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日蓮大聖人・池田大作

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転重軽受法門  (1/2) 涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き…
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薬王菩薩の跡をおひ仙予・有徳の名を後代に留めて法華・涅槃経に説き入れられまいらせんと願うところなり、南無妙法蓮華経。

  十一月二十八日                   日蓮花押

   御返事

転重軽受法門

                    文永八年十月 五十歳御作

                    与 大田左衛門・曾谷入道・金原法橋

修利槃特と申すは兄弟二人なり、一人もありしかば・すりはんどくと申すなり、各各三人は又かくのごとし一人も来らせ給へば三人と存じ候なり。

涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候、不軽菩薩の悪口罵詈せられ杖木瓦礫をかほるもゆへなきにはあらず・過去の誹謗正法のゆへかと・みへて其罪畢已と説れて候は不軽菩薩の難に値うゆへに過去の罪の滅するかとみへはんべり是一、又付法蔵の二十五人は仏をのぞきたてまつりては皆仏のかねて記しをき給える権者なり、其の中に第十四の提婆菩薩は外道にころされ第二十五師子尊者は檀弥栗王に頸を刎られ其の外仏陀密多竜樹菩薩なんども多くの難にあへり、又難なくして王法に御帰依いみじくて法をひろめたる人も候、これは世に悪国善国有り法に摂受折伏あるゆへかとみへはんべる、正像猶かくのごとし中国又しかなり、これは辺土なり末法の始なり、かかる事あるべしとは先にをもひさだめぬ期をこそまち候いつれ是二、この上の法門はいにしえ申しをき候いきめづらしからず円教の六即の位に観行即と申すは所行如所言・所言如所行と


云云、理即名字の人は円人なれども言のみありて真なる事かたし、例せば外典の三墳五典には読む人かずをしらず、かれがごとくに世ををさめふれまう事千万が一つもかたしされば世のをさまる事も又かたし、法華経は紙付に音をあげて・よめども彼の経文のごとくふれまう事かたく候か、譬喩品に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん」法師品に云く「如来現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」勧持品に云く「刀杖を加え乃至数数擯出せられん」安楽行品に云く「一切世間怨多くして信じ難し」と、此等は経文には候へども何世にかかるべしとも・しられず、過去の不軽菩薩・覚徳比丘なんどこそ身にあたりてよみまいらせて候いけると・みへはんべれ、現在には正像二千年はさてをきぬ、末法に入つては此の日本国には当時は日蓮一人みへ候か、昔の悪王の御時多くの聖僧の難に値い候いけるには又所従・眷属等・弟子檀那等いくぞばくか・なげき候いけんと今をもちて・をしはかり候、今日蓮・法華経一部よみて候一句一偈に猶受記をかほれり何に況や一部をやと、いよいよたのもし、但おほけなく国土までとこそ・をもひて候へども我と用いられぬ世なれば力及ばず、しげきゆへにとどめ候い了んぬ。

  文永八年辛未十月五日                日蓮花押

   大田左衛門尉殿

   蘇谷入道殿

   金原法橋御房

    御返事


大田殿許御書

                    文永十二年正月 五十四歳御作

 新春の御慶賀自他幸甚幸甚。

抑俗諦・真諦の中には勝負を以て詮と為し世間・出世とも甲乙を以て先と為すか、而るに諸経・諸宗の勝劣は三国の聖人共に之を存し両朝の群賢同じく之を知るか、法華経と大日経と天台宗と真言宗との勝劣は月支・日本未だ之を弁ぜず西天・東土にも明らめざる物か、所詮・天台伝教の如き聖人・公場に於て是非を決せず明帝桓武の如き国主之を聞かざる故か、所謂善無畏三蔵等は法華経と大日経とは理同事勝等と慈覚・智証等も此の義を存するか、弘法大師は法華経を華厳経より下す等此等の二義共に経文に非ず同じく自義を存するか将た又慈覚・智証等・表を作つて之を奏す申すに随つて勅宣有り、聞くが如くんば真言・止観両教の宗をば同じく醍醐と号し倶に深秘と称す乃至譬えば猶人の両目・鳥の雙翼の如き者なり等云云、又重誡の勅宣有り・聞くが如くんば山上の僧等専ら先師の義に違して偏執の心を成ず殆んど以つて余風を扇揚し旧業を興隆することを顧みず等云云、余生れて末の初に居し学諸賢の終りを禀く慈覚・智証の正義の上に勅宣方方之れ有り疑い有るべからず一言をも出すべからず然りと雖も円仁・円珍の両大師・先師伝教大師の正義を劫略して勅宣を申し下すの疑い之れ有る上・仏誡遁れ難し、随つて又亡国の因縁・謗法の源初之れに始まるか、故に世の謗を憚からず用・不用を知らず身命を捨てて之を申すなり。

疑つて云く善無畏・金剛智・不空の三三蔵・弘法・慈覚・智証の三大師二経に相対して勝劣を判ずるの時或は理同