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日蓮大聖人・池田大作

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自立した主婦像を目指して  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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1  結婚は人生のゴールではない
 私は時折、頼まれて結婚式に出席することがある。多くの青年男女の友に不平等になってはと思い、極力遠慮するようにしているが、断りきれないときもある。式場に臨んでまず感じさせられるのは、いつもながら花嫁の美しさである。幸福感に満ち、そして幾分感傷的な気分に浸りながら、緊張の面持ちで主役を務めている姿は、荘厳といってよいほど輝いている。すくすくと育ってきた若芽が、今まさに花開こうとする厳かな一瞬にも似ている。私は最大限の期待を込めた賛辞を贈らずにはいられない。
 結婚ということは、なるほど女性にとっては人生の一大事であるにちがいない。しかし、それは決してゴールではない。ようやく芽を吹き花開いた若木の肌を、容赦なく風は叩き雨は洗い落とそうとするであろう。その仮借ない試練に耐えてこそ、木は生長し、大きく枝を張り、葉を茂らせる。やがて子供をもうけ、一家の主婦として家計を切り盛りし、子弟の教育にあたったり、幸福と繁栄をめざしての家庭建設の要となる重責が、いやでものしかかってくる。青春時代にほのかに描いたロマンチックな設計図と現実とのギャップに煩悶しながら、なお強靱な粘りと崇高な犠牲的精神で、揺るぎない黄金の城を築こうと懸命に生きる人たちを、私は知っている。
 このような主婦が、一家の中心として、すべての労苦をわが身一つに引き受けて生きぬく人生開拓の姿ほど、この世の中で尊くもまた美しいものはない。
 家長が大家族の経済を賄い、幾世代もの人びとが、同じ屋根の下で相助けながら生活していく時代は、善きにつけ悪しきにつけ、過ぎてしまった。核家族時代は、若い夫婦にも経済的自立を要請している。とくに昨今の経済不況は、二十代の若いサラリーマンにとっては、一家の生計を支えるのに困難をおぼえさせている。いきおい、共働きをする家庭が増えてくる。私の知っている女性でも、結婚後共働きをする人たちが圧倒的に多い。
2  社会に目を向ける女性
 現在、約一千万人もの女性が職をもっているという。働く女性が増えていることが、女性の社会への積極的参加を物語るのであればいうことはないのだが、経済的な理由でこうした現象が起こっているとすれば、これほど残念なこともない。
 しかし、ケガの功名にせよ、女性が結婚後、家庭に入りきりで閉鎖的な生活を送る従来のパターンが、多少なりとも打ち破られたことは、女性の地位確立のうえでも大きな役割を果たしたことは否めない。だからといって私は結婚した女性が家庭に入って育児、教育等に専念することを非難しているのではない。家庭に入ることによって、視野の狭い、目前の些事に右顧左眄するのみの生活に流される女性になることを恐れるのである。
 私の知っているある女性であるが、国立大学を出、自己の意見を堂々と述べる才媛としてうたわれ、ある学者と祝福されつつ結婚した。彼女は仕事をやめて家庭に入り、主婦としての使命に没頭した。数年後、彼女と会った人の話によると、彼女の述べる意見は一変していたという。発想がことごとく夫のものだったというのである。「主人の考えによると……」「主人は……」という発言が繰り返され、呆然とするより悲しくなってしまったと語っていた。そのような姿になるなら、結婚することが怖くなったとも述べていた。
 いささか極端な例であるかもしれない。
 人間は環境に左右されやすい存在である。毎日、四角い壁の中で過ごし、テレビを見ながら一日を送るだけでは──そのテレビも、奥さま向けというのは興味本位の暴露ものやジメジメした感傷的なドラマである場合が多く、閉鎖性に拍車をかけることが少なくないのだが──考えも、夫をとおしてのものが多くなることもやむをえない。私が常に、社会に目を向ける聡明な女性であることを願っているのも、真実の男女平等の点からいっても女性が脱皮すべき時代に入っているからにほかならない。
 とはいっても、マーガレット・ミード女史の考えを借りるまでもなく、現代社会は総じて男性主導型社会である。家庭から社会に飛び出して伸びのびと活躍しようとすれば、必然的に女性に余計な負担がかかってくるのも事実である。私などは男性として、家事の面倒をみなくても比較的大きな顔をしていられるという特権を知らずしらずのうちに利用しており、女性解放のために戦われている人たちの目からすれば、世の大多数の男性と同じく駆逐されるべき存在なのかもしれない。
3  女性が活躍できる社会に
 女性が職をもったからといって、家事を担当しなくてもよいというようには、現代社会の仕組みはなっていない。いや、最も頼りとする夫である男性の考え方が大部分の場合変わっていないのである。もっとも、なかには共働きの家庭で夫婦が交代で炊事や洗濯をするところもあるようだが、世の大半の亭主は知らぬ顔の半兵衛をきめこむ。
 育児、教育についてもしかりである。出産すると、女性は家庭に入って専念するのが常であるが、経済的理由や信条から、仕事をつづける場合がある。また、いったんは職を離れても、子供に手がかからなくなると、ふたたび職をもつミセスもいる。そのようにしてカギっ子という現代社会の一つの特徴的現象が出現する。このような場合、女性には二重、三重の負担がかかってくる。
 さらに、それらの条件を覚悟したうえで就職したとしても、女性を待ち受けている職場の条件は、女性にとって満足すべきものだとは言いがたいのが現状である。仕事が女性にとって差別意識を助長する内容だから、ますます腰かけ的な考えになるのか、そういう姿勢がみられるから余計に職に差ができるのか、どうもお互いが相乗作用を起こしているようだが、要所は男性が押さえて放さないということになっているようだ。
 あれこれ考えてみると、女性が職をもつことに、さまざまな制約があるのが現代社会の構造であるようだ。だからといって、それに甘んじていたのでは、男性型社会の悪い部分はいつまでも頑固に変わらないであろう。苛酷な条件のなかで、一人ひとりが力を発揮し、真価を世に認めさせていく粘着力ある行動のなかに、その成果はあらわれてくるのではなかろうか。
 事実、職をもつ女性の裾野が広がるにつれて、頂上も高くなっているようだ。大会社で局長、部長の要職にある人や、学問研究の分野で華やかな業績を収めている人を、私は多く知っている。
 私は昭和四十九年、中国とソ連を訪れたが、かねがね想像してはいたものの、いざ触れてみて、女性がいかに男性に伍して、社会、国家に貢献する働きを示しているかを、今さらのように強く感じた。中国でも、働く主婦が、難解な設計図と取り組みながら、見事な技術者ぶりを発揮していたし、ソ連でも、私の会う人の半分は女性ではないかと思うほど、さまざまな分野での活躍が感じられたのである。彼女たちとて、主婦であることに変わりはない。もちろん日本における役割とは違って、女性が、男性と平等に社会で活躍できるような仕組みになっているから、おのずから差はあろうが、それにしても、現実にそうした社会があるということ、しかも見事な成果を収めているということは着目してよい。
 私は男性の一員として、苦い反省のようなものを感ぜざるをえなかった。現代日本が、その機構をもっと女性のために開放しなければならない。その方向へもっていくために努力すべきことを痛感したのである。根本的には、こうした社会の一種の偏向が、男性を上回るともいえる辛労を女性に要請しているのであろうが、そうした前提を踏まえたうえで、婦人が自らの存在を拡大していくならば、まさにその価値は計り知れないものがある。
4  価値創造の生活を
 一人三役という言葉がある。女性として、妻として、母として、仕事、家事、教育を受けもつ苦労を表現したものであろうが、私はこの言葉はあまり好きではない。人間、自らの向上を望み、完成をめざすならば、困難にあえて立ち向かう姿勢が不可欠であろう。家庭のなかの人として、あるいは社会人として、また一個の人間として、さらには仕事を幾つももちながらその責務を、莞爾として果たしている人も多くいる。というより一人三役、四役を果たすことは、誰にとっても当然のことであるといってもよい。それぐらいの姿勢を貫いてこそ、人間の成長はあるのであろう。安易に流され、自らの可能性を摘み取ってしまうことほど愚かなことはない。
 そしてこの苦労を実らせるものは、知恵である。苦労をあえて求めるといっても、現実には目の回るような忙しさに追われることもあろう。仕事を終えて帰ってきて、大あわてで食事の用意をしなければならない。子供の面倒もみなければならないし、隣近所との付き合いもある。いきおい、食事はインスタントなものや、有りあわせですませてしまう──というようなことがあれば、いつのまにか惰性に流されているのである。というより、あまりにも知恵のない姿であるといえるのではないか。
 保存のきくものを前夜に用意しておいたり、インスタントなものであっても工夫を加えることによって栄養や体裁もカバーできよう。子供や夫とのコミュニケーションも、一葉の心温まるメモが百万言よりも力を発揮する場合があることを忘れまい。知恵の働かせ方によって、生活はいくらでも価値創造できるはずである。
5  開かれた社会へ
 仕事に対しても、たんに家計の足しにするという考えであっては、悪循環に陥るのみである。私は「稼ぐ」という言葉はきらいである。仕事をとおして自己を向上させ、なんらかの貢献を社会に果たしている実感をもっていただきたいのである。
 それは仕事の性質だけではない。仕事に対する姿勢も含まれるのである。その人の存在が人びとの心に希望の灯をともさせるようであれば、それだけでどれほどの価値を生んでいることか。
 まして、職場にあって、少しでも社会に貢献していることを実感しつつ、またそれを念頭におきつつ取り組んでいくならば、そのことがやがては女性の真実の解放につながることを私は信じている。
 働く女性がめざめて自我を拡大していくならば、たんに女性の問題だけではなく、それ自体、大衆の大きなレベルアップとなることは疑いない。ある意味では、女性が職をもつということは、男性以上に人間形成に革命をもたらすといえよう。大変だ、というのでなく、絶好の機会だととらえてほしいのである。
 閉じられた社会に引きこもるのでなく、大きく外界に飛躍する女性群像が見られるとき、おのずから家庭における教育の質の転換が行われるであろう。夫と子供しか念頭になく、教育も知識偏重の教育ママがハバをきかす現状は、子供のためにもよくないと私は思っている。
 社会とのつながりをもち、目を世界に向け、人生の根源に向けながら、現実生活の労務を賢明に作業していく女性が社会を構成していくならば、素晴らしい時代が開かれていくにちがいない。このような親に育てられる子供たちの未来を想像し、社会を予想しただけで、私の胸はふくらんでくるのである。

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