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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 「脳と心」の神秘を探る  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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1  「春」の表現にも濃やかな感受性が
 屋嘉比 どうやら春めいてきましたね。
 私は、沖縄出身なもんで助かります。(笑い)──昔の人は科学者ですね。「暑さ寒さも彼岸まで」とは、よくいった。(笑い)
 池田 四季のリズムは、本当に不思議を感ずる。万物がこのリズムにのっとっている……。
 ── そこで、気分転換にもなりますし、今回は四季について、少し語っていただければと思います。
 池田 そうですね。
 四季には、初春とか、初夏とか、仲秋とかいうように、それぞれ「初」「仲」「晩」という言葉がついております。
 屋嘉比 そうですね。
 池田 ところで「春」には、それ以外にも「浅春」「早春」「陽春」などと、さまざまな呼び方がある。
 屋嘉比 まだありますか。
 池田 「仲春」「芳春」、また「惜春」などとも、昔の人は語り、詠み、また書いたりしましたね。
 ── すると「立春」という言葉は、どういう意味になりますか。
 池田 間違っているかもしれませんが、「春立ちける」の意味と思っておりますが。
 ですから、森羅万象がいっせいに春の模様を綾なす、という意味でしょうか。
 屋嘉比 「春眠暁をおぼえず」などというのは、人間だけですね。(笑い)
 池田 日、一日一日と明るさを増しゆく陽光は、生命を、じっとはさせておかない。
 冬を耐え、すべての生命が、厚いカラをたたき割り、萌え出づるさまは、壮大なリズムを感じさせる。
 ですから、春の姿に、種々な表現があるのは、やっと寒い冬が遠のき春を迎えた、その喜びというか、ほっとした、素朴な感情のあらわれともとれる。
 屋嘉比 そうでしょうね。日本人は、濃やかな感受性が、とくにあるように思われますが。
 池田 そう思います。
 ── 日本人は、草木の緑ひとつとってみても、とらえ方は微妙です。
 池田 「もえぎ」「うぐいす」「あさみどり」等々、なかなか味わい深い言いあらわしがある。心の余裕を感じさせるとともに、言葉の生命から、その微妙な色合いが浮かんでくるようだ。
 ── 俳句が生まれた理由も、このへんにあるのでしょうか。
 池田 古来、日本人には、繊細な美意識が、自然なかたちで溶け込んでいると思います。
 ── 外国には、俳句に見合った言葉がなく、よく翻訳者が苦労しています。
2  一草一木といえども生命の当体
 屋嘉比 ところで、この地球上には、何種類ぐらいの植物が、あるのでしょうか。
 池田 たしか、陸生植物だけでも、約三十万種と読んだことがあります。
 屋嘉比 すると、生物のなかでは、植物がいちばん多いのですか。
 池田 どうでしょうか。確かとはいえませんが、この地球上で、全生物の種類は、百三十六万種ともいわれておりますからね。
 屋嘉比 そうしますと、種類としては、やはり鳥などの動物や、虫や魚などのほうが多いわけですね。
 池田 そう思います。ただ、同じ「科」のものが多いのは、植物のほうが圧倒的のようです。
 ですから、仏典にも、たくさんの植物の名前は、数多く見られます。
 屋嘉比 どのくらい……。調べた人はおりますか。
 池田 おります。たいへん、その方は苦労されたようです。仏典の原本であるサンスクリット語、パーリ語と、漢訳した名称とを、一つひとつこと細かに比較しながら、その植物の種類は何かを、調べていったようです。
 その研究で明らかになった数は、四百九十八種です。
 屋嘉比 たいへんなものですね。
 池田 このなかには、仏典の原本に記された植物の呼び方が、似たように漢訳され、現在にいたっているものも多いのです。
 ── どんなものがありますか。
 池田 たとえば、有名な「菩提樹」は、サンスクリット語でも「bodhi‐vr∴ks∴a」(ボーディ・ブリクシャ)です。
 また、「曼殊沙華」は、「man¨ju^s∴aka」(マンジューシャカ)などとなっています。
 屋嘉比 それにしても、二千数百年も昔に、仏典のなかに植物が数多く登場してくるのも、不思議ですね。
 池田 仏法は、この宇宙のあらゆる実在、現象というものすべてを、生命的存在ととらえ、それを「諸法」とも、「森羅三千」とも、「森羅万法」とも説いている。
 この「森羅」という意義は、あらゆる実在であり、現象である「法」というものを樹木に譬え、樹木が無数に繁茂しゆく姿、また無限に並び連なるさま、をいっているわけです。
 また、「三千」とは多数という意義です。
 屋嘉比 すると、仏法には、一言一句にも、深い次元からの生命への洞察がある……。
 池田 そう思います。たとえ、一草、一木といえども、生命の当体である。
 そのうえに立って、草木には草木としての姿があり、働きがある。鋭くその性分や特質をとらえているといってよいでしょう。
 また別次元からみれば、仏法では、甚深なる法門を、広く、正しくわからせるため、譬喩というものが多く使われている。そして多くの植物が、その譬えに使われている。
 その意味から、仏法に、この草木などの植物をはじめとし、万般にわたる深い洞察の眼があったことは、十分うかがえるわけです。
 屋嘉比 すべての物事を、正しくとらえようとした、仏法の科学的な姿勢を感じます。
 池田 そこで、ひとつの例として、「法華経」のなかに、「薬草喩品」という経文があります。
 ── 「薬草喩品」とは、どういう経文でしょうか。
 池田 詳しくは、さまざまな文献がありますので、勉強していただきたいのですが、簡潔に申しあげれば、仏の慈悲の雨は、種々雑多な草木の上にも平等に降りそそぐ。
 すなわち、妙法という最高の薬は、国境、民族、また時代や社会制度を超え、一切の人々の煩悩、苦しみを、平等に解決しゆく「法」である、ということと思います。
 屋嘉比 譬えというのも大切ですね。それによって、深い真理を知ることもできる。
 池田 仏の尊称のひとつに「世間解」というものがあります。簡単に申しあげますと、因果の理法を悟り、世間、出世間を問わず、ものごとの道理をよく理解する、という意義と思います。
 ですから、仏教では大事な仏典を残すため、何を使ったらよいかという、こと細かなことにも気をくばり、丈夫で保存性のある多羅樹というヤシ科の樹を選び、その皮や葉に刻みつけたというのも、そのひとつのあらわれといってよいでしょう。
 屋嘉比 まだ、紙がなかった時代ですね。
 池田 そうです。
 屋嘉比 そうした努力があったからこそ、仏典が長く残り、中国で、紙が発明される時代にまで、受け継がれることができた……。
 池田 そうです。「法華経」には「令法久住」とある。すなわち、仏法が未来永劫にわたって伝えられていくことを祈り、願ったわけでしょう。
 屋嘉比 日蓮大聖人の仏法では、植物を譬えに引かれた御文はございますか。
 池田 時に応じ、人に応じ、数多く説かれております。
 そのひとつの例として、身延の沢から、鎌倉に住む乙御前という女性に与えられたお手紙には、「木は火にやかるれども栴檀の木は、やけず」と、栴檀の木に譬えて、妙法の力用を説かれている。
 また、妙密上人という人には、「麻の中の蓬・墨うてる木の自体は正直ならざれども・自然に直ぐなるが如し」とのお手紙がある。
 これは、よもぎも、麻のなかでは真っ直ぐに伸び、曲がったりしない。と同じように、妙法にのっとった人生は、清らかな正しい生き方となることを、譬えておられるわけです。
 屋嘉比 はあ、仏法の難解な法門を、少しでもわかりやすくしてあげたい、との思いやりからでしょうか。
3  泥沼のなかでも清浄無垢に
 ── 「蓮華」という言葉が多いですね。
 池田 そのとおりです。
 「妙法蓮華経と申すは蓮に譬えられて候」とも説かれている。これは深遠にして、重々の義があるんです。
 いわゆる「蓮華」とは、花が咲くのと実がなるのが同時である、という性質をもっている。
 屋嘉比 これは、数ある植物のなかでも、蓮華だけにみられる特徴ですね。
 ── そういえば、二千年も前の蓮の種子が、遺跡から発見されたことで、たいへん話題になったことがありました。
 池田 そうそう、いまからもう三十数年前でしたか、亡くなった東大の大賀一郎博士が発見し、世界的に有名になりましたね。
 ── 千葉県の検見川遺跡から三個発掘し、「大賀ハス」と名づけられました。
 池田 まさかと思ったのでしょうが、その翌年でしたか、その種子から立派な蓮華の花が咲き、いや、驚いた。当時、新聞にも大きく報道されましたね。
 屋嘉比 強靭な生命力としか、いいようがないですね。
 私はまだ、そのころは、小学校にもあがっていませんでしたが。(笑い)
 池田 いまでは、全国に株分けしていると聞いています。
 ── 東京近郊では、町田の薬師池公園の池に植えられています。
 池田
 池田 そうですか。見事な花を、咲かせることでしょう。
 屋嘉比 図鑑で見たことがありますが、蓮華の種子は、真っ黒い皮で包まれていますね。
 池田 ところが、中身は真っ白です。
 きょうも、じつは東大阪市の友人の方々が、地域の公園に貴重な蓮があるのでということで、「ハス」の資料をわざわざ届けてくれたのです。
 屋嘉比 その「ハス」も天然記念物ですか。
 池田 そのようです。府の教育委員会の指定書の写真も、添付してくださってましたから。(笑い)
 ここの「ハス」も、大賀博士が昭和十五年に発見したそうです。これも、千五百年ぐらい前の原始的な「ハス」のようです。
 写真を拝見しましたが、ともかく見事な花でした。
 ── 蓮の歴史も、相当なもののようです。種類によっては、一億三千五百万年前もの化石が発見されているようです。
 池田 そうですか。また古来、蓮華とは、最も高貴な花として尊ばれてきました。
 たとえば、五千年前のエジプトでも、王家の紋章となっていた。それが印された遺品が発掘され、カイロ博物館に展示されているそうです。
 古代インドでも、理想の花であると同時に、薬草としても珍重されていた。
 屋嘉比 おもしろいもんですね。
 池田 当時は「蓮根療法」というものもあったようです。釈尊の弟子舎利弗の難病が、これで快癒したと、説かれています。
 また、この花は腎臓、胃腸病の漢方薬とされていたり、さらに葉は、止血薬としても使われていたようです。ご存じのように蓮根は、滋養強壮剤ともされてきた。
 屋嘉比 なるほど。そうですか。
 池田 また、仏の座法に「結跏趺坐」がありますが、これはもともとは「蓮華座」といわれ、蓮華の咲く姿に模したといわれております。
 ── これは有名ですね。妙法は、なぜ蓮華以外の花を用いなかったのでしょうか。
 池田 鋭い質問です。それについて、第二十六世日寛上人は、「蓮華は、多奇なるゆえである。余花は妙法をあらわすに堪えられない」と、その理由について、余花の七種をあげ、明快に説かれているのです。
 ── 具体的には……。
 池田 その七つを、
 「いちじくのように、無花有菓」
 「山吹のように、有花無菓」
 「胡麻や芥子のように、一花多菓」
 「桃や李のように、多花一菓」
 「柿のように、一花一菓」
 「瓜や稲のように、前菓後花」
 「一切の草木のほとんどは、前花後菓」
 だからである、とおおせです。
 屋嘉比 本当に、実証性を感じますね。
 池田 さらに大切な意義は、蓮華という花は、泥沼のなかにあって、そこで生長する。それであって、泥に少しも染まることなく、清浄にして無垢なる花を咲かせる。
 この姿を、『法華経』の「従地涌出品」では、「世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如し」と説かれております。
 屋嘉比 蓮華のような、清らかな人生でありたいものです。しかし、いまは社会が悪すぎる。むずかしいですね。
 池田 そこが大事なんです。ですから、現実社会に生きるうえでのさまざまな問題、悩み、さらにまた、鎖につながれたような自己の煩悩の淤泥、その中にあって、いかに生きぬこうか、いかに道を開いていこうとするか、またさらに、人間として、より高い境涯にいたろうとするか、それが人生というものでしょう。
 よく仏法は「蓮華の法」といわれるが、厳しき人生と社会にあって、この宇宙の確かなるリズムというか、法則にのっとり、みずからの生命を、生きいきと発現し、社会に貢献しゆくために、説かれたのが仏法である、というわけなんです。
 気休めや自己満足だったら、だれも信じない。(笑い)
4  科学も哲学も宗教も「生命」に帰着
 池田 屋嘉比さん、科学万博を見てこられたのですか……。
 屋嘉比 ええ、編集部の方と一緒に、報道関係への公開のときに行ってきました。
 池田 私は忙しくて行けそうもありませんが、なにがよかったですか。
 屋嘉比 丹念に見ようと思えば、三日間はかかるそうで、いろいろありました。
 池田 「宇宙体験」や「生命の誕生」などが、わかりやすく、巨大スクリーンに再現されたのもあるそうですね。
 屋嘉比 私はやはり医者ですので、はなやかな科学技術の粋をつくしたロボットや、壮大な映像の迫力もさることながら、「生命」ということを扱ったパビリオンに関心をもちました。
 ── ハイテクの競演といわれる、今回の科学万博の特徴のひとつに、「生命の不可思議」とか、「宇宙の神秘」とか、「生命」をテーマとしたものが多くあるようです。
 池田 十五年前の大阪万博には、まだそうした傾向は、なかったと思いますが。
 ── そのとおりです。
 屋嘉比 パンフレットのなかにも、「人間の生命の偉大さ」「すべての生命が共存できる地球」、また「科学技術はあくまで、人間のための、人間を大切にするものでなければならない」等々、こうしたキャッチフレーズが意外に多いのに、私自身驚きました。
 池田 すると、大きな新しい潮流が、世界的に始まっているということでしょうね。
 屋嘉比 そう思います。
 池田 つねづね論じているように、科学も哲学も宗教も、「生命」という一点に帰着せざるをえない時代に入ってきたことを、私はたいへんにうれしく思います。
 ── そういえば、先日も「朝日新聞」に、「医療と宗教を考える会」という勉強会が発足した、という記事が出ていました。
 屋嘉比 宗教とは無縁な存在であった近代医学が、宗教となんらかの接点を見いださざるをえなくなってきたことは、まぎれもない事実です。
 ── その理由は、「死」とか「難病」とか、「医学倫理」といったものをつきつめていくと、医学と宗教が接近せざるをえなくなるからだと、世話人の一人である中川米造大阪大学医学部教授が、言っておられたようですが。
 池田 そうそう。昨年でしたか、「生命科学と人間の会議」が、箱根かどこかでありましたね。
 ── 箱根です。
 池田 そこでも、「生命の尊厳」をめぐって、各国の第一人者といわれる学者が、真剣な論議をしていたようですが。
 屋嘉比 そうです。サミットを構成する七カ国(日本、カナダ、フランス、西ドイツ、イギリス、アメリカ、イタリア)の学者が、一堂に会して開催されたものです。
 なかでも、日本の桑原武夫博士の「生命科学と人間について」という基調報告は、たいへんな感銘をあたえたようです。
 ── 私も、その会議録を手に入れたのですが、とくに博士は、「物心両面における世界の調和的統一を模索せざるをえぬところに、追い込まれたようにさえみえる」と、強調していたように思いました。
 池田 なるほど。真理をついている。この認識は、世界各国の学者にとっても、共通のものだったようですね。もはやこの流れは変わらないであろうし、また変えてはならない。
 第二回目はフランスのパスツール研究所なども加わって開かれると聞きましたが。
 屋嘉比 そうです。
 ── また、この春(一九八五年)、宗教を心理学の立場から研究する国際学会も、京都で開かれます。
 屋嘉比 この会議には、現在アメリカで、「死」を専門に研究していることで有名な精神科医のキューブラー・ロス博士や、深層心理学の「新しい波」をつくるのに中心的な役割を果たした学者が、多数参加する予定です。
 池田 テンポが速くなってきた感じがしますね。ともあれ、「生命」というものを究めようとすればするほど、宗教と科学は歩み寄らざるをえなくなる。
 時代の進歩とともに、科学は宗教を欲し、宗教は科学の裏づけを求めていく、ということでしょうね。
 ── そう思います。ところで、その宗教の内容が、課題になっていかねばならない。
 池田 そういうことですね。最近、科学者のなかでも、宗教と科学は共存しうるか否か、ということが、盛んに論じられてきていると、聞いております。
 ただ、そこでいえることは、部分観ではあるが、多くの西欧の科学者が光をあててきているのが、東洋の仏教であることは、間違いないことでしょう。
 屋嘉比 不思議なくらい、一致しておりますね。
 池田 何人もいると思いますが、アメリカのカプラ、ボーム、スイスのユング、またドイツのフロム、フランスのジャック・モノー等々、多くの科学者が、同じ志向性をもっていたことも、そのひとつの例といえないでしょうか。
 屋嘉比 そうですね……。
 池田 また、今世紀の傾向として、「現象学」などでも、もはやこれまでの科学者自身の物の見方それ自体を考え直さなくてはならない、という哲学的思潮があるようですが。
 ── そのとおりです。たとえば、ドイツのフッサール、フランスのメルロ・ポンティも、そうした問題意識から出発しています。
 フッサールの「私は内的確実性に到達しなければならない」という言葉には、私も共鳴をおぼえます。
 池田 精神医学の方面では、とみに有名なエーリッヒ・フロムなどはこの点、より明快ですね。彼フロムは、自身の思想遍歴を語ったなかで、仏教というものに、大きな影響をうけたと述べております。
 屋嘉比 それはどんな内容でしょうか。
 池田 彼は『ブッダの教え──理性の宗教』と『仏教の知識』という、二冊のドイツの仏教学者の著書を読んで、「これを天啓のように感じた。完全に合理性の上に成り立ち、非合理的神秘化や、啓示や権威に訴えることを必要としない精神体系を初めて知った」とまで言っているんです。
 屋嘉比 初めて知りました。フロムは、学生時代に『自由からの逃走』などを好んで読んだ、なつかしい思い出があります。しかし、彼が仏教にそこまで関心をもっていたとは驚きです……。
 ── 科学の進歩とともに、ますます仏法の法理への関心が高まるでしょうね。
 池田 そう思います。とともに、忘れてならないことは、宗教は本来、この人生を生きいきと生きゆく力と、勇気と希望とをあたえるものでなくてはならない。
 その意味において、いかなる哲学も、宗教も、もはや力を失ってしまったこの社会において、唯一、大乗仏法の真髄たる日蓮大聖人の仏法が、万人をして、蘇生へ、幸福へとはこびゆく、確かなる「大法則」であり、一大平和勢力となって開花していることが、私どもの最高の誇りです。
 その一人ひとりの蘇生の運動を、私どもは、日夜、しているわけです。
5  百年前の万博に「健康機器」が
 ── ところで、万国博覧会は十九世紀の一八五一年、ロンドンで初めて開催されています。
 池田 そう、十九世紀末は「発明」「発見」、また「冒険」「探検」などが、あいついだ時代だったね。
 屋嘉比 医学の分野でも、細菌学者パスツールのように、「神の死」が、科学時代の到来をもたらした、という人もおります。
 近代医学も、この十九世紀が出発点です。
 池田 先日、フランスから、十九世紀のパリ万博の貴重なパンフレットを、持ってきてくれた人がおりました。
 それを見ていましたら、いま流行りの“健康機器”と同じような絵が出てたんですがね。
 屋嘉比 はあ。どんなものが出ておりましたか。
 池田 それが「ぶら下がり器」とか、「背すじ延伸器」とか「足踏、ウエスト調整器」なんていうものなんです。
 こんど持ってきますので、屋嘉比さんもいっぺん研究してみてください。みんなで、公園をマラソンしている絵とか……、なんだか「空気清浄装置」もありましたよ。(笑い)
 屋嘉比 当時も、健康ブームだったんですかね。
 池田 その意味かどうかわかりませんが、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という、ローマの詩人(ユヴェナリス)の言葉をうけて、クーベルタン男爵が提案した近代オリンピックも、この十九世紀末から始まっておりますね。
 ともかく、この時代の人々は、新しいもの、強いものを志向していった……。
 その影響が、文学作品などにもあらわれていますね。
 ── だれでも知っているのは、子供のころ読んだ、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』です。(笑い)
 池田 そうだ。この本では冒頭で、主人公のアリスが、「何もすることがないのにあきあきした」と語るくだりから、物語は展開していく……。
 ── ええ、それでアリスは「驚異の国」の夢に、どんどんおちていきます。
 池田 この作品は、一般には、童話として読まれてはいるが、ここでも数学教師でもあった作者ルイス・キャロルの、当時の文明に対する鋭い眼が感じとれるわけです。
 ── そういえば、小説『白鯨』の主人公は、あの巨大な鯨を死にもの狂いで追いつづけます。その理由を聞かれたとき、「気鬱から逃亡するためだ」と答えていますが。
 池田 『白鯨』もこの時代の名著です。未知なるものを追い求めたいという、人間の常なる願望が、主人公の姿をとおし、あざやかに描かれている。「心の空白」にさいなまれた、この時代に生きた人々の心情に、強く訴えるものがあったのでしょう。
 ── ところで「万国博覧会」というのは、そこが新文化の起点といわれるほど、世界中が注目してきた。
 なかでも、十九世紀末のパリ万博には、各国がえり抜きの展示品を出品し、新技術を競っています。
 池田 日本も、よく参加できたね。
 屋嘉比 まだ幕末でしたからね。
 池田 そのころは、まだ日本に、正式な国旗がなかったようだ。
 ところがパリ万博には、国旗を掲げて参加するために、なんだか、当時、薩摩藩が使っていた「日の丸」を急遽、国旗に格上げしたともいわれている。(笑い)
 屋嘉比 エッフェル塔が建ったのも、そのころですか。
 ── いや、それは一八八九年、四回目のパリ万博が開かれたときです。
 池田 いま、私たちが日常使っている電気製品も、この時代に原型が発明されたものが少なくないようです。
 ── ちょっと調べてみたのですが、電話も無線もさらに映画も、タイプライターも……。
 新しい文明の利器が、次々と、この時代に生まれています。
 新しい発見を求めて、探検に繰り出し、それが考古学ブームや、旅行ブームになっていったのも、この時代ですね。
 池田 いま、ここに年表があるが、たとえば、発明王・エジソン、「電話」のベル、「無線」のマルコーニ、「X線」のレントゲン、「ラジウムの発見」のキュリー夫妻など、みなこの十九世紀の年代に活躍している。
 屋嘉比 探検のほうはどうですか。
 池田 主なものでも、「ナンセンの北極探検」「敦煌文献の発見」もこの時代なんです。
 それに「シベリア鉄道の起工」「パナマ運河の開鑿」「オリエント急行の開通」など集中している。
 ── この世紀末に、パリでは四回もあいついで万博が開かれています。
6  科学技術の世紀から人間の世紀へ
 池田 当時の科学技術の発明・発見の盛んなさまがうかがえますね。
 十九世紀末は、「発明の世紀末」といわれるが、速いテンポで科学が進歩した。
 そこに、科学の進歩だけが、神なき時代の自由な人間の象徴であるという、「科学万能主義」がしだいに広がっていったと、とらえることもできる。
 ── と同時に、「世紀末」という思想が、暗雲のように、人々の心に重くのしかかっていった。当時の文学思潮のなかに、ボードレール、ヴェルレーヌ、ランボー、ワイルドに代表される世紀末思潮が芽生えていったのは有名です。
 屋嘉比 不思議と、われわれの時代と共通するものが、あるような気もしますね。
 どの世紀にも「世紀末」があるのに、十九世紀だけが、とくに「世紀末」が強調されるのは印象的ですが。
 池田 「世紀末」というのは、本来はゲーテの名著『若きヴェルテルの悩み』の「世界苦」に象徴される、十八世紀末のヨーロッパ青年たちの、心の葛藤のさまをいっていたようです。
 ところが、『広辞苑』や百科事典を見ても、「デカダンス」「倦怠感」「懐疑的」等々の言葉は、十九世紀の「近代の世紀末」という言葉の同義語として出ておりますね。
 結論から言えば、多くの学者が言うように、既成の社会秩序に対する反発と、本来、人間の幸福をもたらすはずの科学の進歩が、それと必ずしも結びつかなかった、という現実がすでにあったことも、ひとつの大きな理由と思います。
 屋嘉比 その延長が、われわれの現代ともいえますね。
 人間は取り残され、科学はますます進歩していく。
 池田
 屋嘉比 ともかく、十九世紀の無声映画が、現代のビデオや時計、テレビに、またタイプライターが、ワープロやパソコンに変わった等々、こうした科学技術の大進歩が、この百年間ということになりますね。
 ── パソコンもいいが、われわれ中年は、戸惑うだけです。(笑い)
 屋嘉比 電卓も発達しすぎると、単純な引き算や割り算もできない子供が、多くなると危惧されています。
 池田 まったくそのとおりだ。「科学というものは、結局、人間精神の財産のひとつである」との、有名な科学者の言がある。そうした危惧や戸惑いは、小さなことのようであるが、その底流の大きな時代の流れを、みなくてはならないでしょう。
 ですから、高度化した技術の彼方に、どうしても人間の精神性を高めていかなければならない──ということは、当然の流れであったといってよい。
 屋嘉比 それが、今回の科学万博の出展理念にも、あらわれてきていると思います。
 ── まったく時代が前進している。
 科学の論理だけの進歩では、夜道の一人歩きのようだということになってきた。(笑い)
 池田 私も科学万博を見たい気持ちもあるが、ちょっと行けそうもない。
 ただ、「人間のための科学」とか、「生命重視」とか「生命環境を守る」という方向性が、時代の共通認識として定着してきたことは、画期的な意義があると思います。
 ── 池田先生の『生命を語る』は、英語版とスペイン語版が出版されていますね。このまえ、アルゼンチンの出版社が発行したスペイン語版が、お隣の国、チリの権威ある文学雑誌『パノラマ』から、八四年度最優秀書籍に推薦された、というニュースがありました。
 屋嘉比 チリでですか。やはり、人間の根本の問題である「生命」、なかんずく仏法の生命観というものが、世界的な広がりで、注目されている証左ですね。
 池田 私の本のことは別として(笑い)、生命という問題は、古今東西の最重大関心事でしょう。
 ── やはり、『生命を語る』が、この六月にフランスのシテ・ロシェ社から、仏語版でも出版されるとうかがっています。この出版社では、すでに池田先生の『私の釈尊観』を刊行しています。今後、他の著作も定期的に出していく予定だそうですね。
 池田 そのようです。ともかく、科学が進歩すればするほど、「仏法」のもつ普遍性と、その時代の科学の志向性とが、ますます近接していくと、私は思っております。いまは、ようやくその入口に入った段階でしょう。
 ──フランスの友人から聞いたことですが、そのシテ・ロシェ社の、ベルトラン社長は、「フランスは今日、新しい精神文化を必要としている。仏教も、死んでしまったインドの仏教ではなしに、生きた仏教が必要である。池田先生が、東西の文化交流に貢献された、多大な成果を高く評価して、一連のシリーズに『池田選集』の名を冠することにした」と語っていたそうです。
7  人間と自然の絶対の「調和」が必要
 ── ところで屋嘉比さん、いま、スギ花粉症というのが流行っていますが。
 屋嘉比 全国で、三百万から五百万の人が、この症状を訴えているといわれています。
 ── 私のまわりにもいるんですよ。カゼでもないのに、鼻をいつもぐしゅん、ぐしゅんさせている(笑い)。つい、うつるのではないかと心配になる。(笑い)
 屋嘉比 いや、アレルギー性のものですから、伝染はしないんです。
 しかし、いまのところ対症療法だけでは根治できない、春の難病になってしまいました。
 池田 春のはじめのように、気象が変化し、不安定なときは、気をつけろ、といいますが。
 屋嘉比 ええ、カゼはもちろんですが、身体の節ぶしが痛くなったり、ぜんそくの人は発作が起こりやすくなります。
 池田 私も今年は、カゼにやられました(笑い)。いやいや、困ったものです。
 屋嘉比 よく春カゼは治りにくいといわれます。これは、めまぐるしい気温の変化に、身体の調節能力が、うまくついていかないためなんです。
 池田 たしかにそうですね。これは気象が、病気の誘因になっている……。
 屋嘉比 仏法では、季節の変化と病気についてなにか説かれておりますか。
 池田 いくつかあるかもしれませんが、仏法では季節と病の関係を、「春、万物皆生じ寒出づる故、水大の力がます時、その寒が身体の水大を助け、水大増して火大を害し、そこに水大(寒病)が生じる」(「仏医経」)というようなことも、説かれております。
 屋嘉比 なるほど。「水大」とは、「四大」(地大・水大・火大・風大)のひとつでしたか。
 池田 そうです。まえにもふれましたが、「水大」とは、湿り気という性分のこと、万物の生育に欠くことができない働きである。
 それが増加してくると、こんどは「火大」である熱性が十分な働きを失ってしまう、ということなんでしょうか。
 屋嘉比 それでは、春以外の季節についても、なにかありますか。
 池田 「夏、万物栄華し、風大の流動性がます時……風大の病が生じる」とあります。
 また、「秋、万物成熟する時、熱多く……火大の病が生じる」「冬、万物終亡し熱去る時、寒と風多く……地大の病が生じる」とも説かれています。
 ですから、人間の身体は、自然の運行との関連だけを考えても、そこに絶対の「調和」が必要になってくる。
 何事にせよ、調和ということは基本であり、大事ですね。だから、たまには息抜きも大事だ(笑い)。どんなに多忙な毎日の繰りかえしのなかにも、人は花鳥風月を語り、天空の無数の星々を見ながら、静かに思索する心の余裕がなくては、偉大なる仕事はできないものだ。
 屋嘉比 仏法は、宇宙を貫く「法」でありながら、まことに身近なことまで、大切にしていますね。
 池田 いや、大聖人のお手紙のなかには、「夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり」といったように、自然の摂理をとおしながらの御文も多くみられるんです。
 屋嘉比 大切なことですね。人間の身体はたいへんに微妙です。気温や日射の変化、風速や気圧の変動が、体調にあたえる影響は、やはり大きいものがあります。
 池田 当然でしょう。人間にとって、最も快適な生活環境は、どういう状態になりますか。
 屋嘉比 個人差は、もちろんありますが、人工的に室内の温度や湿度を調整できる装置を使って実験したデータがあります。それによると、多くの人がいちばん爽快であると答えた状態は、「気温二二度C、湿度六五パーセント、風速一メートル以下」ということなんです。
 池田 でしょうね。そうすると、やはり五月の、さわやかな季節がいちばんいい……。
 屋嘉比 ええ、五月晴れの日本列島は、平均すると、この状態になるようです。
 急速に解明すすむガン細胞
 ── そこで屋嘉比さん、現代医学の最大課題となる現代病は何でしょうか。
 やはり、ガンでしょうか。
 屋嘉比 まあ、現代病となると、ガンとか、動脈硬化症とか、精神病とか、ともかくいろいろあります。
 ただ、よくガンは現代病といわれますが、決して新しい病気ではないのです。おそらく大昔からあった病気であろう、といわれています。
 池田 私もそう思います。エジプトの大昔の人骨にも、ガンのあとが発見されたと聞いたことがありますが。
 屋嘉比 そうなんです。骨のガンでおこるのと似たような症状の跡が、そのエジプトで発掘された骨には見られたというのです。
 池田 これもちょっと調べてもらったのですが、『旧約聖書』に出てくる病気で、ガンと思われる記述が三つある、と言った医学者がいるようですが。屋嘉比さん、名前、ご存じですか……。
 屋嘉比 それはイタリアのコピサロウではないでしょうか。
 ── 「聖書」のような古い文献は、医学的には、記録として価値がありますか。
 屋嘉比 あると思います。
 池田 昔の人は、ほとんどが自分がどんな病気にかかっているかもわからずに、亡くなっていったのでしょうね。それが不幸なのか幸福だったのかは、別次元の問題と思いますが……。
 少し前のことになってしまいますが、伊達政宗も、ガンで亡くなったのではないか、という新聞記事がありましたね。
 屋嘉比 ありました。この研究は、もう二十年以上も前に、東大や東北大学の医学部で調査した記録もあったはずです。
 その分析では、昔は、かなりの人がガンのような不治の病にかかっていた、という結論になっていたと思います。
 池田 たしか政宗は、食道かなんかのガンだったのではないでしょうか。政宗の亡くなるまえの記録にも、数カ月間、激痛に悩まされたというくだりも残っているそうですが。
 屋嘉比 ええ、噴門部食道ガンでガン性腹膜炎も併発していたと思われます。
 池田 ガンという病気は、いつごろから医学的に明らかにされたのですか。
 屋嘉比 一七七五年に、イギリスで煙突から出るススによって、煙突掃除夫の皮膚にガンができたことが報告されています。
 池田 それでは、そうとう古くからわかっていたのですね。
 屋嘉比 しかし、ガン細胞の本格的解明は、ここ十年ぐらいと思います。
 とくに、この一、二年、人間も含めて動物の全細胞に、ガン遺伝子が存在することがわかってきました。ガンの問題は、これからさらに急速に解明されていくと思います。
 池田 ぜひこの点は医学に期待したいですね。
 屋嘉比 ところが、今後の医学の重大課題は、このガンとともに、やはり「脳」の解明ということがあります。ですから、二十世紀の医学の課題は「ガン」、二十一世紀の課題は「脳」だ、とよくいわれるんです。
 池田 よく聞きますね。最近は「脳死」か「心臓死」か、ということで大問題になっていますが、「脳」の問題というのは、どの点の解明がむずかしいのでしょうか。
8  「脳」も、仏法で説く「色法」のひとつ
 屋嘉比 「脳」は専門でないのですが、よく脳とは「心の座」といわれます。
 池田 そのようですね。
 屋嘉比 ですから、「脳」の問題は、医学的にも最終的には人間の「心」という、まことに不可解な領域の問題に入ってしまうからだと思います。
 池田 そうでしょうね。人間の心の働きというものは驚異としかいいようがない、と書いていたアメリカの有名な平和運動家がおりましたね。
 ── その本はノーマン・カズンズの『人間の選択』(松田銑訳、角川書店)でしょうか。
 池田 そうそう。ちょっと見てもらったのですが、カズンズ氏は、「信じるものを選択することが大事なのは、脳の働きまでも変えてくるからだ」と、人間の心と脳について、いかにもジャーナリストらしい表現をしている。
 ── 彼はその本のなかで「信念系」つまり信ずるというような強い意志の働きは、「単なる精神状態ではなく、大いに重要な生理学的現実である」(前出)と言っていますが。
 池田 つまり、彼が言いたかったのは、人間の脳には、神経細胞ひとつ取り出してみても、百四十億個もの細胞がある。そのうちほんの微々たる細胞でさえ、人間の心の微妙な変化に適応し、驚くほどの化学反応の連鎖を起こす。この力ほど不可思議なものはない、ということであると思うが、どうだろうか。
 ── そう思います。ただどうでしょうか。ノーマン・カズンズは、医学の専門家ではないと思いますが……。
 医学者は「心と脳」をどうみているのでしょうか。
 池田 いや、カズンズ氏はカリフォルニア大学の医学部教授になってるよ。
 現代の精神医学や神経生理学などでは、人間の「心」の働きと脳の関係は、そうとう突っ込んで究明されてきているようですね。
 たとえば、喜びや楽しみ、悲しみや苦しみなど、心の変化による脳の化学的な反応の変化などの研究は、最先端の分野であると聞いていますが、屋嘉比さん、どうですか。
 屋嘉比 そのとおりです。とくにアメリカで盛んです。ウィスコンシン大学の心理学者ハリー・ハーロー博士、ミネソタ大学のバーシャイド博士などはおもしろい研究をしています。
 たとえば恋愛していた男性が、失恋すると、どのように脳の分泌物が変化するか、といった身近な問題をテーマに研究しています。
 池田 仏法ではご存じのように「色心不二」「依正不二」「而二不二・二而不二」とも説かれ、人間の心と身体とは密接不可分であり、お互いが相互に作用しあっているのが本来の姿である、と教えています。
 屋嘉比 その点に関しては、シカゴ大学の心理学者エックハート・ヘス博士なども、人間の精神状態の変化と目の瞳孔の動きの関係を、研究から明らかにしています。
 医学の分野における心の研究は、もちろん仏法の次元とは違いますが、なにかしら、生命の本質論に近づいているような気がします。
 池田 ただ、それが仏法の全体ではないということもご理解願いたいのです。
 仏法では、いま、申しあげたように、「生命」というものを一次元からみれば「色心不二」であり、「色心不二なるを一極と云うなり」と、それが生命の実相を究めた法理であると、説かれております。
 ── 色心の「色」とは何でしょうか。
 池田 簡単に申しあげれば、「色」とは、人間の心に対する物質的、肉体的側面である。
 屋嘉比 すると、脳というのも、ひとつの「色」のあらわれととってもよいわけですか。
 池田 そう思います。それに対し、「心」とはいわゆる心の作用である。つまり、仏法では、「色法」すなわち外形としてあらわれた具体的な相と、「心法」すなわち内なる心の働きというものは、どちらが中心でもなく、「而二不二」、つまり二つであってしかも二つでない。ちょっとややこしいのですが(笑い)。これが実相である、というわけなんです。
 屋嘉比 医学のうえからも、まことに示唆のある仏法の法理と思います。
 池田 そこで屋嘉比さん、この人間の「心」という存在が、脳にあるのか、ないのか、実際の実験によって調べた著名な医学者がおりましたね。
 屋嘉比 ええ、カナダのワイルダー・ペンフィールドが行った実験です。博士は、二十年ちかく前、すでに亡くなっております。
 池田 博士は「てんかん」の原因を見つけるため、この実験を行ったそうですが、どういう実験をしたのですか。
 屋嘉比 患者の脳のいろいろな部分に電気的刺激をあたえ、その反応を調べたわけです。
 池田 いわゆる眼とか、耳とか、鼻とかの「五官」の反応ですね。
 屋嘉比 ええ、たとえば、聴力をつかさどる脳の部分に電気の刺激をあたえると、その人は幻聴をおこすことがわかりました。
 またこんどは、視覚をつかさどる部分にあてると、幻覚をおこすわけです。
 手足の運動の部分にあてると、手が自然に動くという反応が出たわけです。
 池田 ちょっと気味が悪い気もしますが。(笑い)
 いわゆる人間の「五官」の反応、つまり「五識」を確認したわけですね。
 屋嘉比 ええ、ところが、その後患者に聞くと、そうした反応は、医者からむりやりやらせられた感じがする。自分の意思でやったという意識は、まったくない、というのです。
 そこで博士は、脳それ自体が心を生むのではない、と結論づけているわけです。
 池田 これらの画期的な脳の研究が評価され、博士の名は、世界的に知れわたった……。
 屋嘉比 そのとおりです。
9  宇宙大に広がる「九識」の存在
 ── 「五識」とは何でしょうか。
 池田 いま、申しあげたように、仏法では、人間の「心」というものの働きを、ひとつには「眼」「耳」「鼻」「舌」「身」という五官にともなうものであると、説いているわけです。「五識」の「識」とは、「境に対して(略)了了別知することを名けて識と為す」というように、対象を分析し、認識する作用をさしているわけです。
 また、少々専門的になってすみません。(笑い)
 屋嘉比 いえ、勉強のために、ぜひお願いします。
 池田 いまの「五識」と、いわゆる「第六識」である人間の物事に対する思考というか、思慮といった「意識」は、だれびともよくわかることです。
 屋嘉比 ええ、そうですね。
 池田 ところが、仏法の高次元の直観の眼は、その「六識」の奥に、「七識」という人間精神の深い内面の世界、また「八識」という、その内面世界の基盤となる「無意識深奥」の世界、さらには宇宙大に広がりゆく「大我」である「九識」というものをとらえております。
 このへんは、『「仏法と宇宙」を語る』でも少々論じさせていただきましたので、略させていただきますが、ともかく「法」を軸として、無限の広がりと深さをもって説かれているのが仏法なんです。
 屋嘉比 いま、池田先生が、人間精神の深い内面世界とおっしゃいましたが、それについても、ペンフィールドの興味ぶかい研究がありました。
 博士は、人間の高度な心の働きとなる「信ずるということ」、また決心というような「価値の判断」とかいったことは、五官の反応と異なって、脳のどこの部分を刺激してもあらわれない、と主張しております。
 池田 それは、私も聞いたことがあります。当然のことながら、物事への価値判断力などは、人間の心の働きがもつ高度な機能である。それは、あくまでも、脳という「座」を借りて存在しているものだ、と博士は言っていたそうですが……。
 屋嘉比 そうです。
 池田 でありながら、さきほどのヘス博士たちの研究からも明らかなように、人間の「心」と、物質である「脳」は相互に影響をおよぼしている。
 つまり「二にして不二」としか、とらえようがない……。
 科学が進むと、たしかに仏法が理解しやすくなることが、これでもわかる。
 ともかく、このへんは、医学の今後の重大課題ではないでしょうか。
 屋嘉比 そう思います。ところが、池田先生のお話をうかがっていると、仏法は、いわゆる「心」の、さらに奥深い生命の実相に光をあてています。医学はとうていそこまではおよびません。
 もはや、心の問題は、医学上においても、高度な哲学との連関のうえから把握されなければならない段階に入ったのです。
 ── 博士の考え方は、亡くなってすでに二十年になりますが、現在でも認められているのですか。
 屋嘉比 おります。日進月歩の医学の分野では古典的な研究ですが、この考え方は、現在でも十分認められております。
 また同じような研究をした、フランスのロジ・ギョーマン博士は、ノーベル賞を受けています。この人は健在です。
 池田 そのギョーマン博士の功績は、広く世間で認められておりますね。
 ── いや、ギョーマン博士は、いっぺん池田先生に会いたいという話があったのではないですか。
 池田 あった気がします。互いに多忙で、お会いできなかったのだと思います。
 ── いま、アメリカの研究所にいますよ。
 池田 ああ、そうかもしれませんね。
 ── 二、三年前、ローマクラブの故ペッチェイ博士とギョーマン博士が北京でたまたま一緒になったそうです。そのとき、池田先生のことも話に出たと、ペッチェイ博士がパリの日本人の医学博士に、あとで語っていたそうですよ。
 池田 ああ、そうですか。それは知りませんでした。
 「一念」に収まる森羅三千の法
 屋嘉比 私は、じつはこの対談を進めるにあたって、池田先生の『「仏法と宇宙」を語る』を読みなおしました。
 池田 いや、それはどうも恐縮です。(笑い)
 屋嘉比 そのなかに、この脳の解明と、非常に関連があると思ったことがあるんです。
 ── どんなことでしょうか。
 屋嘉比 池田先生は、人間の一念というものは、宇宙大の広がりをもつものである、と話されておりました。
 ── ええ、そうでした。「人間の一念と宇宙」という連関性も、まことに不思議ですね。
 池田 ひとつの次元で言えば、ミクロ(極小)の世界とマクロ(極大)の世界ともいえますね。
 これもまた、まことに妙である。この広大無限な宇宙も、その始まりは、はるかに極小の「火の玉」であった。まことに小さな原子核の融合が、巨大なエネルギーとなる。
 また、極微の遺伝子に、何億もの情報が存在する等々……。
 屋嘉比 人間の脳神経細胞の数も、百四十億個ともいわれます。
 ── これもまた不思議ですね。
 池田 まったくそのとおりだ。さらに百四十億個の神経細胞一個一個が、樹状突起をのばし、約千の他の神経細胞と連絡網をつくっている。その連絡網の組み合わせは、これまた宇宙大である、と聞いたことがありますが、屋嘉比さん、本当ですか。
 屋嘉比 そのとおりです。計算してみますと、この全宇宙に存在する陽子と電子の数は、10の一千乗より少ないようですが、神経細胞の組み合わせは、10の三兆乗にもなります。
 池田 要するに、われわれ人間の頭脳の働きの組み合わせは、宇宙大の広がりの、無限に近い数となってしまう、というわけですね。
 屋嘉比 これもミクロとマクロのおもしろいところです。こうしたことも仏法の「一念三千」の法理に通ずる気がします。
 池田 たとえて言えば、そういう考え方もあるかもしれません。私は、一面はそれでけっこうであると思います。私は仏法者ですから、信仰のうえからみますが……。
 屋嘉比 いまの医者は、帰納的な思考の教育をうけていますから、先生のような評価をしてくださるとありがたいんです。
 池田 仏法においては、人間の生命というものを「一念三千」とも「一心法界」とも、また「総在一念」とも、完璧に説かれております。
 つまり、この人間の「一心」すなわち「生命」という存在に、この全宇宙の森羅三千のありとあらゆる諸法が、すべて具足されてしまうことを、明快に教えているわけです。
 ですから、ひとつの次元で、脳の細胞の数という客観的公準から、この人間の一念というものに、宇宙がすっぽりと収まってしまうことが、ここでも証明された、といってもさしつかえないと思っております。
 そこで私どもの信仰の実践、また現実の人生、生活のうえからみれば、「一念三千」「一心法界」「総在一念」といっても、いまだ「理」というか、「観念」の範疇である。
 日々刻々と変化しゆく現実の生活にあって、広々と無限に広がる「一念」をもつことが、真の幸福といえる。その「一念」をもちうる、確固たる自身の人生観があるならば、この荒波のごとき社会をば、悠々と乗りきっていけると思う。
 ここが、最大の人生の問題ではないでしょうか。
 屋嘉比 そのとおりです。そうでなければ高邁な理論も価値とはならない。
 池田 そこで、その人間の「一念」というものを最極に開きゆき、一人ひとりが、日々価値の創造をせしめゆく現実的方途を、日蓮大聖人の仏法は、説き明かしているわけです。その強き一念の波動は全宇宙の果てまで広がりゆくと……。
 この方程式を大聖人は、「題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし」とおっしゃっておられるのです。
 屋嘉比 ある哲学者が、「脳の問題は科学にまかせても、心の問題は心に返して、人間としてよく生きるという、このことである」と語っていました。
 私は心の問題は、医学者もやはり、より広い視野からのアプローチが必要と思います。

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