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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 「生命の世紀」への選択  

「生命の世紀への探求」ライナス・ポーリング(池田大作全集第14巻)

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8  死ぬ権利をめぐって
 池田 安楽死については、ギリシャの昔から賛否両論がたたかわされてきましたが、現代における安楽死論争は、新たな装いのもとに展開されております。アメリカでは十数年前に、医師を中心に、安楽死を是とする運動が起こり、話題になりました。今日では、安楽死の問題は、苦痛のために死を選ぶという積極的安楽死から、尊厳なる死を選ぶという尊厳死へと、その焦点が移りかわってきました。
 それには、延命治療の発達が大いに関係していると思われますが、博士は「人間は尊厳に死ぬ権利がある」とする「死ぬ権利」を、主張する考え方をどう思われますか。
 ポーリング 安楽死という言葉が、誤解を招きやすいと思います。私が関心をもっているのは、人間は尊厳に死ぬ権利をもっているということです。実質的に死んだも同然の人間の意識を回復させようと、できるだけ長く患者を生かしておこうとする集中治療病院の行為を抑制しようという努力を、私は支持しているのです。
 たとえそうした患者の意識を一時的に回復できるような場合があるとしても、一日後、一週間後にはまた死んだようになり、結局のところ回復する可能性はないのです。こうしたやりかたを、何度も繰り返すのは間違っていると、私は思います。死にゆく患者に、不必要な苦痛を強いているだけです。生きられる望みのない患者は尊厳に死ぬ権利があるという意見に、私は賛成します。脳死にいたった患者を、人工呼吸器や点滴などの延命装置等とか、なんらかの方法で生存させておくということに、正当な理由を私は認めません。回復不能な患者を何度も何度も生き返らせるようなことに、現代医学の方法を用いることには反対です。
 私は、人間には、尊厳に死ぬ権利があると思います。もし自分が回復の見込みのない怪我や病気になったときには、不必要な苦痛を課せられることなく、尊厳に死なせてくださいという趣旨の書面を用意しておくようにと言う人がいますが、私もそのようにしておくつもりです。他の面と同じく、ここにも人間の苦痛を最小限にしようという私の主義、信条を適用したいのです。
 私たちは、死ぬ人間に不必要な苦しみを与えるベきではありません。もちろん医師たちも、患者のために努力はしなければなりません。たとえば、ガンで苦しんでいる患者には、苦痛を抑えるためにモルヒネが与えられます。もし生き延びてモルヒネ中毒になってしまうとしても、医師としての分別は、患者が不必要に苦しまないように、十分な量のモルヒネを与えるのです。
 しかしいずれにしても、回復の見込みのない患者には、人工呼吸器や点滴その他の方法による延命治療の終局する時期がやってきます。患者を医師の手から守らなければならないという議論もあります。
 なんらかの理由で、助かるかも知れない患者に対して医師が治療をやめ、患者を死ぬにまかせるということもありえます。
 ですから、安楽死の問題については、正しい基準が整備され、実行されるよう慎重に対処しなければなりません。
 池田 かつての安楽死論争は、肉体的苦痛の有無が最大の焦点だったと思います。ガン末期に襲いかかってくるような極度の苦痛にさいなまれての生がよいのかどうか、といった性質のものでした。
 今日では博士も指摘されましたように、ガン末期等には、その苦痛を除去する医学的方法が進歩しております。いわゆるベインクリニック(治りにくい苦痛を除去する診療科)の発達によって、苦痛を焦点とする安楽死は少なくなってきたように思います。
 私も、死へのプロセスにおいて生じてくる苦痛を最小限にする努力をすべきだと思います。そのためには、ベインクリニックのさらなる進歩を期待しております。
 ところが、一方で、延命のための医療が発達してきたことによって生じた問題があり、そこから尊厳死論争が生じてきていると思います。たとえば、博士が例としてあげられた脳死患者への対応があげられます。脳死状態におちいって、医学的な脳死判定のための検査を繰り返しても、蘇生の可能性がまったく認められないと判断された状況において、さらに延命の治療をつづけるのかどうかという問題です。
 日本でも、脳死患者の心臓を種々の薬剤を与えて百日間も動かしつづけることに成功しております。しかし、脳死患者は、特殊な治療をしなければ、ほぼ三日か一週間以内には心臓が停止してしまうといわれております。
 このような状態の患者においては、延命治療を抑制することを考慮にいれることには、私も賛成です。この場合、いちばん重要なことは、やはり本人の意思、つまり自己決定権を最大限に尊重するということです。
 しかし、本人が前もって自分の意思を明らかにしておくためには、明確な死生観をもつことが必要でしょう。
 あわせて強調しておきたいのは、死にゆく生命をみとる家族や親しい人たちの心情と行為です。患者への愛情が根本的に大事になってきますし、患者が、尊厳な臨終を迎えられるよう努力すべきでしょう。
 当然、そこには医師の側が家族と協力しつつ、患者をそうした方向へ向かわせる最大限の配慮と援助がほしいと思います。
 そうしたことを前提としつつ、医療の現場では、家族の意思、心情をも十分尊重して治療のレベルを選択することが賢明な方法だと考えております。私が、このような主張をするのは、とくに、現在の日本において、家族の意向がきわめて大きな比重を占めているからです。
 本人の自己決定権が中心ではありますが、日本では、家族との意見の調整も重要な課題の一つとなっております。この家族の意向の尊重は、日本のみならず、中国や韓国等をふくめた東洋の諸国にもあてはまることだと思います。
 ところで、私は仏法者の立場から、人間における尊厳なる死を迎えうるために必要な条件を、次のように考えております。
 つまり、尊厳死論争とは、とりもなおさず、「死」論にほかならないと考えているのです。博士も言われるように、死にゆく生命の苦を取り除くことが、医学関係者や他の人々の最大の目標となりましょう。
 死にさいしての人間の苦についてですが、仏法では、三種の苦に分別して考慮しております。すなわち、苦苦、壊苦、行苦の三苦です。苦苦とは肉体的、生理的苦痛です。壊苦とは、精神的、心理的苦しみであり、これには家族、社会がかかわってきます。行苦とは、実存的、宗教的苦しみです。
 ベインクリニックをはじめとする現代の医学は、苦苦を除くことには成功をおさめつつあるように思われます。また壊苦に関しても、ホスピス等の発達によって重大な考慮がはらわれるようになりました。またここでは、家族との関係も大きな問題になる場合が多いでしょう。
 最後の行苦に関するものとして、私は、その人が生涯にわたって培ってきた生死観、人生観があり、また、哲学や宗教が重大な貢献をなすことができると考えております。
 仏教では、人間の尊厳なる死は、この三苦を除き、心身ともに安らぎに満ち、また歓びさえ感受しつつ人生の最終章を開じることであると示しております。延命のための医学も、人間に、このような死を迎えさせるために使われるべきであり、逆に、苦しみを増加させるようなことがあってはならない。
 ここに、尊厳死に関するさまざまな規制の根本原則があると考えております。
9  「脳死」へのアプローチ
 池田 欧米においては、すでに方向性が定まっていると思いますが、日本においては、今、脳死論争が盛んにおこなわれております。博士もよくご存じのように、日本の脳死判定や臓器移植に関する医学水準そのものは、欧米諸国とほぼ肩を並べるところにまで達していると思われます。
 ところが、技術的には可能であっても、なお、脳死に関する論議がおこなわれているところに、日本の風土の特殊性、そして死生観等が、色濃く反映しているように思います。
 ポーリング 脳死の状態から回復した人はいません。脳波が止まれば、すなわち、電極でとらえられる脳からの電気的波形が平らになった状態から蘇生した人はいないのです。蘇生する確率はないのです。ですから、脳死の患者をむりやり生かしておくことをしない了解さえ得られれば、脳死患者の臓器を移植のために使用するということは、正しいことだと思います。そこに、肉体的な苦痛の要素はないのです。脳死の状態の患者が苦痛を感じることはありませんし、そうした患者をたんに生かしておくということに、なんらの理由も私は見いだしません。
 池田 厳密に判定された脳死状態から蘇生した人はいないという認識は、日本でも現在ではいきわたってきております。
 ところで、私は脳死問題を考えるには、三つの段階があると思います。第一には、脳死は医学的に死であり、蘇生することはありえないかどうかという問題です。第二に、脳死状態であるということを確認するための判定基準ならびに、それにもとづいておこなわれる判定が確実であるかどうかという問題です。第三に、脳死であることを確認できたとして、それを、本人の意思や家族の意向等もふくめて一人一人が死と認め、人工呼吸器を取りはずすことに賛意を表したり、ある場合には臓器提供をなしうるかどうかという問題です。
 第一の点については、博士も言われるように疑問はありません。第二の点についてですが、日本で今、一般に使用されている判定基準は、欧米諸国にくらべても、厳密であるといわれております。それでも、現在、医師のなかから、その基準を満たした患者のなかで、さらに精密な他の検査をしたところ反応があった等の疑問が提示されております。しかし、これもやがて医学界で意見が調整されることと思われます。
 私も仏法者の立場から、医学界が責任をもって提示する判定基準にのっとって、脳死であることを厳密に確認するならば、その時点では、すでに人間生命は蘇生する可能性のある限界線を超えていると考えております。
 しかし最も大きな問題は、第三点です。ここに、日本民族や東洋人の死生観が深くかかわってくるのです。
 東洋人の死生観を培ってきた仏法の死生観について、ここでくわしく述べることはできませんが、かんたんに言えば、人間生命は死によって無に帰するとは考えません。臨終を過ぎた生命は、宇宙そのもののなかに融合していきます。
 つまり、死によって生命は断絶しないのですから、死にさいしていだいていた種々の感情、苦しみ、楽しみ等を潜在的エネルギーとしてたもちつつ、宇宙生命にとけこんでいくと考えるのです。
 たしかに、死にさいしては、意識のレベルが低下し、無意識の状態になります。しかし、仏法では、無意識の広大な領域を洞察し、そこに意識的自我をささえる根源的自我を見いだしております。無意識的、根源的自我は、意識のレベルが低下して昏睡状態に入っても働きつづけているというのです。
 むろん、博士の言われるように身体的苦痛、すなわち苦苦はありません。しかし、壊苦、行苦という心理的、実存的苦しみをいだいている可能性を否定することはできないと考えます。同時に、その根源的自我は、安らぎや楽しみをも感受するものです。
 このような死生観からすれば、私は死にゆく生命主体の意思を尊重しつつ、また家族の意向をも考慮すれば、臓器移植をおこなうことも可能だと考えております。
 また、なぜ日本で臓器移植が進まないのかといえば、日本民族の心の中には、仏法の死生観のほかに、日本人古来の死生観、日本の神道の死生観、儒教の身体観等があって、民族深層の心を形成しているからであると思われます。このような死生観、身体観のなかには、屍体と霊魂を一体とみなし、屍体に霊魂がやどっているという考え方をするものもあります。
 屍体と霊魂を一体と考えれば、脳死体であるからといって、その臓器を取り出すことには抵抗をおぼえるものです。日本や東洋では、臓器移植という西洋医学の方法論をどう受容していくかというコンセンサス(合意)づくりを急ぐことが必要であると、私は考えております。
 なお最近、私は「脳死問題に関する一考察」という論文で、この問題を掘りさげて論じました。

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