ると説くものです。しかし、それでは、あまりにも肥大化した業に立ち向かうことができなくなる。
 斎藤 無量劫から積んできた業ですから、到底、この一生で清算できるわけがない、ということになります。せめて、すこしでも「消滅」していこうとするのが関の山というか……。しかも、その間に新たな悪業を積んでしまう。そんなことを繰り返していくうちに疲れてしまいます。
 池田 業を自身の問題に捉えることは、内道である仏教の真骨頂です。しかし、爾前権教は誤った方向に行ってしまった。
 森中 そこには、誤った聖職者が介在している面もあったのではないでしょうか。人々を業で縛りつけ、業の清算をふりかざし宗教の権威を用いて脅していく。
 だから、そうした坊主たちは、必ずといっていいほど、人々は罪深い存在であるということを強調しています。よっぽど、そうした連中のほうが罪深いのではないでしょうか(笑い)。
 池田 そうした悪しき仏教の方向性を乗り越えているのが日蓮仏法です。
 一つは、宿業は必ず転換できる。そのことを教えるために宿業を説いているということです。
 斎藤 そうですね。「罪障の消滅ができる」という結論を明確に示さずに、宿業を強調したら、結果的には罪障の深さの前に人間は沈黙さぜるをえません。
8  「大いなる自分自身」に目覚めよ
 池田 「宿業の転換」を明確に示してこそ、人類は宿業、宿命から解放される。
 仏教で宿業を説くのは、「宿業の転換」を示すためです。反対に言えば、宿業の「転換」を明確に示しきらずに宿業論を振りかざすのは、仏教の邪道です。人間を宿業の鉄鎖で縛りつけるだけです。
 そして、日蓮仏法のもう一つの特徴は、宿業について、徹底した自己凝視をしているということです。自身の宿業を真っ正面から見つめ、それを自身の力で転換していこうとする。
 森中 宿業を転換するために、宿業から逃げずに凝視していくということですね。
 池田 そうです。宿業をありのままに見つめ、宿業に真っ向から切り込んでいくからこそ、仏界が現れるのです。自分を徹底的に掘り下げていくから、九識論で言えば九識心王真如の都が開発されていく。この道筋を離れて六根清浄もなければ、人間革命もありません。言い方を変えれば、人間が深まらない。
 そして宿業を見つめるというのは、自分自身のことだけではありません。自分が解放されたならば、今度は、宿業で苦しんでいる人々を救っていかなければならない。最終的には、人類の宿業を見つめなければならない。それでこそ自行化他の成仏への軌道です。
 自分も自身の宿命転換のために戦いながら、友の宿命転換のために尽力していく。それが学会活動です。これこそ究極の仏法の正道にほかならないのです。
 斎藤 なによりも、日蓮大聖人こそ、徹底して御自身の宿業を深く凝視していかれた。それは凄まじいばかりです。
 森中 中途半端なインテリが陥りやすい"煩悶のための煩悶"とは全く異なりますね。それは、単なる自己満足というか、"自分はこんなに煩悶しているから偉い"というポーズみたいなものすら感じることがあります。
 池田 もちろん、真摯に悩み、自分を見つめていくことは大切です。しかし、それが自分だけに閉ざされ、中途半端に終われば、観念にすぎないともいえる。
 大聖人には万人を救うという大願があられた。ゆえに徹底的に凝視しえたのです。そして、その究極の生命が開かれた。宿命転換の確かな方途を、全門下に、否、一切衆生に教えられようとしたのです。
 森中 日蓮大聖人がどれほどまでに、御自身の宿業を見つめていかれたか。その魂の軌跡を認められているのが「佐渡御書」ですね。「佐渡御書」は「開目抄」の一カ月ほど後に著されました。
 池田 「開目抄」が"「日蓮の大いなる魂」に目を開け"と呼びかける書であるのに対して、「佐渡御書」は、一面から言えば、"「大いなる自分自身」に目覚めよ"と、門下に自覚を促している書であると言えます。
 斎藤 「佐渡御書」では、なぜ難に遭って苦しむのか。それは、自分自身の宿業のゆえであると、御自分の生命を凝視していかれます。
 池田 すべて、難に苦しむ門下のためです。真の人間を創ろうとされているのです。今は、薄っぺらな精神の漂泊がなんと多いことか。人々の魂が浅くなるのが末法です。残念ながら、多くの識者も、日本はとりわけ、その傾向が顕著だと見ている。
 難を自身を深める契機としていく。難にあえばあうほど人間が完成されていく。それが日蓮仏法の生き方です。
 斎藤 「難」を、法難だけでなく人生上の困難と置き換えても、同じことがいえますね。
 人生の苦難の対処の仕方には、二通りあるのではないでしょうか。苦難に直面してかえって世間に恨みがましくなる人間と、ますます精神性が深まる人間と、大別されていくと思います。
9  池田 だから、人間革命の理念と実践が重要なのです。人間を深めることを忘れると、どうしても、難にあえば卑屈になり、周囲を恨むようになる。それが人間の常ともいえる。
 そうならないためにも、深く自分を見つめ、自分自身を絶えざる成長へと高めていく努力が必要になってくる。それでは、大聖人がどのように御自身を凝視していかれたのか。「佐渡御書」を拝してみよう。
 森中 はい。拝読します。
 「日蓮も又かくせ(責)めらるるも先業なきにあらず不軽品に云く「其罪畢已」等云云、不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり魚鳥を混丸して赤白二●とせり其中に識神をやどす濁水に月のうつれるが如し糞嚢に金をつつ(包)めるなるべし、心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり心も又身に対すればこそ月金にもたと(譬)ふれ」
 〈通解〉――日蓮がこのように迫害されるのも、過去世の業があるからである。不軽品には「其の罪畢え已って」と説かれている。
 不軽菩薩が数え切れないほどの謗法の人々に罵詈され、打たれたことも先業の報いであったということである。ましてや日蓮は今世では貧しく賤しい身分の者であり、旃陀羅の家の出身である。心でこそ少し法華経を信じているようであるが、体は人間に似ながら畜生の身である。魚や鳥を食べている両親の精子と卵子から生まれ、その中に精神を宿している。それは、濁った水に月が映っているようなものである。糞を入れる袋の中に金を包んでいるようなものである。
 心は法華経を信じているので、梵天や帝釈さえも恐しいとは思わない。しかし、体は畜生の身である。体と心が釣り合っていないので愚者が侮るのも道理である。心も体と比べるからこそ、月や金にも譬えることができるにすぎない。
 斎藤 ここで大聖人は、御自身の法難を「先業」(宿業)のゆえであると仰せです。そして先ほど拝察した常不軽菩薩品の「其の罪畢え已って」の経文を挙げ、次に大聖人御自身の出自や身分などにまで言及されていきます。
10  池田 御自身の「心」に対する洞察も、いささかの妥協もなく掘り下げていかれている。
 「心こそすこし法華経を信じたる様なれども」と仰せですが、大聖人が色心二法で経を読まれ、二十八品悉く身読されたことはいうまでもありません。それでも「すこし」「信じたる様」などと仰せられている。
 そして、最後は「心も又身に対すればこそ月金にもたと(譬)ふれ」と、あくまで畜身である肉体に対比して心を月や金に譬えることができるのであって、その心自体もおぼつかないのであると仰せです。
 これは、無明に酔い、魔性に負けていく心のはかなさを言われているのです。この心の弱さを超えていくのが宿命転換の道です。心には、弱い面と強い面の二面がある。
 信心は、妙法と一体になり、仏界の無限の力を現していく強い心に通じていきます。それゆえに「心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず」と仰せなのです。
 大聖人の自己凝視は、まだ続きます。次は、過去世でどうだったのかを述べられていく。いよいよ宿業の問題です。
 森中 はい。こう仰せです。
 「又過去の謗法を案ずるに誰かしる勝意比丘が魂にもや大天が神にもや不軽軽毀の流類なるか失心の余残なるか五千上慢の眷属なるか大通第三の余流にもやあるらん宿業はかりがたし」
 〈通解〉――また、過去の謗法を考えてみれば、だれが本当のことを知ることができようか。我が心は、勝意比丘の魂であろうか。大天の魂であろうか。不軽菩薩を軽んじ毀謗した者たちの類いだろうか。寿量品にある、謗法の毒気が深く入り、本心を失った者の残りだろうか。法華経の説法の場から立ち去った五千人の増上慢の同族だろうか。大通智勝仏の昔に法華経に縁しても発心しなかった者たちの流れを汲んでいるのだろうか。宿業ははかりしれない。
 斎藤 ここで驚嘆すべきことは、過去に法華経の行者を誹謗した側に御自身を置かれていることです。
 日蓮仏法が、単純な善悪二元論ではないことが分かります。善悪不二であり、元品の無明と元品の法性とは一体です。それゆえに、こうした仰せが可能になると思います。
 池田 「宿業はかりがたし」です。万人の魂を救うための、徹底した人間生命の凝視なのです。人間の生命に対するこれほどの厳愛はありません。人間生命の可能性への徹底した慈しみと、人間生命の弱さへの同苦が、この生命凝視の根本にあると拝したい。
 鎌倉で弾圧を受け、歯をくいしばって戦っている門下を根本から救うための大慈悲が流れ通っているのです。
 前にも話したが、大難を受けている門下を励ます時に、中途半端な慰めなどでは魂の反転攻勢などできるわけがない。時には疑って疑って疑い抜く。ありとあらゆる虚飾を剥いでいき、それでも崩れない結晶が本物の証です。
 斎藤 魔性は、あらゆる角度から「心」にゆさぶりをかけてきます。中途半端な達成感など、慢心のもとです。
11  池田 そう。その慢心に魔が入る。大難にあって、自分は乗り越えた、大丈夫だ、という人が一番危ない時がある。そういう人ほど、魂がもろい場合がある。謙虚な人ほど大丈夫なものです。
 頂門の一針(急所をついた痛切な戒め)というか、大聖人御自身がここまで御自分のことを厳しく見つめられていると思ったら、皆、襟をたださずにはいられないでしょう。月々日々に、つよる心をもって成長していこうとする人には、魔も付け入りようがありません。
 森中 日蓮大聖人の仏法は、自分を特別な存在として教えを垂れるような宗教とは対極にありますね。
 池田 どこまでも同じ人間として「同苦」していくことです。自分も迫害者の一類かもしれない――この生命に立てば、あらゆる人の宿業を根本的に救うことができます。
 斎藤 「自分には宿業がない。あなたは宿業で苦しんでいる。だから救ってあげよう」などと言われたら、反発するだけです。
 池田 創価学会の偉大さも、同苦の実践にあります。自分自身も宿業転換の途上で苦しんでいる。その人が他の人の宿業転換のために戦うから、崇高なのです。
 庶民が庶民を救う。民衆が民衆を救済する。だから学会の絆は何ものをもってしても破壊することはできない。
 さて、「佐渡御書」に戻ります。なぜ、そこまで大聖人御自身が自らの宿業を見つめられるのか。その真意が続いて明かされていきます。
12  大難は罪障消滅のための試練
 森中 「くろがねは炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし、我今度の御勘気は世間の失一分もなしひとえに先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし」と仰せです。
 〈通解〉――鉄は鍛え打てば剣となる。賢人・聖人は罵しられて試されるものである。我がこのたび受けた処罰には世間上の罪はまったくない。もっぱら過去世業のの重罪を今世で消し、来世の三悪道の苦しみを免れるためのものなのである。
 池田 「鉄は炎打てば剣となる」――これが日蓮仏法の宿命転換の主題です。
 鉄が鍛えられて剣となる。動揺に、生命を鍛えるための信仰であり、宗教なのです。
 マイナスの罪障をゼロに戻す。そうしたことのために宿業を凝視しているのではありません。
 マイナスの罪障をだいな大なるプラスに転ずるのです。それが日蓮仏法の宿業転換です。それを可能にするのが、万人の生命に内在する仏性です。「宿業の凝視」は、「仏性への徹底した信」に裏づけられているのです。
 そして、生命鍛錬の場が、大難です。最も苦しんでいる時が、最も深まる時です。
 「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」と、大聖人は最大の難である佐渡流罪の結論として叫ばれた。
 何もかも奪われ、天が見捨てても、われはわが信仰する道を堂々と進む。決然と立ち上がった生命は、何ものも侵すことができない。その強い生命を築くのが信仰です。
 その眼から見れば、大難は罪障消滅のための契機です。そして、罪障消滅の先には、成仏という偉大なる境涯の確立がある。
 斎藤 この「開目抄」の一節は、「大願」と「宿業」の関係を鮮やかに説明しています。
 池田 そうです。大願に立たれる大聖人は「大難・風の前の塵なるべし」と仰せられた。大願に立脚した透徹した境涯から見れば、宿業の有無は本質的な問題ではない。仮にいかなる苦難や宿業があっても、大願の生命はすべてを大きく飲み込んでいくからです。
 森中 「開目抄」で、そうした境地を明かされている大聖人が、「開目抄」御執筆の一ヶ月後に御自身の宿業で悩んでいるなどとは当然考えられません。
 池田 「佐渡御書」で御自身の宿業について記されているのも、難に苦しむ門下を励まされるためdす。”難を受けている今こそ、罪障消滅して成仏の境地を確立する時である”ということを、どこまでも御自身の御姿を通して示されているのです。
 ありがたい御本仏であられます。
 森中 御本仏であられても、人間は人間ということですね。過去世からの宿業をもっていない人間はいません。
 よく「御本仏なのに宿業があるのはおかしい」と問われますが、考え方の前提からして違うということですね。
 池田 仏を人間以上の何か特別な存在と考えるか否か、の違いであると言えます。日蓮大聖人は、どこまでも凡夫の身に仏界の生命を現された「凡夫即極」の仏であられる。また、仏界の生命を中心として表現すれば「示同凡夫」(仏が凡夫と同じ姿を示す)とも言える。
 大聖人にも生老病死があられた。万人と同じその人間の身に、偉大なる仏界の生命を現されたのです。
 仏界が涌現しても、凡夫の身を改めて特別な姿になるわけではありません。同じ人間として、しかも民衆の出自であることを誇りとされた人間として、大難が宿業転換への道であることを身をもって証明されたのです。それこそが偉大なのです。末法の衆生の主師親であられるゆえんです。
13  「常の因果」と「大いなる成仏の因果」
 斎藤 この後、「佐渡御書」では「日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば」「いよいよ日蓮が先生今生先日の謗法おそろしか(斯)かりける者の弟子と成けんかかる国に生れけんいかになるべしとも覚えず」と、更に御自身の宿業を「過去世の謗法」という表現に置き換えられています。そして、日蓮仏法の宿業転換の原理を示されていきます。
 森中 二段階にわたって説明されていきます。まず、爾前経の宿命転換の考え方。そして法華経なかんずく日蓮大聖人の仏法の宿命転換の法理が示されていきます。
 最初に大聖人は、般泥洹経の転重軽受の経文を引用します。そこでは、今世の苦報の代表的なものとして、①或被軽易、②或形状醜陋、③衣服不足、④飲食麤疎、⑤求財不利、⑥生貧賤家、⑦及邪見家、⑧或遭王難を挙げています。
 斎藤 ここでの特徴は、いわゆる因果応報の考えです。経文にも、「我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん」とあるように、悪因があれば悪果がある、善因があれば善果があるとする捉え方です。
 池田 「高山に登る者は必ず下り」という譬えで大聖人は説明されているね。仏教一般の考え方です。日蓮大聖人は「佐渡御書」で、これを「常の因果」と仰せられている。
 斎藤 ここで言われているのは、現世で受ける一つの報いに対して、過去世の一つの原因があるとする因果論です。基本の原理としては明快ですが、現実にあてはめた場合は大変です。
 過去に犯した一つ一つの悪業の報いを受け、それを一つ一つ消し去るとしたら、どれほどの時間がかかることか。「常の因果」を説く限り、成仏は歴劫修行でなければならなくなります。
 池田 「此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりし」ともあるが、それが爾前権教の因果の限界です。長遠な期間にわたって業を清算しようとしても、現実には、その間にまた新たな悪業を積んでしまう恐れもある。
 結局、「常の因果」=因果応報では、宿命転換の原理は成り立たないのです。大聖人の仏法は、そうした因果ではないとはっきり仰せです。
 森中 はい。こう明言されています。
 「日蓮は此因果にはあらず法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を或は上げ或は下て嘲弄せし故に此八種の大難に値るなり」
 〈通解〉――日蓮が受けている八種の報いは、通常の因果によるものではない。法華経の行者を過去に軽んじたからであり、月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山に華山を重ね、宝玉と宝玉とをつらねたように尊い経典である法華経を、ある場合は深遠すぎてと持ち上げ、ある場合は見下して嘲笑(あざわら)ったために、この八種の大難にあっているのである。
 斎藤 大聖人が「佐渡御書」で仰せられているのは、法華経誹謗こそが根源の罪障であるということです。
14  池田 正法誹謗の正体は、正法の不信です。自他の仏性を信じられない心です。この不信が仏界涌現を妨げる根本です。
 また他の種々の悪業の根でもあるのです。この不信を破り、仏界を現していくことが、宿命転換を可能にする、より根底的な因果なのです。
 斎藤 十界論でいえば仏界の涌現であり、九識論でいえば第九識の顕現ですね。
 池田 仏界の力によって、悪業を包み込み、浄化していくのです。
 譬えていえば仏界の涌現は、太陽の出現を意味する。太陽が現れれば、天空に浮かぶ無数の星の光はまたたくまに見えなくなる。
 森中 「見えなくなる」のであって、空の星が「なくなる」わけではありませんね。
 池田 そうです。なくなってしまえば、因果の道理に反してしまう。しかし、月の光がかき消されてしまうように、個々の業の報いに苦しまなくなる。
 つまり、「常の因果」を否定するわけではない。まず、基本として「常の因果」が存在する。それは仏教の前提です。
 しかし、「常の因果」をも包み込む、いわば「大いなる因果」が存在する。その「大いなる因果」こそ成仏の因果です。それが法華経の因果であり、妙法の因果です。
 戸田先生は、この「大いなる因果」に生きる凡夫を「久遠の凡夫」と絶妙に表現されました。
 斎藤 こう言われています。
 「この低い仏法の因果の説法だけをもって仏法とするならば、運命は定まれるものとなして、ただ人生を悪いことをしないようにと、消極的生活におちてしまう。前に述べました因果は、尽未来際にわたって、一生に一つずつを現じて、永劫の生活に現れるのでありまして、いつの日にかこれを清めて、すっぱりした生活に、雄々しく偉大な希望をもって生きられましょう。(中略)
 末法のわれらと縁のないもので、われわれ凡夫自身が、近因近果の理法をたたき破って、自然の仏身を開覚する法が、ただいまでは必要でありますが、この必要に応じられて、実際生活に、過去世からの運命をたたき破り、よき運命への展開の法をたてられたのは、日蓮大聖人様でいらせられる。すなわち、設計図によって飛行機を作ったとおなじように、釈迦の法華経にこたえて、実際生活のなかに、過去の因果を凡夫自身が破って、久遠の昔に立ち返る法を確立せられたのは、日蓮大聖人様でいらせられる。
 すなわち、帰依して南無妙法蓮華経と唱えたてまつることが、よりよき運命への転換の方法であります。この方法によって、途中の因果みな消えさって、久遠の凡夫が出現するのであります。『久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり』とおおせのとおり、久遠の仏とは、えらい難しいことばに聞こえますが、久遠は『もとのままの、なにもりっぱでもない、なんの作用もない』ということで、仏とは命でありますから、『もとのままの命』と悟りますときに、途中の因果がいっさい消えさりまして、因果倶時の蓮華仏が生出するのであります」(『戸田城聖全集』第3巻)
15  池田 「久遠の凡夫」とは、久遠元初の本源の生命に目覚めた凡夫です。
 戸田先生は、久遠の世界は「楽しく、清く、晴れ晴れとした、仲のよい世界」であるとも言われた。
 戸田先生の言葉で言えば、爾前の因果=「常の因果」は「途中の因果」です。凡夫自身が過去の途中の因果を破り、凡夫の身に、根源の因果、因果倶時の蓮華仏を顕すことができるのです。
 いわば、宿業に縛られている凡夫から、十界互具に生きる仏界所具の凡夫に変わる。宿命に汲々としていた凡夫が、民衆の宿命を転換しようと立ち上がる「使命の凡夫」に変わるのです。
 森中 そこで、最初の質問に戻ります。途中の因果が消え去るというのは、決して、中間の因果がなくなるということではありませんね。
 池田 そうです。夜空に浮かぶ星が消えているからといってなくなっているわけではない。
 森中 そこで、新たな疑問なのですが。そうすると「久遠の凡夫」にとって、宿命があるかないか、その有無はもはや、本質的な問題ではないということになるのでしょうか。
 池田 極端に言えば、そうなります。確かに宿命転換の真の出口になります。爾前経的な「宿命を無くす」ための努力は方便と言える。
 しかし、やはり現実に生きる人間にとって、宿命というものは重くのしかかります。私たちは、日蓮大聖人の御本尊を縁として、唱題によって仏界を涌現する方途を知っています。しかし、「知る」ことと、わが身で「仏界」の力を「味わう」こととの間には、まだ距離がある。
 車もそうでしょう。免許が発行される。それで車の運転は可能です。しかし、実際には、運転を繰り返して本当の意味で安全な運転技術をマスターすることができる。
 パイロットだって、通算の飛行時間が大事だとされている。
 私たちの実践でいえば、現実に宿命と戦うなかでこそ、宿命を乗り越えていく力を身につけることができる。実際に宿命に遭遇するから、誰よりも、その苦悩と戦う術を身に付けることができるのです。
 斎藤 仏法は道理ですね。魔法や呪術のような宗教は、どこまでいっても、仏教の本質から背いていますね。
16  願兼於業
 池田 宿命転換論の真髄は「願兼於業(願い、業を兼ぬ)」です。
 森中 はい。法華経法師品には、本来、大菩薩として偉大な福運を積んだ人が、苦しむ衆生を救いたいとの願いによって、悪世に出現して妙法を弘通する姿が説かれています。
 斎藤 このような在り方を、妙楽大師は「願兼於業(願が業を兼ねる)」と呼びました。
 本来は悪世に生まれる業はないのに、衆生を救うために自ら願って悪世に生まれ、悪世の苦しみを受けているのです。
 池田 日蓮大聖人の御境地そのものです。
 大聖人は「開目抄」で、御自身が妙法を流布して三類の強敵の迫害を受けていることは、経文に説かれた末法の法華経の行者の姿そのものであると仰せられています。そして、佐渡流罪に処せられたことで、ますます悦びを増していると宣言されています。
 斎藤 「開目抄」の結びの一節ほど感動的なものはありません。
 「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし
 池田 大聖人にとって、今、御自分が受けられている大難は、御自身の使命を果たすために願って受けている大難でる。つまり、一切衆生を救うために受けている苦しみだから大いなる悦びであると宣言されているのです。
 苦悩する民衆を救うためには、その民衆に同苦し、しかも、その苦しみを同じ人間として克服していく道を示すしかないのです。その偉大な戦いをなされた大聖人であるがゆえに、私たちは大聖人を末法の御本仏と拝するのです。
 ここに仏法の説く師弟の意義もある。
 仏法の師匠というのは、どこまでも現実に模範の行動をする人です。まず、師匠自ら、大いなる使命の人生を生きる。それを今度は、弟子が真剣に学び会得していこうとする。その「如説修行」の中に、法の体得もあるのです。この師弟が仏法の魂です。
 大聖人は佐渡流罪の大難のなかでの御振る舞いを通して、宿命転換の人生の範を、弟子たちに、そして後世に示してくださった。「かく、生きよ」という偉大な魂の軌跡です。
 大聖人は、御自身の一人の人間としての戦いを通して、悪世に生きる私たち凡夫の宿命転換の道を教えてくださったのです。
 いかに進退きわまった、業に縛られたような境遇にいる人であっても、その本質を見れば、願兼於業の人生であることを示されているのです。
 斎藤 それが、先生がよく語られている「宿命を使命に変える」生き方ですね。
17  池田 そうです。誰しも宿命はある。しかし、宿命を真っ正面から見据えて、その本質の意味に立ち返れば、いかなる宿命も自身の人生を深めるためのものである。そして、宿命と戦う自分の姿が、万人の人生の鏡となっていく。
 すなわち、宿命を使命に変えた場合、その宿命は、悪から善へと役割を大きく変えていくことになる。「宿命を使命に変える」人は、誰人も、「願兼於業」の人であるといえるでしょう。
 だから、全てが、自分の使命であると受け止めて、前進し抜く人が、宿命転換のゴールへと向かっていくことができるのです。
 森中 なくそうとか、避けようとか、逃げようとする生き方では、結局、宿命転換が遅れるというわけですね。
 池田 今、私たち創価学会が世界に向かって挑戦しているのは、人類の宿命を転換できるかどうかです。
 斎藤 そのことで忘れられないエピソードがあります。トインビー博士が池田先生に、次のように尋ねられたとうかがいました。
 博士は、こう質問されました。「仏教には宿業論があるが、過去世から続くという宿業を、人間は変えることができるのか」という内容だったと聞きました。
 池田 そうです。はっきりと覚えてます。人生の栄光も労苦も経てきた人のみが醸し出すあの柔和な笑顔で、眼光には知性の輝きがありました。鋭い質問でした。
 私ははっきりと答えました。「日蓮大聖人の仏法では、因果倶時で、自身の宿命転換を果たしながら、社会を変えていくことができる。これが21世紀の世界と人類を変革していけるかどうかの急所ではないかと思います」
 私が語ると博士は深くうなずかれていた。
 私は博士に誓ったままに、一点も悔いなく、人類の宿命転換のために行動してきました。私のあとに青年が続くことを固く信じながら。
 私は、日本だけでなく、SGIの青年たちが、人類の宿命を転換しゆく大いなる挑戦の炎を更に赫々と燃やして闇を照らしゆくことを確信しています。

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