Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

信仰とは何か  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
3  信仰の出発点
 いろいろなところに話がとんで、少しわかりにくくなったかと思いますが、信仰というものは、いったい何か、ということを、このあたりでまとめてみましょう。
 信仰とは、この人生のなかにあって、人間の力で処理できない、ある力・法・現象に対する畏敬が、その出発点になっているといえそうです。もちろん、人生の外、人間の力の及ばないところといっても、人生や人間存在と無関係のものではなく、外にありながら、強い影響を、人生に、人間存在に及ぼしているものであることは、言うまでもありません。
 信仰のもともとの出発点が、一つは宇宙や自然界の力に対する畏敬と服従にあり、一つは生と死といった生命の不可思議に対する畏敬と探究にあったことは、この事情を如実に示していると、私には思われます。自然界の力に対する畏敬は、やがて、人間の知恵や、集団の力が、自然の力に対する優位を勝ち取るようになって、そうした優れた力をもつ個人や、集団の力(または、その象徴)に対する畏敬とその神格化へと変わっていきました。
 たとえば、わが国で、山や川、木々に宿ると考えられた神々は、自然界の力を神格化した例といえます。天照大神は、もともとは太陽の恵みを神格化したものでしょうが、やがて、そのまま、日本民族の先祖神と考えられるようになりました。直接的には天皇がその子孫であるとして、天照大神の力は天皇に集約されましたが、本来は、日本民族という集団の力を、体現化しようとしたものであると考えてよいでしょう。同じような過程は世界じゅう、どの民族についてもいえるようです。
 こうした外界の力に対する畏敬は、人間が自然を究め、人間自身の力の支配下におくことによって、しだいに神秘性を失っていくことは必然の流れです。
 つまり、科学や技術の進歩、発達によって、このような淵源から流れてきた“信仰”は、もはや成立する基盤を失いつつあるといっても過言ではないのです。もちろん、自然は、今も謎に包まれていますし、究めれば究めるほど、謎が深まることは、科学の先端を行く人びとの偽りのない感慨でもありましょう。しかし、だからといって、それは、さらに鋭く深い探究の対象ではあっても、“信仰”の対象に逆戻りすることはなさそうです。
 ところが、信仰のもう一つの淵源から発した、さらに深く神秘に包まれた流れは、人間の文明がどんなに発達し、そして、科学が進歩しても、少しも変わることなくつづいております。この“信仰”の流れは、さきの“信仰”が呪術的であったのに対し、哲学的であり、さきの“信仰”の結果として期待されたものが形而下的であったのに対し、これは形而上的であるということができます。
 厳密にいえば、いろいろな異論もあるでしょうが、今日、高等宗教といわれるキリスト教やイスラム教、仏教、そしてヒンズー教のなかのいくつかは、こうした哲学的、形而上的な一つの悟りを起点として打ち立てられたものです。その後、大衆の間にひろまっていく過程で、それぞれ、既存の呪術的宗教の要素を取り入れていますから、いま現にある姿は、このように、一概に規定することはできませんが、出発点については、かなりはっきり、その特質を指摘することができるようです。
 この、生と死、生命の不可思議に対する畏敬と探究の心を起点とした宗教信仰は、今も、その存在意義を失っていないばかりでなく、人間が人間として生きていくかぎり、絶対に、意義を失うことはありえないと思われます。なぜなら、人間は、自己の存在や行為に対して、なんらかの意味と意義を見いださないでは生きられない存在だからです。
4  自己を照らす英知の光
 二、三年前から、人間の“生きがい”ということが、盛んに論じられるようになってきたのは、その一つのあらわれです。
 職場においても、ただガムシャラに働いてきた、これまでの生き方にあきたらなくなり、何のために働くのか、それが自分なりに納得できる仕事をしたいという考え方が強まっております。若者たちの間では、とくに、この傾向が著しく、給料のよさよりも、自分が意義を認めることのできる仕事を選ぶ人びとが増えています。
 人間にとって、最も普遍的で、最も根源的な“行為”は、言うまでもなく“生きる”ということです。それは“何のため”にその職場を選ぶか、何のためにその仕事をするか、というのとは比較にならない、根源的なテーマであり、しかも、あらゆる人に共通する問題です。また、何のためにその仕事をするのかということは、自分の人生に対する理想や、社会に対する考え方との関連で答えが得られます。それに対し、何のために生きるのかという問題は、現実のこの生や現実社会との関連では解決されません。
 この“人生そのもの”に意義を与えるのは、現実の生や、社会を超えたものでなければならないのです。人間の生は有限です。その彼方には、誰も知ることのできない、死の淵が黒々と広がっています。死とは、いったい何なのか。人間の生命は、死によって一切終わるのか、それとも、生きている私たちには見えない形でつづいていくのか。
 仏教は、生命が不滅の実在であり、生といい死というものは、この生命があらわす変化の姿であるとし、この不滅の生命という実在から、人間の意義づけを説いた教えです。それは、超越的な存在を現実を超えた彼方に求めるのでなく、私たちの生命それ自体に求める考え方です。これに対して、キリスト教やイスラム教は、現実の彼方に、神という超越者を想定し、この神との関係から、人生への意義づけを行った教えであるということができましょう。
 今、私は、どちらが優れ、どちらが劣るという論議をするつもりはありません。起源的にいえば、キリスト教、イスラム教等は、自然界の力に対する畏敬という信仰が、モーゼやイエス、マホメットといった人格によって昇華され、高等宗教へと変革したものといえます。仏教は、最初から、一人の聖人が生と死の問題に想いを凝らし、そこに開いた悟りから出発しました。
 また、超越的な全知全能の神は、どこにどのようにして存在するともいえません。存在の知りようがないという意味で、それはまた客観的には否定のしようもない、という強みをもっています。これに対し、生命は、現実にそれがあることを、誰でも知っています。しかし、その実在は神秘に満ちており、底知れない謎に包まれているのです。
 私自身の考えでは、超越的な神への信仰は失われることがあっても、生命の不可思議を起点とした信仰は、永久に失われることはないだろうと思っています。
 ともあれ、信仰は、人生に対して強力な“支え”となり、幾多の文明の基盤となってきました。西欧における科学の進歩も、それは結果として、キリスト教信仰の凋落をもたらしましたが、真理の究明は、神の摂理の偉大さを証明することであるという“信仰”の情熱によってもたらされたのです。芸術もまた、神の造化の美を讃え、表現するという、やはり“信仰”にもとづいた情熱が生み出したものといえましょう。
 現代は、人間にとって、自らの存在を問いなおし、自らの進む道を再吟味することを迫られている時代といえます。その自己を照らす英知の光を、私たちは、いったい何に求めればよいのでしょうか。もし、この大きい反省もなく、物質的欲望と、官能的衝動と、エゴイズムのおもむくままに突きすすんでいったら、やがては、地球を破壊し、自らも滅びることになってしまうでしょう。人生と信仰という、最も古い問題が、今、人類が滅びるかもしれないという危機に直面してみて、かえって最も新しい問題となってきつつあるのを、私は痛切に感ぜずにはいられないのです。

1
3