Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 「生命の世紀」への選択  

「生命の世紀への探求」ライナス・ポーリング(池田大作全集第14巻)

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9  「脳死」へのアプローチ
 池田 欧米においては、すでに方向性が定まっていると思いますが、日本においては、今、脳死論争が盛んにおこなわれております。博士もよくご存じのように、日本の脳死判定や臓器移植に関する医学水準そのものは、欧米諸国とほぼ肩を並べるところにまで達していると思われます。
 ところが、技術的には可能であっても、なお、脳死に関する論議がおこなわれているところに、日本の風土の特殊性、そして死生観等が、色濃く反映しているように思います。
 ポーリング 脳死の状態から回復した人はいません。脳波が止まれば、すなわち、電極でとらえられる脳からの電気的波形が平らになった状態から蘇生した人はいないのです。蘇生する確率はないのです。ですから、脳死の患者をむりやり生かしておくことをしない了解さえ得られれば、脳死患者の臓器を移植のために使用するということは、正しいことだと思います。そこに、肉体的な苦痛の要素はないのです。脳死の状態の患者が苦痛を感じることはありませんし、そうした患者をたんに生かしておくということに、なんらの理由も私は見いだしません。
 池田 厳密に判定された脳死状態から蘇生した人はいないという認識は、日本でも現在ではいきわたってきております。
 ところで、私は脳死問題を考えるには、三つの段階があると思います。第一には、脳死は医学的に死であり、蘇生することはありえないかどうかという問題です。第二に、脳死状態であるということを確認するための判定基準ならびに、それにもとづいておこなわれる判定が確実であるかどうかという問題です。第三に、脳死であることを確認できたとして、それを、本人の意思や家族の意向等もふくめて一人一人が死と認め、人工呼吸器を取りはずすことに賛意を表したり、ある場合には臓器提供をなしうるかどうかという問題です。
 第一の点については、博士も言われるように疑問はありません。第二の点についてですが、日本で今、一般に使用されている判定基準は、欧米諸国にくらべても、厳密であるといわれております。それでも、現在、医師のなかから、その基準を満たした患者のなかで、さらに精密な他の検査をしたところ反応があった等の疑問が提示されております。しかし、これもやがて医学界で意見が調整されることと思われます。
 私も仏法者の立場から、医学界が責任をもって提示する判定基準にのっとって、脳死であることを厳密に確認するならば、その時点では、すでに人間生命は蘇生する可能性のある限界線を超えていると考えております。
 しかし最も大きな問題は、第三点です。ここに、日本民族や東洋人の死生観が深くかかわってくるのです。
 東洋人の死生観を培ってきた仏法の死生観について、ここでくわしく述べることはできませんが、かんたんに言えば、人間生命は死によって無に帰するとは考えません。臨終を過ぎた生命は、宇宙そのもののなかに融合していきます。
 つまり、死によって生命は断絶しないのですから、死にさいしていだいていた種々の感情、苦しみ、楽しみ等を潜在的エネルギーとしてたもちつつ、宇宙生命にとけこんでいくと考えるのです。
 たしかに、死にさいしては、意識のレベルが低下し、無意識の状態になります。しかし、仏法では、無意識の広大な領域を洞察し、そこに意識的自我をささえる根源的自我を見いだしております。無意識的、根源的自我は、意識のレベルが低下して昏睡状態に入っても働きつづけているというのです。
 むろん、博士の言われるように身体的苦痛、すなわち苦苦はありません。しかし、壊苦、行苦という心理的、実存的苦しみをいだいている可能性を否定することはできないと考えます。同時に、その根源的自我は、安らぎや楽しみをも感受するものです。
 このような死生観からすれば、私は死にゆく生命主体の意思を尊重しつつ、また家族の意向をも考慮すれば、臓器移植をおこなうことも可能だと考えております。
 また、なぜ日本で臓器移植が進まないのかといえば、日本民族の心の中には、仏法の死生観のほかに、日本人古来の死生観、日本の神道の死生観、儒教の身体観等があって、民族深層の心を形成しているからであると思われます。このような死生観、身体観のなかには、屍体と霊魂を一体とみなし、屍体に霊魂がやどっているという考え方をするものもあります。
 屍体と霊魂を一体と考えれば、脳死体であるからといって、その臓器を取り出すことには抵抗をおぼえるものです。日本や東洋では、臓器移植という西洋医学の方法論をどう受容していくかというコンセンサス(合意)づくりを急ぐことが必要であると、私は考えております。
 なお最近、私は「脳死問題に関する一考察」という論文で、この問題を掘りさげて論じました。

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