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日蓮大聖人・池田大作

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信仰とは何か  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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4  自己を照らす英知の光
 二、三年前から、人間の“生きがい”ということが、盛んに論じられるようになってきたのは、その一つのあらわれです。
 職場においても、ただガムシャラに働いてきた、これまでの生き方にあきたらなくなり、何のために働くのか、それが自分なりに納得できる仕事をしたいという考え方が強まっております。若者たちの間では、とくに、この傾向が著しく、給料のよさよりも、自分が意義を認めることのできる仕事を選ぶ人びとが増えています。
 人間にとって、最も普遍的で、最も根源的な“行為”は、言うまでもなく“生きる”ということです。それは“何のため”にその職場を選ぶか、何のためにその仕事をするか、というのとは比較にならない、根源的なテーマであり、しかも、あらゆる人に共通する問題です。また、何のためにその仕事をするのかということは、自分の人生に対する理想や、社会に対する考え方との関連で答えが得られます。それに対し、何のために生きるのかという問題は、現実のこの生や現実社会との関連では解決されません。
 この“人生そのもの”に意義を与えるのは、現実の生や、社会を超えたものでなければならないのです。人間の生は有限です。その彼方には、誰も知ることのできない、死の淵が黒々と広がっています。死とは、いったい何なのか。人間の生命は、死によって一切終わるのか、それとも、生きている私たちには見えない形でつづいていくのか。
 仏教は、生命が不滅の実在であり、生といい死というものは、この生命があらわす変化の姿であるとし、この不滅の生命という実在から、人間の意義づけを説いた教えです。それは、超越的な存在を現実を超えた彼方に求めるのでなく、私たちの生命それ自体に求める考え方です。これに対して、キリスト教やイスラム教は、現実の彼方に、神という超越者を想定し、この神との関係から、人生への意義づけを行った教えであるということができましょう。
 今、私は、どちらが優れ、どちらが劣るという論議をするつもりはありません。起源的にいえば、キリスト教、イスラム教等は、自然界の力に対する畏敬という信仰が、モーゼやイエス、マホメットといった人格によって昇華され、高等宗教へと変革したものといえます。仏教は、最初から、一人の聖人が生と死の問題に想いを凝らし、そこに開いた悟りから出発しました。
 また、超越的な全知全能の神は、どこにどのようにして存在するともいえません。存在の知りようがないという意味で、それはまた客観的には否定のしようもない、という強みをもっています。これに対し、生命は、現実にそれがあることを、誰でも知っています。しかし、その実在は神秘に満ちており、底知れない謎に包まれているのです。
 私自身の考えでは、超越的な神への信仰は失われることがあっても、生命の不可思議を起点とした信仰は、永久に失われることはないだろうと思っています。
 ともあれ、信仰は、人生に対して強力な“支え”となり、幾多の文明の基盤となってきました。西欧における科学の進歩も、それは結果として、キリスト教信仰の凋落をもたらしましたが、真理の究明は、神の摂理の偉大さを証明することであるという“信仰”の情熱によってもたらされたのです。芸術もまた、神の造化の美を讃え、表現するという、やはり“信仰”にもとづいた情熱が生み出したものといえましょう。
 現代は、人間にとって、自らの存在を問いなおし、自らの進む道を再吟味することを迫られている時代といえます。その自己を照らす英知の光を、私たちは、いったい何に求めればよいのでしょうか。もし、この大きい反省もなく、物質的欲望と、官能的衝動と、エゴイズムのおもむくままに突きすすんでいったら、やがては、地球を破壊し、自らも滅びることになってしまうでしょう。人生と信仰という、最も古い問題が、今、人類が滅びるかもしれないという危機に直面してみて、かえって最も新しい問題となってきつつあるのを、私は痛切に感ぜずにはいられないのです。

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