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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 出生の不可思議  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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2  仏法を志向した人々
 ── 『「仏法と宇宙」を語る』は、海外からも多くの反響がありました。すでに『潮』連載中から、イギリスの有力出版社からも、英語版の版権取得の求めがあったほどです。
 池田 うかがっています……。
 屋嘉比 英語版を出版したいというのは、それだけ海外でも、仏教に対する関心が高まっているということでしょうね。そのほかになにか反響がありましたか。
 ── そのイギリスの出版社は、欧米の各国に、支社をもっています。その関係者からの手紙に、ヨーロッパ社会と仏法の出合いについて書いたものがあります。
 屋嘉比 具体的には、どういうことですか。
 ── 十八世紀中ごろから十九世紀の初めにかけて、ヨーロッパでは、わずかですが、仏典が英語、ラテン語などに訳されはじめますね。それを見てゲーテなどが「驚嘆した」と言っていたそうです。
 池田 そうした事実は聞いています。それらの仏典はサンスクリット語やパーリ語という、いわばラテン語のようなむずかしい言語で書かれていました。
 当時のイギリスやフランスの学者は、仏法を知るために、言葉を学ぶところからはじめたわけです。そのことだけでも、たいへんに真摯な、仏法を求める姿といっていいでしょう。
 屋嘉比 なるほど。ゲーテは、もちろん仏法の全体など知りえていないわけですね。
 池田 そうです。垣間見たていどでしょう。
 ── 以前、長野で、名誉会長は、青年たちに、ゲーテの『ファウスト』についての所感を語られておりました。私はそれを新聞で読み、このように仏法の観点からとらえうるものかと感銘しました。
 池田 ゲーテは、名作『ファウスト』の第二部を書きあぐねていた時期がありますね。
 ── 有名な話です。文豪シラーに宛てたゲーテの手紙などには、息子の死を契機に書きはじめるとありますから、それが精神的な転機とみられていますが。
 池田 それも事実だと思います。だが、そのころ、彼はインド古代の宗教叙事詩『シャクンタラー』を読み、「底の知れないほどの傑作」と語っています。
 ── なるほど。それは、初めて聞く話ですね。
 池田 ゲーテはさっそく、その形式を求道の実践に出発するファウストの「天上の序曲」に使ったようですね。ただ残念なことには、晩年のゲーテは、仏法を求めながら、十分に知りうる条件に恵まれていなかったといえるでしょう。しかし、彼が仏法を志向したという事実とその影響は、その後も残っている。
 屋嘉比 具体的には、どのようなことですか。
 池田 有名な哲学者ショーペンハウアーは、ゲーテの影響のもとに、彼なりにインド哲学や仏法の研究をし、彼の哲学を体系づけています。
 屋嘉比 ほかにもだれかいますか。
 池田 歌劇の王といわれたワーグナーは、ゲーテやショーペンハウアーのそうした影響を、最も強く受けています。
 屋嘉比 どのようにでしょうか。
 池田 彼の場合は、ついには仏法に帰依していますから、はっきりしています。
 屋嘉比 超一流の文学者、哲学者、音楽家たちが、仏法を志向していたといえるわけですか。
 池田 そのとおりです。事実、彼らの影響で、今日、文豪とか、一流の思想家といわれている人々が、多く仏法へ向かっています。
 屋嘉比 私たちの知っているような人物ではだれですか。
 池田 そうですね。ロシアではトルストイ、フランスではビクトル・ユゴー、アメリカではホイットマンなどです。
 屋嘉比 そうした事実の記録はあるのでしょうか。
 池田 あります。詳しくは別の機会に論じたいと思いますが、この勢いが日本にもまわりまわって逆に上陸し、その結果、日本の文学者たちが仏典への関心を深める契機になったという事実は、おもしろいと思っています。
 ── 芥川龍之介などが、仏教説話を読みはじめたというようなことでしょうか。
 池田 そうです。当時のドイツ文学界の影響です。
 さらにヨーロッパについてみれば、だいぶ時代は後になりますが、フランスの有名な哲学者べルクソンや、スイスの心理学者ユングなどが、仏法に肉薄し、生命の問題を思索する重要な糧にしています。
 ただ一言だけ申しあげておきたいことは、そうした努力も、仏法の全体像というか、本質からみると、まだまだ迹門・爾前ともいえないくらいの序分にすぎないということです。
 屋嘉比 そうしますと、科学者も含めて、世界の人々が本格的に仏法と取り組むのは、これからの時代とみてよいですか……。
 池田 そうです。また、そうでなければ、人類は、期待をこめて二十一世紀を語ることはできない。
 ── 小社で池田先生の鼎談『生命を語る』を、だいぶまえに出版させていただきましたが、たいへんな数の投書がありました。
 いかにいまの社会が「生命」というものに対し、深い関心をもっているかがうなずけました。
 池田 『生命を語る』のなかでも、相当ひろく論じたつもりですが。時代も急速に進歩していますし、なんとか新しい視点で思考していくようにしたいと思います。
 ただ当然、以前の『生命を語る』で論じた範疇も含まれてくることを、ご了承願いたい。
 ── それは当然なことです。
 屋嘉比 それはやむをえないと思います。
 私もこの対談にあたって、『生命を語る』を読みかえしてみました。川田(洋一)博士らもよく研究なされ、たいしたものだと思います。私も川田博士の着眼点には、大いに賛同するところが多いのです。
 こんどは私は私なりに、研究者としての観点から、思索してみたいと思いますが。
 ── この「生命」の問題は、時代が進むにつれて、さらに深い関心が呼び起こされてくるテーマであると思います。
 そこで、ご多忙のところ恐縮ですが、この対談で、何回でも論じていただければ、ありがたいのですが……。
 屋嘉比 わかりました。池田先生がよろしければ、私も努力します。
3  出生と潮の干満
 池田 そこで屋嘉比さん、人間の誕生ということですが、その時刻は、引き潮のときよりも、満ち潮のときに多いと、よくいわれるようですが、実際はどうなんでしょうか。
 屋嘉比 たしかに、そういう傾向があるようにも思えます。
 池田 この点については医学的には、まだ本格的に解明されていないのですか。
 屋嘉比 まだ一部の学者の研究にとどまっていますね。
 池田 たしか大正の末か昭和の初めごろでしたか、大阪の医学者が調べた例について聞いたことがありますが。
 屋嘉比 ええ、その調査は『中外医事新報』の古いのにあったと思います。やはり満潮に出産が多く、干潮に亡くなる例が多かったようです。また、アメリカのメナカー博士らの研究によると、出産はやはり月の運行と関係があるらしく、満月の日に多いようです。
 池田 誕生の時刻は、真夜中のほうが昼間より二倍も多いと聞いたことがありますが。
 屋嘉比 私もそういう説を読んだことがあります。
 池田 統計的には何時ごろがいちばん多いのですか。
 屋嘉比 朝の四時前後ともいわれています。
 ── 私もおふくろから朝方に生まれたと聞いています。(笑い)
 屋嘉比 その日が満月なら、たいへんリズム正しい生まれ方ですね。(大笑い)
 池田 受胎のときも、満ち潮のときが多いと聞きますが、なぜですか。
 屋嘉比 科学的な説明は十分ではありませんが、母親の胎内で、卵胞から卵子が排卵される時刻は、満ち潮のときと関係があるという研究があります。
 卵子は数時間しか生きないともいわれていますので、その説によれば、この間に受精する確率が高くなることが考えられます。
 池田 だれの研究ですか。
 屋嘉比 スウェーデンの化学者、アレニウス博士です。博士は一万人以上の女性を調査しています。
 それと、これは潮の干満の研究とは違いますが、太陽の出ない長い夜のつづく冬の間、エスキモーの女性は生理がなく、妊娠しないといわれており、同様のことが南極地方の女性についても記録があります。
 池田 不思議なことですね。
 屋嘉比 また、アメリカでは秋から冬にかけて受精することが多く、もっと寒いドイツでは春から夏にかけて多いとの報告もあります。さらに、ニワトリは、夜間ずーっと電灯をつけていると一年中卵を産むようです。
 このように、生殖活動は陽の光や季節など自然の変化とも関係があるようです。
 ── ウミガメは、満月の夜に浜辺で産卵するとかいわれているようですが。
 屋嘉比 ウミガメは、必ずしも月夜とは限らないようですが、ウニなどある種の海中動物の生殖活動は、月の運行と関係があるという調査はあります。
 池田 それにしても、人間の身体は六〇パーセント以上が水分ですね。
 屋嘉比 そのとおりです。
 池田 そうすると、身体のなかで潮の満ち引きがあっても不思議ではない。
 屋嘉比 ええ。それについては、ユニークな説ですが、バイオタイド(生物学的な潮汐)理論というのが提唱されています。
 これは、生体には、さまざまな天体、とくに月の影響が認められるという考え方で、生体のなかにも、海の潮汐(潮の満ち引き)と同じような現象がありうるのではないか、というものです。
 池田 ともかく昔から、タイミングがいいことを「今が潮時」というが(笑い)、経験上、人々が何ものかを感じていたことは事実といってもいいでしょう。
 ── ところで子供の誕生ということは、どこの国でも、どの民族でも、おめでたいことですし、慶び事にもなっています。
 そういう誕生にまつわる習俗として、いまでも、子供が生まれると、すぐ湯浴みをさせ、地面に一度おいてから抱きあげるという風習が残っているようですが。
 池田 おそらく、生命は大地から誕生したということを象徴しているのでしょうね。「母なる大地」という観念は、東西を通じて、広く行きわたっていますからね。
 ── アンデルセンには「コウノトリ」という童話がありますね。コウノトリは、子を守る愛情の深い鳥といわれています。この鳥に立派な子供を運んできてもらおうという話ですね。
 池田 この童話が、またたくまに世界に広がり、いまなお愛されているのは、健やかな子を願う人々の素朴な願望が心の奥にあるからでしょうね。
 屋嘉比 仏法では、どうでしょうか。
 池田 『法華経』の法師功徳品という経文には、「安楽産福子」と説かれている。それは、生命のきれいな、福運に満ちみちた子供を、祈り願ったとおりに授かるとの経文です。
 また日蓮大聖人の御書(創価学会版『日蓮大聖人御書全集』=以下、本書では御書、御文という)には、出産の喜びを表現して、「しをの指すが如く春の野に華の開けるが如し」と説かれてもおります。
 屋嘉比 素晴らしい表現ですね。
 ── 生命の「生」という文字には、なにかしら春の野原のイメージがあるのでしょうか。
 池田 そう思います。
 「生」とは、象形文字的に分けると、古来、「土」と「●」とに分けているようです。
 屋嘉比 ああそうですか。その象形文字の「●」は、どういう意味になりましょうか。
 池田 私もよくわかりませんが、なにかの字典に、大地に勢いよく萌え出づる草花であるという説があります。「土」は、万物を産み出す生命力の象徴とされています。
 またこれは、私のまったくの我見ですが、「●」は「千」という意義にもとれるのではないかと思います。
 ですから、草花がたくさん咲き香っているというイメージがある、と思われます。
 ── 生命の若々しき息吹をあらわしていることになりますね。
 池田 大聖人の御文のなかに、「総勘文抄」(「三世諸仏総勘文教相廃立」)という御書があります。そのなかに、「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆ことごとく萠え出生して華敷はなさき栄えて世に値う気色なり」とも説かれています。
 ですから「生」とは、まさしく大地より涌き出づる「生命」の、なんとも生きいきとした状態を表現している。ゆえに、すがすがしい鼓動であり、リズムであり、躍動しゆく「新生」の状態をさすということになるでしょうか。
 屋嘉比 素晴らしい御文ですね。
 池田 また、「御義口伝」という御文のなかでは、一歩深い次元から表現しておられる。それは、「従地涌出の菩薩」ということについて、「従地とは十界の衆生の大種の所生なり、涌出とは十界の衆生の出胎の相なり」と説かれています。少々むずかしいのですが。
 ── 「従地涌出の菩薩」とは「地涌の菩薩」のことですね。
 池田 そうです。ここでは、別して日蓮大聖人のことですが、総じて私たちの立場に約して、わかりやすくいえば、現代において妙法を信受した信仰者に対しての表現ととれます。
 さらに、生命論のうえから拝するならば、「十界の衆生」すなわち、すべての生命は、ことごとく「従地涌出の菩薩」であると、普遍的に説かれています。
 ごく簡単に言いますと、すべての衆生の誕生の本源は、生命の大地、いわば大宇宙の生命より涌出したということです。この大宇宙の生命より、さまざまな縁にふれ、条件が整うと、われわれの生命の種子が生じます。そして母の胎内より誕生して、一個の生命体を現じているということと思います。
 ── 深義はとうていわかりませんが、短い言葉のなかに本質をついた哲理と思います。
 池田 さらに、この御文につづいて、「菩薩とは十界の衆生の本有の慈悲なり」とも説かれています。
 ── それは、どういう意義になりますか。
 池田 端的に言えば、あらゆる生命にそなわっている、本然的な「慈悲」を菩薩と表現しています。言いかえれば、いかなる生命も、そして人間も、本来は、「慈悲」の当体である。しかし、その慈悲も潜在的なもので、残念ながら、「冥伏」していて出てこない。
 いわゆる「生命の尊厳」の本源的な根拠は、生きとし生ける、すべての生命に、この「慈悲」の境涯が実在しているからにほかならない。
 人生の究極目的は、この「慈悲」の生命を、涌現させることにあります。これが妙法の信受、行動となるわけです。ですから、仏法においては、本然の「生」とは、「慈悲」の生命が涌出し、躍動する姿であり、自他ともに「華敷き栄えて」いくところに、根本的な「生」の意義があるのではないでしょうか。そこで大聖人の仏法は、それを可能とする現実的方途を万人に開いたものであるといえると思います。
4  地球は一つの生命体
 ── ところで、人類がどんどん生まれていくと、この地球上だけで、どのくらいの人間が住めるのでしょうか。
 池田 私が最近、何かで読んだ記憶では、現在の人口の約三倍か四倍ぐらいが限度だ、というのがありましたが。
 屋嘉比 たしか、国立民族学博物館の石毛直道助教授が計算されたいちばん新しい研究ですね。
 現在の世界人口は約四十七億人ですから、百六十億から二百億人前後です。
 ── みんなが健康で、伸びのびと喜びの生活をしていくには、どのくらいが限度でしょうかね。アメリカなみの生活水準だと、どうでしょうか。すでに定員でしょうね。(笑い)
 屋嘉比 ええ、まったくそのとおりです。一人の平均的なアメリカ人が生きていくのに、約二万平方メートルの土地がいるといわれていますね。
 ── 約六千坪ですか。わが家の六百倍(笑い)。そこまで高望みしなくとも(笑い)、人口問題はますます深刻です。
 池田 当然のことながら、人間自身の欲望などとその他の多次元の問題とを、交差して考えねばならないことでしょうね。人類の英知を結集すべき重大問題です。
 仏法では、「依報」つまり環境・社会と、生命主体を意味する「正報」とが、決して別々に存在するのではなく、あくまで「不二」(依正不二)であり、密接不可分であると説きます。
 屋嘉比 最近の生態学も生命の連鎖という大前提から出発していますが。
 池田 地球という全生態系のなかで、人間を考えるという観点ですね。
 屋嘉比 ええ、そうです。この観点を追究していくと、最終的には地球を一個の生命体としなければならない方向にいくことになりますが。
 ── 人口問題にしろ環境問題にしろ、やはり、地球のリズムを乱さない一定の調和を保つということが大前提となりますね。
 池田 当然そうなりますね。
 私の人生の師である戸田第二代会長はかつて「地球自体が一つの生命体であるから、条件さえととのえば、生命は誕生する」と語っていた。もう三十数年も前のことでしたが……。戸田第二代会長は宇宙的な広がりのなかで、地球という一生命体を、そして人間生命という存在を思考していたわけです。
 まあ、当時の人々は、その深い意味を知るよしもなかったわけですが。
 ── なるほど、じつに卓見でしたね。
 屋嘉比 母親の胎内から出生するという生命の誕生も、その背後に、全地球的、さらには宇宙的にまで広がりゆく奥行きがあるというのは、現代の科学がさし示していることでもあります。
5  生命ほど不可思議なものはない
 ── さて、親というものは、いずこの国でも、いずれの時代でも、だれもが、健康で五体満足の赤ちゃんを望みます。
 しかし、不幸なことに、障害や奇形をもって生まれてくる場合もあります。
 しかも、現代は、昔にくらべて、だんだん増えていく傾向にあるといわれています。
 屋嘉比 そのとおりです。
 池田 日本と欧米とでは、障害児の生まれてくる割合の違いはあるのでしょうか。
 屋嘉比 あります。日本では一パーセント、欧米では三パーセントから五パーセントともいわれています。
 ── 生まれたときに異常がわからなくても、成長するにつれ、障害が出てくる場合も少なくありませんね。
 屋嘉比 生後一年たって、障害児の割合は倍になります。この率は、日本も欧米も、だいたい同じです。
 池田 医学的にみて、どのような原因が考えられていますか。
 屋嘉比 原因がはっきりわかっているのは、だいたい二〇パーセントぐらいのようです。
 池田 意外ですね。もっと解明されていると思っていましたが……。
 医学的には、遺伝と、母体などの環境の影響は、どうなっていますか。
 屋嘉比 明らかに遺伝子や染色体の異常によるのが一〇パーセント、また環境に起因するのが一〇パーセント、あとはこれらの錯綜した原因によるものと考えられますが、明確にはわかっていません。
 ── 最近は染色体という言葉が、よく新聞にも出てきますが、どんなものですか。
 屋嘉比 簡単に説明しますと、細胞の核の中にはDNAなどの遺伝情報があります。そのDNAが長いラセン状の線のように連なり集まって遺伝子を形成し、かたまりを成している遺伝子連鎖群が染色体です。遺伝子のかたまりですね。
 池田 染色というからには、もともとは透明なのでしょうね。
 屋嘉比 そうです。ふだんは目に見えない糸のようなものですが、細胞が分裂するときに太くなり、濃く染まって見えますので、染色体とよばれています。
 池田 見たことはありますか。
 屋嘉比 ええ、顕微鏡で観察しますが、薬品で色をつけて見やすくします。
 池田 人間ばかりでなく、動物や植物にももちろんありますね。
 屋嘉比 そうです。地球上のあらゆる生物に共通する遺伝子のかたまりです。
 池田 戸田第二代会長に私が師事したのは、十九歳のときからですけれども、その当時、戸田第二代会長はよく染色体のことを語っておりました。また、私にも語ってくれたことがありました。そのことが、たいへん頭に残っているのですが……。
 そこで、人間の場合の染色体に異常があるとは、どういうことですか。
 屋嘉比 普通の人の染色体は四十六あります。それが四十五、あるいは四十七あったりする数の異常があります。
 池田 それが原因で、どのような症状があらわれるのですか。
 屋嘉比 四十五の異常にターナー症候群があります。性染色体の異常で外見は女性ですが、完全な女性化は行いえません。四十七の異常には、ダウン症があります。また外形は男性ですが、女性型の乳房をもつ性分化異常のクラインフェルター症候群などもあります。
 ── 次に、母体の環境による障害の場合ですが、母親のどのような状態が原因になるのですか。
 屋嘉比 これは、妊婦の健康状態に起因するものとか、栄養の不足とか、いろいろあります。
 池田 妊娠中のお母さんが風疹やインフルエンザにかかると、生まれる子は白内障や聾唖、心臓奇形になることがあるというのは本当ですか。
 屋嘉比 本当です。ビールスによるものですが、とくに風疹はこわいものです。
 また、トキソプラズマという病原体に先天的に感染しますと、小頭症や水頭症などになることがあります。
 池田 薬の副作用も大きな問題ですね。
 屋嘉比 そのとおりです。一般に薬の害について知られるようになったのは、催眠剤のサリドマイドが原因となった障害です。
 池田 薬が原因になった例はほかにもありますか。
 屋嘉比 あります。ホルモン剤のプロゲストロンやテストステロン、マラリア治療薬のキニーネ、抗生物質のストレプトマイシンなども、奇形児の発生に影響しています。
 池田 レントゲンの影響もあるといわれていますね。
 屋嘉比 レントゲンから出る放射線に多量にあたると、遺伝子に影響を与えることがあります。
 ── 実際に確認されていますか。
 屋嘉比 ええ、放射線を多量に浴びた人の子供や、原爆実験を行った地域の子供に異常が出てくる場合があります。
 したがって妊娠中、とくに妊娠初期の人が強い放射線にあたると、胎児に奇形ができる危険性があるといわれます。
 池田 たしか放射線といえば、広島や長崎で被爆した妊娠中の婦人の例がありましたね。
 屋嘉比 ええ、とくに被爆の中心地での影響については、まとまったデータがあります。
 池田 かなりの影響が出ていたようですが。
 屋嘉比 そうです。約五〇パーセントが死亡ないし流産とか、また、生まれた十一人の赤ん坊のなかで、七人が小頭症で精神障害児であったとのデータもあります。
 池田 障害の原因は、まだほかにもありますか。
 屋嘉比 約二百八十日経って、産道を通り、いよいよ生まれてくるときも難関でして、そのとき、ヘソの緒が首に巻きついたり、頭が圧迫されたりして、酸素不足で脳性マヒになって生まれてくることもあります。
 池田 誕生というのは、じつにたいへんなことですね。
 屋嘉比 まったくそう思います。母親が糖尿病の場合なども流早産が多く、赤ちゃんが巨大児になってしまい、難産のことが多いようです。
 池田 なるほどね。しかし母親だけではなく、父親の影響についても、いつか公平に論じてもらいたいと思いますね。(笑い)
 それにしても、たしかに考えれば考えるほど、生命というものほど不可思議なものはありませんね。地球上の全科学をもってしても、人間をつくりだすことは不可能でしょうからね。
 屋嘉比 まったくそう思います。まず、受精卵が子宮に着床するまえに、自然に五〇パーセントが流産しているようです。
 また、子宮内の残りの五〇パーセントが胎内で育ちますが、胎児の形をとるまえに、さらに、その三五パーセントが流産します。ですから、受精卵自身、自然淘汰されて、いわば、それに勝ち残ったものだけが成長をつづけ、分娩まで行きつくのです。
 池田 現実に、障害児が生まれるのはなぜですか。
 屋嘉比 異常をもつ胎児で、本来は流産していたはずのものが、最近では、薬などを使い、出産にもっていけるケースが多くなったので、障害児が増えているという説もありますが、それ以上のことは医学ではまだわかっておりません。
 池田 もっと深く、もっと遠いところに、原因がある場合があるでしょう。仏法では「業」ととらえますが、その問題はまたあらためて論じさせていただきたいと思います。
6  運命と宿業のドラマ
 池田 ところで、同じく、出生時からの障害といっても、遺伝によるものもあるが、母体の影響からくる障害で遺伝しないものもある、と聞いていますが、屋嘉比さん、どうですか。
 屋嘉比 そのとおりです。風疹によるものなどは遺伝しません。
 遺伝性のものとしては、たとえば、精神障害を生じる病気に、フェニルケトン尿症というのがあります。これは明らかに先天性で、かつ劣性遺伝します。
 池田 それは、何が原因で起こる病気ですか。
 屋嘉比 フェニルアラニンというアミノ酸の代謝異常で、脳の発育が妨げられ、精神障害を生じたり、色素産生の異常があり、いわゆる“白子”の状態になります。しかし、最近では、出生後、早期に尿や血液を調べることにより、精神障害を防ぐ措置をとることができます。
 ── 高校時代、遺伝の仕組みは、習ったつもりですが、もうまったく忘れてしまいました(笑い)。すみませんが、もう一回、この場で復習させていただけませんか。(笑い)
 屋嘉比 ちょっと初歩的な説明になりますが、遺伝というのは、受精、つまり精子と卵子の結合にあたって、染色体のなかに含まれている遺伝子により、ある特質が次の世代に伝わっていくことです。
 わかりやすい血液型の例をとりましょう。かりに、両親ともAB型の血液型の場合を考えると、その受精の場合、父親の精子には、A型の遺伝子をもったものと、B型の遺伝子をもったものとが、ほぼ同数あるわけです。
 ── なるほど、そうでしたね。
 屋嘉比 母親の卵子にも、A型の遺伝子のものと、B型の遺伝子のものとがあります。
 受精の結果、子供の血液型の組み合わせは、AA、AB、BA、BBの四つが可能です。これを遺伝子型といいます。
 しかし、このうち、ABとBAは同じですから、実際にあらわれる血液型としては、A、AB、B型の三つになります。これを表現型といいますが、その比率は「一対二対一」です。A型の確率は、四分の一です。
 ── よくわかりました。
 屋嘉比 そこで、劣性遺伝病であるフェニルケトン尿症の場合には、両方の親から授かる遺伝子が二つとも病的遺伝子の場合、発病するわけです。
 かりに、「病気の遺伝子」をAとし、「正常な遺伝子」をBとして、両親がともにA、Bの遺伝子の両方をもっている場合、確率的にみると、その間に生まれる「病気の子供」と「潜在的な素質の子供」と「正常な子供」の割合は、同じく「一対二対一」となるわけです。
 池田 なるほど。遺伝の法則が貫かれているわけですね。
 仏法では、釈尊も「生老病死」と説いているように、すべては「生」すなわち「誕生」から出発している、ととらえています。
 その誕生について、御文には、「我等其の根本を尋ね究むれば父母の精血・赤白二渧和合して一身と為る」とあります。
 さまざまな宿命の姿の、今世におけるいちおうの原因というものは、結局のところ、受精・受胎という現象に即してあらわれることと思います。
 さらに他の御文には、「此の出生の子に善子もあり・悪子もあり端厳美麗の子もあり・醜陋の子もあり・長のひくき子もあり・大なる子もあり・男子もあり・女子もあり云云」とあり、現実の誕生においては、まさしく千差万別の、さまざまな姿があることが説かれています。
 屋嘉比 なるほど。
 池田 たしかに、医学的な分析、帰納法ではありませんが、演繹的、結果的には、これが現実だと思います。
 屋嘉比 そう思います。
 池田 受精・受胎という生のはじまりにおいて、すでに、おのおのの宿命が定まってしまう。ですから、それを生命の不可思議の一つとして、仏法では「宿業」の厳しさととらえるわけです。
7  人格、体質は遺伝を超えられるか
 池田 ところで、体質とか、体格、さらには性格などと遺伝の問題は、医学的にはどうとらえていますか。
 屋嘉比 まず「体質」については、かなり遺伝性が強いとみていいと思います。
 たとえば、伴性遺伝の色盲とか、一重まぶたとか、それから、ぜんそくなどのアレルギー体質ですね。
 もっとありふれた例では、耳アカにも、カサカサしたものと、いわゆるアメミミというものとの、遺伝的な違いがあります。これには人種による大きな差がありまして、日本人の大多数はカサカサした耳アカですが、白人や黒人では、アメミミが多いようです。
 それから、PTC味盲というのもあります。
 池田 それは、どういうものですか。
 屋嘉比 フェニルチオカルバミド(PTC)という試薬に対して、苦味を感じる人と、まったく感じない人とがあることがわかっています。これも遺伝的なものです。
 池田 アルコールに対する反応も、かなり生まれつきのものだといわれていますが、本当のところ、どうなんでしょうか。(笑い)
 屋嘉比 これもやはり、遺伝的な要因が強いようです。
 ── すると、お酒好きはみな遺伝によるというわけですね(笑い)。訓練もあると思いますが。(笑い)
 池田 それは程度の問題でしょう。(笑い)
 体質的に酒に弱い人は、いくら練習しても、そんなに強くはならないでしょう。
 屋嘉比 そのとおりですね。
 池田 寒暖の感覚にも、体質的な差があるようですね。
 屋嘉比 ありますね。もちろん、生まれ育った環境の影響による場合も多くありますが、夏の炎天下のようなところでも、わりに平気な人と、なにもしないでもすぐグッタリしてしまう人とか。(笑い)
 池田 「身長」とか「肥満」とかは、どうでしょうかね。先天的なものの比重が大きいのか、後天的なものの比重が大きいのか……。
 屋嘉比 むずかしい課題に入ってきました。というのは、遺伝性の病気の場合とは異なり、体質や体格とか知能とかは、多因子遺伝といって、それを決める遺伝子の数は、きわめて多いと考えられるからです。それに、環境の影響もありますし……。
 私の知る範囲では子供の「身長」については、三五パーセントは父からの遺伝、三五パーセントは母からの遺伝、あと三〇パーセントは、ホルモン障害や、食物、運動などの環境条件によるという調査もあります。
 池田 たしかに大きな子の両親はえてして大きいし、遺伝ということがあるのでしょうね。しかし、戦後の日本人はずいぶん背が高くなっており、環境の影響も重要ですね。
 屋嘉比 「肥満」も脂肪や糖代謝に関する体質の違いと、食糧事情など環境の影響の、双方によるものです。
 ── 「性格」についてはどうでしょうか。
 屋嘉比 これは、さらに複雑ですね。遺伝か環境か、ずいぶん議論のあるところです。
 池田 この問題は、どちらか一方というような、そんな単純な見方では決まらないと私は思いますが。
 「氏より育ち」とか、「ウリの蔓にナスビはならぬ」とか、「カエルの子はカエル」とか、「トンビがタカを生む」とか、まあ、いろいろにいわれていますが……。(大笑い)──最近では、どうも人間の一生は、すべて遺伝子で決定されているというような、いわば決定論的な考え方の傾向もあるようですね。
 池田 人格とか、性格とかいうものは、大海のような複雑性を秘めていて、そんな単純計算で割りきれる問題ではないと思いますが。
 ── 単純といえば、また最近、血液型による性格判断が流行していますよ。(笑い)
 池田 だけど医学者の立場からは、まったく否定的な感じがしますが、どうでしょうか。
 屋嘉比 ええ、そうです。
 個人的にみると、私はA型ですが、まったく当たっていないわけではないとも思えたりしますが(笑い)。しかし、実証的な根拠はないのですね。
 ── そうですか。私もA型ですが(笑い)、血液型の本などを読むと、たしかに、当たっているなと思わせられるところがあるんですよね。(笑い)
 屋嘉比 血液型による性格判定などを信ずるのは、現代人の依存性、付和雷同性を示すものだという批判があります。(笑い)
 池田 あるていど、的を射ていると思わせる効果があるからでしょうね。
 いずれにしても、性格・気質というものは、もともと明確に規定できない、多様で、重層的なものですね。それを血液型という一要素だけで割りきるところに、むりが出てくる。
 屋嘉比 そうだと思います。ただ、血液型と病気の関係については、かなり研究した医者もいるようです。
 ── たとえば、胃ガンの患者にはA型の人が多いとか、逆に十二指腸潰瘍では、O型の人が多いとか聞きますが……。
 池田 いや、そうすると、A型、O型の人は気にしますよ。(笑い)
 そうはいっても、確率的に絶対というわけではないでしょう。(笑い)
 屋嘉比 それはまだ、はっきりした因果関係は明らかにされていません。おそらく、身体を構成している成分のムコ多糖類の構造の違いによるのではないか、と推測している学者もいます。
 いちおう、一つの傾向性ということでしょうが、しかし、不可思議なる生命の全体というものは、やはり、それだけでつかむことはできないでしょう。
 ── そうですね。そんなことを気にして、かえって病気になるのは愚かですからね。(爆笑)
 屋嘉比 また人間の「性格」というもの一つとってみても、概論的な話になって恐縮ですが、大きく分けて二つの説があります。一つは、遺伝の要因を重視する「生得説」です。もう一つは、環境条件を重視する「経験説」というものです。
 たしかに、そのどちらか一方で割りきれるという単純なものではないようです。
 池田 私もそう思いますね。いずれにしても、「素質」と「環境条件」の交差した相互関連のなかで、「性格」はつくられていくものでしょうね。
 屋嘉比 それが正しいと思います。
 池田 さらに、人間の場合は、ただ本能に支配されている他の動物と違って、もっと主体的な要因を重視しなければならないでしょう。
 屋嘉比 私もそう思います。
 ── ある父親が息子に「おまえは、どうして、そんなにできがわるいんだ」と言ったら、息子が「遺伝か、環境のせいでしょ」と、すまして答えたそうです(笑い)。笑い話のようで、身につまされる話です。(笑い)
 池田 ですから、みずからの意志で、みずからの限界を超えながら、自分自身を変革していこうとする姿勢が大切になってくる。また、そうした達観した人生観をもつことができれば、そのなかから、思いもかけない人間としての最大の条件がそなわっていくような気がしますが。
 屋嘉比 そのとおりだと思います。たしかに人間にはもっと主体的な要因があるように思いますが、人はおうおうにして遺伝や環境のせいだというように、どこかに責任を転嫁させようとします。しかし、科学的にその要因を追究してみても、すべての解答にはなりません。
8  人間の条件とは
 ── ところで夫婦、つまり両親の性格は、子供にどのような影響をあたえていますか。
 池田 当然、遺伝的な面と、環境的な面と、両面での影響があるでしょうね。
 屋嘉比 そうです。遺伝の面では、子供の遺伝子は、父親と母親から、それぞれ半数ずつ伝えられたものですから、両方の影響があらわれます。
 池田 遺伝的には、あくまで両親の共同責任ということですね。(笑い)
 屋嘉比 そうなりますか。ただ、人間の遺伝子は、数万から数十万、あるいは百万以上ともいわれていますから、子供の性格のなかに、どれだけの遺伝子がからみあっているのか、追究はほとんど不可能だと思いますが。
 池田 よく男の子は母親似が多い、女の子は父親似が多い、といわれますが、科学的な根拠はありますか。
 屋嘉比 一般的にはありません。しかし、はっきりしているのは、十文字遺伝といって、たとえば色盲の場合です。父親が正常でも、母親が色盲だとしますと、女の子には色盲があらわれませんが、男の子には、色盲があらわれます。
 池田 逆の場合は、そうはならないのですか。
 屋嘉比 ええ、父親が色盲で、母親が正常のときは、少し複雑ですが、子供は男女とも正常であるか、あるいは男女とも五〇パーセントの確率で色盲となります。
 池田 すると、十文字遺伝というのは、必ずしも一般的な法則ではないわけですね。
 屋嘉比 むしろ、例外的といっていいと思います。
 池田 長男と次男、あるいは、一人っ子と兄弟の多い子とで、性格の違いがありますね。これなどはどう説明できますか。
 屋嘉比 両親のもっている遺伝子が、子供に分配されるのですから、親と子、兄弟同士が似ているのは当然です。
 ところが、数十万もあるという遺伝子の分配の仕方は、クジを引くようなもので(笑い)、その組み合わせは無数にちかいですから、兄弟同士でも違ってくることになります。
 ── なるほど。環境的な面ではどうですか。
 屋嘉比 むしろ、幼少期の両親の育児態度、家庭環境といった面で、両親の性格の影響力は大きいと思いますね。
 池田 人間の場合は、とくに、そうした躾、教育の役割を重視する必要がありますね。
 屋嘉比 そう思います。たとえば、アメリカの心理学者サイモンズ博士は、とくに、幼少期の子供に最も多く接する母親の育児態度を重視しています。
 母親が子供に対して、支配的か服従的か、保護的か拒否的か、という二つの尺度の組み合わせで、子供の性格形成を規定しようとしています。
 池田 両親の責任は平等であるといっても、母親は胎内にいるときから最も長く子供に接しているわけだから(笑い)、母親の影響の比重はたしかに大きいものがあるでしょうね。
 屋嘉比 そう思います。たとえば、母親が子供に対して、過度に支配的で保護的であると、これは「干渉しすぎ」になります。
 逆に、保護的で服従的な態度は「甘やかし」です。服従的で拒否的なのは「無関心」、支配的で拒否的なのは「残酷」という態度になる、というのです。
 これはもちろん、過度にいきすぎた場合ですが、大なり小なり、これらのどれかの傾向にあてはまるのではないでしょうか。
 ── たしかに、長男に対しては厳しく、次男あるいは末っ子に対しては放任したり、甘やかすという傾向はありますね。
 屋嘉比 それから、一人っ子で、兄弟ゲンカの経験がないと、どうしても孤立的になり、成長してからの人間関係で、ギクシャクするといった場合もあるようです。
 池田 そのとおりと思います。ともかく、性格形成の条件には複雑なものがあるが、やはり、両親自身の人生を生きる姿勢が大事でしょうね。
 みずからが価値ある目標に向かって、充実して、生きぬき、成長していく姿勢がなければ、真実の教育はありえない。
 人間は、夫婦、親子、友人関係にしても、また教師と生徒という師弟関係にしても、すべて互いの、人間と人間との打ち合いのなかに、自身も触発され、相手にもよい影響をあたえ、ともに成長していくものでしょう。
 ── 非常に示唆的なお話だと思います。
 そこで、「遺伝と環境」ということで、よく話題にされる「天才」の問題があります。天才の天才たるゆえんは、いったい何にあるのかということですが。
 池田 エジソンが、天才とは、一パーセントのインスピレーション(霊感)と、九九パーセントのパースピレーション(発汗)である、と言ったのは有名な話ですね。
 屋嘉比 九九パーセントは努力だということですね。
 池田 当然、持って生まれた才能や素質が前提になることは事実でしょう。しかし、それだけでは実際に開花し、偉業を達成することはできない。
 屋嘉比 「運・鈍・根」などともいわれますね。
 池田 そうですね。仏法では、人間の開花をもたらしゆく、より根本的な力として、「信根」「精進根」「念根」「定根」「慧根」という五根がありますが……。  
 人間の主体的な条件としては、やはり、集中力と持続力が大事でしょうね。「持続は力なり」ですね。
 もちろん、そうした集中力とか持続力とかの特質も、かなり遺伝的な要因として解明されるのでしょうが。
 屋嘉比 たしかに、生まれつきの性質という面があります。
 池田 しかし、われわれのような凡人でも、深い使命感と目的観をもち、大きな目標が設定されれば、はかりしれないほどの力量を発揮することができるものだ、と私は確信しています。
 ── 偉大な事業を達成した人の生涯には、「師との出会い」という、ある決定的瞬間が、大きな転機になっていることが多いようですが。
 池田 いま、思いつくだけでも、「ソクラテスとプラトン」「ベロッキオとレオナルド・ダ・ヴィンチ」「ベートーヴェンとシューベルト」、また「緒方洪庵と福沢諭吉」「コッホと北里柴三郎」などの例がありますね。たしかに、私の体験からもそう思います。
 屋嘉比 だれにでも、人生にあって深い影響をうけた人の存在というものはありますね。
 池田 いずれにしても、遺伝といい、環境といい、一人ひとりの個人にとっては、ある意味では、すべてあたえられている現実であり、結果であると、私は思いますが。
 より大事なことは、そこから、どのように自己開発していくかということでしょう。
 仏法では、これを「本因」ととらえています。
 屋嘉比 鋭い指摘と思います。医学は、現実や結果の解明に光をあてていきます。と同時に、だれもが、もっと根本的な問題があると感じてはいます。
 ── いま「生命」に関する最先端のテーマとして、新聞・雑誌・テレビなどのマスメディアで、大きな話題になっているのは、なんといっても「遺伝子工学と生命操作」の問題です。
 そのほか、盛んにとりあげられているテーマを、思いつくままに列挙してみますと、「脳戦争」とか、「老化」の問題、「死の判定」の問題、また人工受精や、臓器移植の問題などがあります。
 屋嘉比 寿命と加齢、そして高齢化社会における福祉の問題もありますね。また、植物人間や尊厳死の問題とか……。私の専門である医療と、深いかかわりがありますが。
 池田 たしかに、いずれも人類の未来にとって、重要で、深刻な問題ですね。また、古くして新しい問題として、生命の起源、生命そして人間とは何か、という問題も、あらためて活発に論じられていますね。
 屋嘉比 人間と自然環境の問題とか、心身症をはじめとする「心」の領域の問題もありますし……。
 ── 「健康ブーム」もつづいていますし……。(笑い)
 屋嘉比 「生命論」というのは、広げていけば、限りない広がりのあるテーマですね。
 池田 仏典では「諸法実相」(「法華経方便品」)と完璧にとらえている。
 また、さきほどの「総勘文抄」という御文には、「此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆ことごとく一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」とも説かれています。
 せんじつめれば、森羅万象のことごとくが、「生命」の所作であり、営みであり、そのあらわれになるわけです。
 ですから、「生命論」の範疇は、限りなく豊かで、広い。また、奥行きの深い問題です。あらゆる問題は、人間・生命から出発しているわけですから、すべてが「生命論」の範疇に含まれてくることになる……。  (笑い)
 ── たいへんなことになりました。(笑い) ぜひ、そうした問題も、今後のテーマとして、お願いしたいと思います。
 池田 そうですね。期待にこたえることはむずかしいのですが、一緒に勉強しましょう。
9  医学と仏法の役割について
 ── 話は変わりますが、近代になって、生命のことを最も追究し、研究した学者はだれですか。
 池田 それぞれの立場で名をあげる人は異なると思いますが……。「生の哲学」のベルクソンはその一人でしょうね。どうでしょうか、屋嘉比さん。
 屋嘉比 ベルクソンですと、異論はないと思います。医学の底流には、常に思想、哲学が必要ですが、彼の著書『創造的進化』のなかで「知性は生命にたいする本性的な無理解を特徴とする」との指摘は、印象ぶかく残っています。
 ── 池田先生の『若き日の日記』を拝見しますと、ずいぶんベルクソンの著書を読まれていますね。
 池田 何冊か読みました。青春のころの読書は、忘れがたいものです。
 とくにベルクソンが「分析」から「直観」へと主張したことには、共感をおぼえました。
 いま、再び彼の『物質と記憶』や『道徳と宗教との二源泉』などが読まれはじめていると聞いていますが……。
 ── 小林秀雄さんなども最後に挑戦するテーマにしていたようですね。
 屋嘉比 ベルクソンは生命哲学の分野ばかりではなく、文学者にも関心をもたれたのですね。
 池田 そう思います。生命論の受けとめられ方などをみても、医学や文学や物理学など、専門がいかに異なっても帰着するところは同じだ、ということがわかります。
 専門は専門として、最終的にめざしていくところは、結局、「人間」と「生命」の問題になっていくことは必然といえます。
 こんど五千円札の肖像になった新渡戸(稲造)博士は、牧口(常三郎)初代会長と昵懇だったようです。博士は、日本人としてベルクソンと直接交際した数少ない人物の一人です。
 ── そういえば、牧口先生の『創価教育学体系』に序文を寄せていますね。
 池田 そうです。新渡戸博士は、フランスなどの長い滞欧生活からの帰国直後に書かれたようですね。
 ── その序文を見ますと、教育技術の追究に翻弄されている当時の教育界にあって、技術はあくまで従であって「堅実なる人を養成する」ことを重視する牧口先生の「人間教育」を絶賛しています。
 これなども、ベルクソンの生命哲学からの影響をうけた経緯もあってのことではないでしょうか。
 池田 そのように想像できますね。初代会長は、すぐれた教育者であり、人生地理学の大学者でした。ですから、当時の教育界の重鎮であった博士との交流は、必然的な出会いだったのでしょう。
 ただここで申しあげたいことは、当時の新渡戸博士は、人間から生命へというベルクソンの生命哲学にもふれ、より深く、ものごとをとらえる境地に立っていかれたのでしょう。そこできっと初代会長の『価値論』の内容を見て、博士が感動なされたような気が私にはするのです。
 そこで屋嘉比さん、医学の分野では、現在、大家といわれる人は、だれがいますか。
 屋嘉比 アメリカのライナス・ポーリング博士などの名前はよく耳にしますね。博士はすぐれた研究者であるとともに、平和運動の実践者でもあります。
 池田 ビタミンCの研究などで、ノーベル化学賞を受けた著名な学者ですね。また、ノーベル平和賞も受けている。
 ── その意味では、人類のためにたいへん貢献していますね。
 屋嘉比 博士の研究所には、いまでも三十三人のノーベル賞学者が研究に従事しています。
 池田 素晴らしいことだ。それから、イギリスの分子生物学の分野でしたか、ワトソン博士、クリック博士の名前も、新聞などで見かけることがありますが。
 屋嘉比 ええ、両博士は、今日の生命科学の基礎になる理論構築に貢献しています。とくに、DNA(デオキシリボ核酸)という遺伝子の構造を解明しました。科学が人間生命の神秘に足を踏みいれた、偉大なる業績と思います。両博士の研究書は、医学を志す者の教科書です。
 池田 あとはどういう人がいますか。
 屋嘉比 一九六三年にノーベル医学生理学賞を受けたオーストラリア生まれのエックルス博士も大事な人です。
 池田 脳を研究している方ですね。
 屋嘉比 ええ、大脳生理学の大家で、たしか東大の生理学教授も師事されたことがあり、私たちもいわば孫弟子にあたるわけです。博士は、最近、一般向けの『脳と宇宙への冒険』(鈴木二郎訳、海鳴社)という本を書かれています。
 その本のなかで博士は宇宙と地球、人類の歴史にふれ、結論として人間の脳を理解するのに「脳を超えた自我意識精神」を想定されています。
 ── より深く広い次元からの、ものの見方が要求されるわけですね。
 ところで、脳のシワの多い少ないで頭のよさが決まると、よく聞きますが。(笑い)
 屋嘉比 それだけで頭のよさが決まるというのは、もし神が人間をつくったというのであれば、あまりにも残酷な話です(笑い)。人間の頭脳のよさが、シワとか脳の大きさとかで決まるというのは、あくまで俗説ですね。(笑い)
 もし、それが正しいとすると、人間の六倍もの脳の重さのあるマッコウクジラや、人間より脳のシワの多いイルカのほうが、人間よりずっと賢いということになってしまいます(笑い)。だいたい人間は、自分の脳細胞をすべて使いきっているわけではありませんから、やはりシワの数ではなく、努力の量によって決まるのではないでしょうか。
 池田 ともかく、私たちは、現実に生きている、生まれてきてしまったことだけは間違いない。そして生まれながらにして、貧しい家に、富める家に、賢く、愚かに等々、あまりにも差別の境遇にはめこまれた運命にある。
 その淵源はどこにあるのか、という問題を、厳しき因果のうえから説き明かしたのが仏法です。
 「心地観経」という仏典には、「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」とあります。
 これは、仏法では、たんに「今世」だけの生命現象の「因果」をあつかうのではない。あくまで、「過去・現在・未来」という「三世」にわたる永遠の生命観にたって、すべての現実、現象を掘りさげてとらえ、そこに、仏法は、人間の運命と宿業の淵源をみていく、という意味になります。また、それをいかにして打開していくか、という法則を提示しているわけです。
 屋嘉比 現象面を主に追究する医学からみますと、たいへんな深い次元からの道理となるわけですね。
 池田 ですから、人間が医学から多大な恩恵をこうむってきたこと、また未来もそうであることは揺るぎない事実ですが、医学は、いわば生命の現象面の近因の探究と治療が目的であるといえる。それに対し、仏法は淵源の追究、そして未来の追究であるといえる。
 屋嘉比 医学の研究者としては、人間と医学を考えるうえでの大切な示唆を感じます。
 池田 大聖人の因果倶時の法門は、さらに、もう一歩深いのですが……。
 これは、また、なにかの機会に論じさせていただきたい。
 ともあれ、医学は健康の追究であり、仏法は何のために生まれてきたかの追究であり、この人生を最高に価値あらしめる生活の歩みです。
 その意義から、大聖人の仏法では、それを「衆生所遊楽」ととらえている。この地球上に生を享け、楽しみきって人生を終わることこそが、私たちの信仰の目的なのです。なかなか凡人ではたいへんなことですが。(大笑い)

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