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日蓮大聖人・池田大作

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第十五章 ストレスと「衆生所遊楽」の境…  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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6  人生を楽しむために生まれてきた
 ―― 適度なストレスがないと子供の知能も発達しない――とも聞いたことがありますが、屋嘉比さん、どうなんですか。
 屋嘉比 そういわれておりますね。動物社会でも、一人ぼっちで育てたものよりも、仲間も多く、変化に富む環境で育てたほうが、知能の発達もいいことがわかっています。
 ですから、一面ではストレスがあると、感受性や興奮性など生体の適応力が発達強化し、ダイナミックに恒常性を維持する能力が増大するのでしょう。まさに、それが「生」でもあるわけです。
 ―― 親の過保護は、子供にとってプラスにはならないということですね。
 池田 ところである統計調査には、人間の寿命も、適度な刺激が絶えずあるほうが長生きする、とはっきり出ているようですが。
 それとともに、なんらかの知識を常に吸収し、社会的活動に積極的にかかわっていく人のほうが、記憶力も落ちないとよく聞きますが。
 屋嘉比 これも医学的見地から立証されつつあります。
 とくに女性も、活動的な人のほうが記憶力が落ちないようです。
 ―― あるアンケート調査では、“マメに掃除する主婦は健康”とありました。(笑い)
 池田 屋嘉比さん、他にもストレスのいい解消法はありますか。(笑い)
 屋嘉比 これは人それぞれでしょうね。(笑い)
 ただ、フロイトは、「夢は願望の達成である」と言ってますね。
 大脳生理学の権威であった故・時実利彦博士は、人が睡眠中、夢を見ることは、「『新しい皮質』の眠りのすきに乗じて、『古い皮質』にひしめくもろもろの欲情が代償的に満足されている」(『生命の尊厳を求めて』みすず書房)と夢の効用を語っています。
 ―― しかし、同じ夢を見るなら、本当にいい夢を見たいものですね。(大笑い)
 屋嘉比 いずれにせよ、お酒や趣味などによる解消は一時的なものでしかないことは、私どもがよく経験するところです。根本的な解決はその人の生き方の問題であり、どんなに外界の変化やショックがあっても、希望や生きがいを見いだしていけるような人生の姿勢が大切になるわけです。
 ―― だからでしょうか。最近、サラリーマンも仕事以外の生きがいをもつべきだという、“二つの生き方論”が盛んにいわれますが。
 池田 よく聞きますね。ある評論家も言っていたが、これからの社会は、仕事だけでなく、自分自身を向上させる、もう一つの生き方が必要といわれる。
 しかしまた、その生き方の内容が何であるか、ということが問題になるでしょう。
 その意味で、最高に価値ある生き方を知りえた私どもは幸せです。
 ―― まったくそのとおりですね。
 池田 有名な法華経「如来寿量品」には、「衆生所遊楽」とあります。
 「所」とは「娑婆世界」であり、この現実社会のことです。
 つまり私どもは、この地球上に「遊楽」するためにきたというんでしょうか。生きていくことそれ自体が楽しい境涯とでもいうんでしょうか。生きて、生きて、生きぬいて、なんらかの自分なりの価値をつくっていくという意義にもとれましょうか。
 よく戸田先生が、「とにもかくにも、瞬間、瞬間の生きていく人生が楽しいことが、この『衆生所遊楽』の意義に通ずるかもしれない」と言われていた言葉が、私は忘れられません。
 屋嘉比 まったく人生の真髄を一言で述べられておりますね。
 池田 何回も申しあげますが、そのために、私どもがみずからを苦しめる宿命を打開しながら、永遠にわたる幸福境涯を築きゆく源泉として、大聖人は「御本尊」を御図顕くださったわけです。
 屋嘉比 なるほど。
 池田 また「遊楽」の「遊」の字には、いわゆる“遊ぶ”の意義のほかに、「ほしいまま」「心にかなう」、また「高く飛ぶ」「ひろがり」といった意義もあります。
 ―― 字音の「ユウ」には、水の波が進行するように、「前に進む」という意味があると聞いたことがありますが。
 池田 そうです。とともに「楽」とは、「楽法」ともいうがごとく「法」を楽(ねが)う、すなわち“願う”という意義もある。
 この“願う”の根本義とは、最高最善、無量無辺の崩れざる境涯を感得するために、御本尊に祈っていくことと私は思います。
 ですから「遊楽」とは、なんの障りもなき自在の生命の力といいましょうか。また、満足しきった広々とした境涯ということになりましょうか。
 むずかしい言い方になりますが、これを仏法上では「一念三千・自受用身」といいます。
 まあ、ここにも、御本仏としての別しての次元と、私ども信仰するものの総じての次元からとのとらえ方があるわけなんです。

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