Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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沙の餅  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
2  「雑阿含経」という仏典に、徳勝童子、無勝童子の話が出てくる。釈尊の亡くなったあと百年たったころ、インドに善政をしいたアショーカ王の因縁に関するものである。 ──あるとき釈尊が、一つの村に乞食行に出かけた。すると、徳勝、無勝という名の二人の童子(一人という説もある)が、砂場で遊びたわむれていた。なにせ釈尊は、三十二相(仏が身に備えている三十二のすぐれた特質)といわれるほど、威風あたりをはらう荘厳な姿をしていたのであろう。近づくのを目にした徳勝童子は、なにか仏に供養したいと思い、そばの砂を固めて、“沙の餅”を、釈尊の手にする鉢の中へ供養した。それを見ていた無勝童子も、合掌して喜んだ。その功徳によって、のちに徳勝童子はアショーカ王に生まれた、と経文では説かれている。
 日蓮大聖人はこの例を引き「仏は真に尊くして物によらず」と仰せになっている。
 これこそ利害や打算をこえた信仰の尊さを教えた説話であるといってよい。純真な信仰心さえあれば、たとえ“沙の餅”であっても、考えられないほどの福運を積むことができる。私は仏典が、純粋な信仰を童子の心になぞらえたのは、十分に理由のあることだと思っている。
 なぜなら、子どもたちの心には、本来、利害や打算の入りこむ余地はないからだ。邪心のない素直な心の発露──。子らは損得では動かない。興味で動く。好奇心のかたまりである。乾いた大地が雨を吸い込むように、未知のもの、未知の領域を貪欲に吸収しゆくといってよい。かぎりなくひたすら未来を夢見る生来の楽観主義者であり、まっすぐに伸びれば非行や自殺などとは、およそ縁遠いはずなのだ。その可能性の広々として豊かな沃野を、一定の受験技術の習得のために、決して閉じ込めてしまってはならない。
 お母さん方は、どうかわが子の“沙の餅”に心を留めてもらいたい。そこに託された未来からの希望のメッセージに、心豊かに耳を傾けていただきたい。その愛情濃やかな配慮があれば、どんなに社会環境が悪くても、子どもたちは、かならず自分の手で道を切り開いていくにちがいない。ちょうどOさんの店先に咲いた、一本のヒマワリのように。

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