Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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豊かということ  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
2  以前「中国の民衆」という記録映画を見たことがあった。そのフィルムには文革前後の中国が収められていたが、見ているうちに気がついたのは、車が目立って少ないことである。北京の大通りもほとんどは歩行者と自転車であった。交通機関の発達が遅れているといえばそれまでである。しかし私には、悠々と歩く人々の表情に、言いようのない長閑な平和さが感じられた。
 たしかにそれは、文明の進展とともに、われわれが一様に忘れていた味であった。しかし、よくよく考えてみれば、否、考えるまでもなく、そんなことは人間にとって当然のことであり、最も本来の自然な姿にほかならない。
 その当然のことを、今、われわれは得難い味のようにかみしめている。こんなことが何故に起こってきたのか。
 その一つに、現在の生活様式が、便利さを第一の価値として優先してきたことがあげられるといってよい。そこには、便利なものが豊富にあれば、それ自体で「豊かな生活」であるという、きわめて安易なわれわれの考え方がある。
 たしかに現代文明のさまざまな機械は、生活を簡便化し、合理化し、スピード化してくれる。その意味でそれは、人間生活にプラスの価値を与えていることは、言うまでもない。
 だが、それがはたして人間が求める「豊かさ」の絶対的な尺度かというと、決してそうではなかろう。便利、簡便といった功利からはほど遠い次元で「豊かさ」を感ずることが多いのである。
 たとえば長年月をかけて、苦闘と努力を積み重ねてきた労作業が見事に結実したときの喜び、充実感。それは人間として最も「豊かさ」を感ずる瞬間であろう。事実、人間が人間として「豊かさ」をかみしめるのは、目先の簡便さなどではなく、自分自身が額に汗を流し、全精魂を傾けた労働にあるときが多い。
 便利なものを排斥すべきではない。むしろ大いに活用すべきものだ。しかし人間は、便利さの恩恵にいったん浴してしまうと、みずから苦労して収穫する回り道を避けようとしはじめるものだ。かくして、外形だけ豊かで便利な調度に囲まれながら、心の豊かさを忘れた貧弱な人間だけがいる寂寞たる光景ができあがる。大地を踏みしめて歩き、手にハンマーを持つことを忘れた人間、あふれる情報洪水にのめりこみ、思索という、存在の第一義さえ忘れた人間──未来人は、弱々しい手足と空虚な頭脳をもった哀れな姿に堕するのであろうか。
3  「便利」な交通機関の極致ともいうべき東海道新幹線では、東京から大阪まで三時間である。昔はここを五十三の宿場が結んでいた。忙しい現代人からすれば、道中に要する時間たるや、もったいないかぎりかもしれない。しかし、昔の人々とて道中を無駄に過ごしたわけではあるまい。駕篭に、あるいは馬の背に揺られながら、また杖を持って歩きながら、景色を楽しみ、人の世の変化相を見聞し、和歌や俳句をものした人も多かったにちがいない。新幹線に乗って旅を急ぐ現代人は、そこに何を見、何を創造しているであろうか。
 考えようによっては、一日は二十四時間、どんな乗り物を使って、どれだけ動きまわったとしても、これだけは変わりがない。いうなれば、どこにどうしていようとも、自己の「存在」だけは厳としてある。その自己をどう充実させるかが一日の充実につながり、ひいては、豊かな人生、社会をわが掌中にするかの鍵となるのではあるまいか。便利な環境自体が豊かなのではなく、その便利さをどう自己の人生の充実へと使いこなしていくかの知恵が、豊かさを形成するものだと思う。
4  私の周りにはいろいろな人がいる。同じ職場、同じような家庭をもっていても、豊かさは人それぞれに違う。質素な衣装を身につけていても、馥郁とした豊かさが滲みでている人もいる。豊かさが外形にあるのではなく、その人の内面の世界の深さと広がりにあるからなのだろう。「種子島」に驚き、「黒船」に眠りをさまされた日本人は、科学の進んだ西欧文化が豊かにみえ、不幸にも、それ以外に豊かさはないものと錯覚してしまったのであろう。その必然の結果として、繁栄だけを求めるアニマルに堕してしまったのかもしれない。
 豊かさとは、一つの物差しで計れるものではないと思う。多種多様に豊かさを把握する時代がきていることを、ノーカー運動は教えてくれているようだ。

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