Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

4 ミリンダ王の問い  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  ギリシア世界の哲人王
 松本 アショーカ(阿育)王の死後、マウリヤ王朝の統一は失われ、とくに西北インドはギリシア人の王が支配するところとなりました。そのなかで、西暦紀元前二世紀の後半、この地方を領有していたメナンドロス王は、インド側の記録にも登場し、仏教とも非常に縁の深い人物です。今回は、このメナンドロス王の話を中心に、仏教とギリシア世界の交流を取り上げてみたいと思います。
 池田 これは、非常におもしろい、興味ぶかいテーマだね。アショーカ王のときは、王が掲げた仏教者としての理想が、一方的に西方世界に伝えられた。一方的とは、つまり、それに対して西方の人びとがどう受け止め、どのように応えたか、ということは、いっさい伝えられていないし、わからないままだということです。
 東と西との勢力関係からいうと、アショーカ王の場合は、東が優位で、西は受け身の側だった。これに対し、メナンドロス王の場合は、政治的には西側が優位で、東側のインドは被支配者の位置にある。しかし、文化的、精神的には、この東と西とが対等の立場で論じあった、といえるね。
 野崎 メナンドロス王というのは、パーリ語の文献では「ミリンダ王」と表現されています。漢訳では、音写されて弥蘭陀、弥蘭、あるいは畢隣陀とも記されている。仏教徒のあいだでは『ミリンダ王問経』(漢訳では『那先比丘経』)の登場人物として知られているし、この経典を中心に話を進めていくことになりますので、ここでは「ミリンダ王」と呼ぶことにしたいと思います。
 松本 そこで、まずメナンドロス王、いやミリンダ王とは、どのような人物であったかをみておこうと思います。経典には次のように紹介されています。
 「〈かれは〉賢明、経験豊かで、聡明、かつ敏腕であった。そして過去・未来・現在の事柄に関するあらゆる祈祷や儀式を、なすべきこきに敬虔に行なった。かれはまた、多くの学問を会得していた。すなわち、天啓書、教義書、サーンキヤ、ヨーガ、ニヤーヤ、ヴァイシェーシカ〈の諸哲学〉、数学、音楽、医学、四ヴェーダ聖典、プラーナ聖典、歴史伝説、天文学、幻術、論理学、呪術、兵学、詩学、指算の十九である。かれは論者として近づき難く、打ち勝ち難く、種々なる祖師のうちで最上者であるといわれる。全インドのうちに、体力・敏捷・武勇・智慧に関して、ミリンダ王に等しいいかなる人もいなかった。かれは富裕であって、大いに富み、大いに栄え、無数の兵力と車乗とがあった」(『ミリンダ王の問い』1、中村元・早島鏡正訳、平凡社)と。
 これは、むろん後代の人が付加した部分ですが、ミリンダ王の偉大さの一面は、よく伝えていると思います。
 池田 なにしろ二千年以上も昔の王様のことであるから、必ずしも正確に伝わっているとはかぎらない。しかし、それにしても、当時のインドには、ずいろんな学問があったものだね。なかには、幻術とか呪術とか、なんだか眉にツバをつけたくなるような(笑い)科目もあるが、これだけ多くの科目が立てられていたということは、この時代、いかに学問が興隆していたか、知的レベルが高かっかたかを物語っているといえる。
 数学などは、今日、一般に使われている数字をアラビア数字と呼んでいるけれども、これはヨーロッパ人が直接受け取ったのがアラビア人からだったためで、ほんとうはインド人が発明したものです。零(ゼロ)という概念も、紀元前後のころには、インドですでに使われていたという。ともかくこのころのインド世界が、いかに知的に優れ、高度な文明をもっていたかが、よくうかがわれるね。
 ミリンダ王は、元来のギリシア世界の学問・教養に加えて、インドの主として、インドの文化・学問を全面的に学びとったのであろう。それだけに、当時のインド民衆にしてみれば、ミリンダ王は近づき難い存在であったことは、確かなようだ。
 野崎 経典にも出てきますが、このギリシア人の王に論争を仕かけられたインドの哲学者たちは、次々と議論に負けてしまいます。
 それから、当時使用されていた、ミリンダ王の肖像を彫った貨幣が残っています。それを写真でみますと、このギリシア人王は、必ずしも美男子であるとはいえませんが、非常に聡明そうな横顔をしています。
 松本 ところで、ミリンダ王が、このようにインドの諸学を修め、バラモンや仏教僧侶とも積極的に対話を試みようとしたことについて、どのように考えたらよいでしょうか。学者のなかには、異民族を支配するための方便であった、とみる人もいます。また、アレクサンドロス大王(アレキサンダ大王)以来、ギリシア人の王には、異国の賢者に教えを受けようとする伝統があったから、と説明する人もいますが……。
 池田 そういうとともあるかもしれない。これは、あくまで私個人の推測だが、当時のギリシア人の王は、ギリシア世界の生んだ明哲、プラトンの説いた「哲人王」の理想を追求したのではないだろうか。
 あるいはまた、アリストテレスの教えを受け、インドにまでやってきたアレクサンドロス大王の故知にならったのかもしれない。
 ともかく、ミリンダ王の議論の仕方をみると、ギリシア哲学の発想法が随所にみられるね。やはり彼は、インドの学問も修めたとはいえ、その根底にある考え方、精神構造の基底部をなしていたものは、ギリシア的思考法だったと考えられる。
 松本 彼の質問の仕方は、あれかこれかの二者択一を迫るものが、ほとんどですね。二つの矛盾した見方を持ちだして、いずれが正しいかを判定させようとする。これは、非常にギリシア的というか、西洋的な発想法といえます。なかには、たいへん意地の悪い難問も少なくありません。
2  3  。それがわかったから
4  といって、どれだけ人生にプラスに・なるのか、はな
 はだ疑わしい場合もある。
5  たとえば、さきの『ミリンダ王の問い』1によると、ミリンダ王がプーラナ・カッサパの住処におもむいて交わした議論に、こういうのがあります。
 「尊者カッサパよ。何が世界を支えているのですか?」
 「大王よ、地が世界を支えているのです」
 「尊者カツサパよ、もし地が世界を支えているならば、無間地獄に行ったところの生きとし生ける者は、いったいどうして地を越えて行くのですか?」
 ミリンダ王がこのように訊きかえすと、プーラナ・カッサパは、難問を呑みこむこともできず、吐きだすこともできず(笑い)、ただ頭を垂れて沈黙し、呆然と坐りこんでいたというのです。
 池田 ある意味では、自己の知性に酔って相手をやりとめることに、一種の快感を味わったのかもしれない(笑い)。また、そこに政治的な事情をからませて考えると、インド人には、自分たちは、ギリシア人に政治的には支配されているけれども、学問的・精神的には、はるかに高いんだ、という誇りみたいなものがあって、それを感じとったミリンダ王が、支配者として、その高慢の鼻をへし折ってやろうとしたとも考えられる。
 しかし、それはともかく、この質問は、ちょっとおとなげないね。また、プーラナ・カッサパが答えに窮したというのも、理解に苦しむ話だだ。なにも無間地獄に、この肉体のままで行くわけではなく、死後の状態を説明するには、空の概念をもってすれば、少しも難問とするにはあたらない。まして「無間地獄」というのは、欲界の最底、大焦熱地獄の下にあるといっても、それは一つの譬喩であって、本来の意味は、間断なき責め苦を受けるということです。それを、あたかも大地の底に地獄があるかのように勘違いして、どのように行くのかなどと質問するほうがおかしい。
 それにしても、これは単なる笑い話ではない。今でも、仏教に関して、これに類する質問をする人がいるのではないだろうか。とくに明治以来の日本の知識人たちは、多くの人がヨーロッパ的な教養を身につけた反面、インド思想や仏教の知識に関しては、ほとんど学ぶところがなかった。そのため、千年以上も昔のミリンダ王と、同じような疑問を仏教に対していだくことになってしまっている。
 ところが、日本の文化、東洋の文化はいうまでもなく、世界の文化そのものが仏教の影響を度外視しては、まったく論ずることもできない。その肝心の仏教を知ろうとしないで、西洋の合理的精神さえ身につければ、この世界のことはわかると考えたところに、今日の行き詰まりの一つの根本的原因があるのではないだろうか。といっても、直ちに西洋の合理主義を捨てて、東洋の英知に回帰せよ、というのではない。
 西洋か東洋か、といった二者択一的な行き方ではなく、謙虚に、両方の思想を正しく知っていくことが大事であると思う。
 野崎 まったく同感です。ミリンダ王も、最初は武力による征服者であったわけですが、やがて対話をとおして、インドの思想を理解しようとしたものと思います。そこに、東洋人の感化が、強く働いたことは否めません。
 松本 彼は、西暦前一六〇年から前一四〇年ごろにかけて、現在のアフガニスタンの首都カーブル地方を統治していました。そのため、当初は「カーブル王メナンドロス」と呼ばれていましたが、紀元前二世紀後半にはインドに入り、やがて中部インドまで支配した、といわれます。そして、インド人からも「全インドにおける第一の王」と呼ばれ、死後、ミリンダ王の遺骨は、釈尊の例にならって分骨され、各地に埋葬されたそうです。
 池田 文字どおり、インドに骨を埋めたわけだね。おそらく、それが彼の生前の決意であり、理想であったのではないだろうか。学者の推定によると、彼はインドの言語を話すことができたらしい。このことは、彼がインドの民衆のなかにとけこんでいたことを示している。
 ギリシア人とか、インド人とかいっても、みな同じ人間であることに変わりはない。人種とか民族の壁を超えて、まず人間として互いに理解しあうならば、意思が通じないはずはない。対話を好んだミリンダ王の精神も、そこにあったのではないだろうか。
6  ナーガセーナの知恵
 松本 ミリンダ王は、機会あるごとに高名な修行僧を訪ね、対話を試みています。しかし、これといった人物は、なかなかみつからなかった。彼は、心のなかで次のように歎息したそうです。
 「ああ、実に全インドは空っぽである。ああ、実に全インドは籾がら〈のようなもの〉である。予とともに対論し、疑いをとりのぞくことのできる修行者あるいはバラモンは、だれ一人としていない」(前出)
 これは、バラモンはもちろん、仏教の修行者にとっても、非常に不名誉なことであったと思います。『ミリンダ王問経』の序話の部分には、当時の仏教僧侶が教団をあげて、ミリンダ王と対論できる僧侶をさがしているさまが描かれています。
 野崎 そこで、いよいよナーガセーナ(那先)比丘が登場してくるわけです。伝えられるところによれば、彼は大きな象と同じ日に生まれたので、この名が付けられた、という。インドでは、象はナーガ(那)と呼ばれ、たいへんに尊ばれていました。ミリンダ王が権力の第一人者とすれば、ナーガセーナは思想界の王者であるとの象徴を、この名が示していたと考えられます。
 経典によると、バラモンの家に生まれたナーガセーナは、幼時から学問を好み、すでに少年時代のうちに三ヴェーダ(バラモン教の聖典)を会得してしまった。しかし、彼は「これらのヴェーダはじつに空虚である」と考えて出家し、仏教僧侶となった。やがて青年僧侶ナーガセーナは、全インドにおいて並ぶ者のない論者となり、その名声は、サーガラと名づける都にいた、ミリンダ王の側近の耳にまで達することになるわけです。
 池田 おそらくナーガナーナ比丘は、ミリンダ王との対話にあたっては、万全の準備をもって臨んだにちがいない。なにしろ、全仏教徒の輿望を担つての都入りだったろうから。
 相手は異国から来た支配者である。いや、相手が単なる政治的支配者というだけならば、問題ではない。問題は、相手が西方の最高の教養・学問を身につけた第一級の知識人であり、それはまさしく東方と西方との思想の、英知をかけた対話だったからです。もし、この対決において敗れるならば、ひとりナーガセーナ比丘の名誉の問題ではない。仏教そのものが、衰退の道をたどることになってしまう。
 したがってナーガセーナ比丘は、仏法の偉大性については絶対の確信をもっていたであろうが、同時に、相当の決意を固めていたと思われる。
 野崎 ナーガセーナ比丘はミリンダ王との対話にあたり、師である尊者ローハナに、その決意のほどを語っています。
 「尊者たちよ、ミリンダ王一人だけでなく、尊者たちよ、たとい全インドの王たちがやってきて、わたしに質問を発しても、その〈難問〉のすべてに答えて解決してみせましょう。それですから、尊者たちよ、あなたがたは恐れずにサーガラの都に、おいでください」(前出)
 自信満々という感じですね。(笑い)
 松本 こうしてサーガラの都に入ったナーガセーナ比正は、経典には次のように紹介されています。少し長くなりますが、重要人物ですので、そのまま読んでみます。
 「かれはサンガ(仏教教団)の長、ガナ(弟子集団)の長、ガナの教師であり、その名は世に知られ、名声あり、多くの人々の尊敬をうけていた。また、かれは賢者、学者、智慧者にして聡明であり、博識に富み、巧みな説明家で教養があり、自信をもっていた。多くの知識を聞き知った人、三蔵に通じた師、ヴェーダに通達した人であり、広大な智慧を有し、伝承の教えに通じ、広大な無礙自在の理解力をもっていた。また、かれは九部門の師(ブッダ)の教えを会得し保持している人、最高完全なものに達した人であり、勝者(ブッダ)の言葉において教えの精神と〈文字の〉説明とを巧みに弁別したかれは、種々に答える雄弁の自信をもち、談論に巧みで、弁舌さわやかに話をした。〈それだから、人々にとって〉かれは近づき難く、打ち勝ち難く、超え難く、さまたげ難く、しりぞけ難い人であった。かれは沈着なること大海のごとく、不動なること山王のごとく、邪悪をうちすて、闇黒を駆逐し、光明をもたらし、偉大な雄弁家にして、他のガナ(弟子集団)の長にひきいられた人々をふるえあがらせ、他の異教徒を論破した。……」(前出)
 このあと、ナーガセーナ比丘を称える文は、まだえんえんと続きますが……。
 池田 むろん、これは後世の人が、ナーガセーナ比丘を称えるために書いたのであろう。が、仏法を世界的に流布していくためには、かくあらねばならないという教えとしても、読むことができる。ともかく、ギリシア世界の名君であったミリンダ王を打ち負かしたのであるから、けっしてオーバーな表現ではなかったのでしょう。二人の一問一答をみても、ナーガセーナ比丘は悠然たる態度で答えているね。
 松本 私たちにとっては、ちょっと考えこんでしまうような質問も、ナーガセーナ比丘は巧みな譬喩をもって、間髪を入れずに答えている。じつに見事な答え方ですね。
 その一例として、有名な「ブッダの実在の証明」(『ミリンダ王の問い』1)の項をみると、こんなふうに展開されています。
 「尊者ナーガセーナよ、あなたは、ブッダを現に見たことがありますか?」
 「いいえ、大王よ」
 「それでは、あなたの師はブッダを現に見たことがありますか?」
 「いいえ、大王よ」
 「尊者ナーガセーナよ、それでは、ブッダは実在しないのです」
 ここで私たちは、さて、どう答えたらいいか迷ってしまう。相手は実証主義者のギリシア人です。仏教の歴史から説き起こし、何をもって釈尊が実在した決定的証拠とするか、あれこれ考えると思います。しかし、ナーガセーナ比丘の答え方は違っていた。
 「大王よ、しからば、あなたは雪山におけるウーハー川を現に見られたことがありますか?」
 「いいえ、尊者よ」
 「それでは、あなたの父はウーハー川を現に見られたことがありますか?」
 「いいえ、尊者よ」
 「大王ょ、それでは、ウーハー川は実在しないのです」
 「尊者よ、実在するのです。わたしはウーハー川を現に見たことはないし、またわたくしの父も、ウーハー川を現に見たことはないけれども、しかも、ウーハー川は実在するのです」
 「大王よ、それと同様に、わたしは尊き師(ブッダ)を現に見たことはないし、またわたしの師も、尊き師を現に見たことはないけれども、しかも、尊き師は実在するのです」
 「もっともです、尊者ナーガセーナよ」
 野崎 なにか禅問答のようで、言葉の遊戯のようにも感じますが、見方によっては、西洋流の存在概念を皮肉たっぷりに批判した含蓄の深い受け答えでもありますね。
 ミリンダ王は、知識を重視し、現実経験を重んじるギリシア人らしい質問です。それに対し、ナーガセーナ比丘の答え方は、相手に答えさせておいて、自然に納得させてしまう。そこに、東洋的な知恵の発露をみる思いがいたします。後にミリンダ王も、ナーガセーナ比丘が、釈尊在世のシャーリプトラ(舎利弗)と並ぶ知恵者であることを認めています。
 池田 ウーハー川の譬喩も、見事だね。仏法には、「源遠流長」(源遠ければ流れ長し)という原理があるが、ヒマラヤの高山から流れ下った清流は、インド大地を潤し、大河となって海に注ぐ。それと同様に、インドにおいて仏教は、民衆の心を潤し、広く大衆のものとなった。ナーガセーナ比丘の時代は、すでに仏滅後数百年を経ているが、仏法の興隆しつつある実証をもって、遠い昔の釈尊の実在性と偉大さを証明することができる。
 野崎 つい最近まで、ヨーロッパの学者たちは、釈尊が歴史的人物であるかどうかを疑っていました。だから、二千年以上も前に、ミリンダ王が同じ疑問を抱いたというのも、なにか不思議なものを感じますね。
 池田 自分の目で見、触れることのできるものだけが真実であるという考え方は、他人の認識の不確かさを責めるには有効であっても、けっして正しいとはいえない。じつは自分自身、見たことも触ったこともないものであっても、真実であるとして信じており、また真実であることが多いのです。この西洋的な認識の偏頗さを、彼は衝いたといってよい。
 もっとも、東洋人には自明のこととされていることでも、西洋人にはなかなか理解できない面もあるかもしれない。それだけに、このミリンダ王とナーガセーナ比丘の二人の東西の哲人が、謙虚に、率直に対話を交わしたことは、歴史的にもきわめて重要な意義をもっといえるのではないかな。東西の歴史学者が、きそって『ミリンダ王問経』に注目するのも、うなずけるような気がする。

1
1