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日蓮大聖人・池田大作

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始聞仏乗義  (2/3) 我等其の根本を尋ね究むれば父母の精血・赤白…
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や、答う法華経第三薬草喩品に云く「種相体性の四字なり其の四字の中に第一の種の一字に二あり、一には就類種二には相対種なり」其の就類種とは釈に云く「凡そ心有る者は是れ正因の種なり随つて一句を聞くは是れ了因の種なり低頭挙手は是れ縁因の種なり」等云云、其の相対種とは煩悩と業と苦との三道・其の当体を押えて法身と般若と解脱と称する是なり、其の中に就類種の一法は宗は法華経に有りと雖も少分又爾前の経経にも通ず、妙楽云く「別教は唯就類の種有つて而も相対無し」と云云、此の釈の別教と云うは本の別教には非ず爾前の円或は他師の円なり、又法華経の迹門の中・供養舎利已下二十余行の法門も大体就類種の開会なり、問う其の相対種の心如何、答う止観に云く「云何なるか聞円法なる生死即法身・煩悩即般若・結業即解脱なりと聞くなり三の名有りと雖も而も三の体無し是れ一体なりと雖も而も三の名を立つ是の三即ち一相にして其れ実に異有ること無し、法身究竟すれば般若も解脱も亦究竟なり般若清浄なれば余亦清浄なり解脱自在なれば余亦自在なり一切の法を聞くこと亦是の如し皆仏法を具して減少する所無し是を聞円と名く」等云云、此の釈は即ち相対種の手法なり其の意如何、答う生死とは我等が苦果の依身なり所謂五陰・十二入・十八界なり煩悩とは見思・塵沙・無明の三惑なり結業とは五逆・十悪・四重等なり、法身とは法身如来・般若とは報身如来・解脱とは応身如来なり我等衆生無始曠劫より已来此の三道を具足し今法華経に値つて三道即三徳となるなり。

難じて云く火より水出でず石より草生ぜず悪因・悪果を感じ善因善報を生ずるは仏教の定れる習なり而るに我等其の根本を尋ね究むれば父母の精血・赤白二渧和合して一身と為る悪の根本不浄の源なり、設い大海を傾けて之を洗うとも清浄なる可らず又此れ苦果の依身は其の根本を探り見れば貪・瞋・癡の三毒より出ずるなり、此の煩悩苦果の二道に依つて業を構う此の業道即ち是れ結縛の法なり、譬えば籠に入れる鳥の如し如何ぞ此の三道を以て三仏因と称するや、譬えば糞を集めて栴檀を造れども終に香しからざるが如し、答う汝が難大いに道理なり


我此の事を弁えず但し付法蔵の第十三天台大師の高祖・竜樹菩薩・妙法の妙の一字を釈して譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し等云云、毒と云うは何物ぞ我等が煩悩・業・苦の三道なり薬とは何物ぞ法身・般若・解脱なり、能く毒を以て薬と為すとは何物ぞ三道を変じて三徳と為すのみ、天台云く妙は不可思議と名づく等云云、又云く一心乃至不可思議境・意此に在り等云云、即身成仏と申すは此れ是なり、近代の華厳・真言等此の義を盗み取りて我が物と為す大偸盗天下の盗人是なり。

問うて云く凡夫の位も此の秘法の心を知るべきや、答う私の答は詮無し竜樹菩薩の大論に云く九十三なり「今漏尽の阿羅漢還つて作仏すと云うは唯仏のみ能く知ろしめす、論議とは正しく其の事を論ず可し測り知ること能わず是の故に戯論すべからず若し仏を求め得る時乃ち能く了知す余人は信ずべく而も未だ知るべからず」等云云、此の釈は爾前の別教の十一品の断無明・円教の四十一品の断無明の大菩薩・普賢・文殊等も未だ法華経の意を知らず何に況や蔵通二教の三乗をや何に況や末代の凡夫をやと云う論文なり、之を以て案ずるに法華経の唯仏与仏・乃能究尽とは爾前の灰身滅智の二乗の煩悩・業・苦の三道を押えて法身・般若・解脱と説くに二乗還つて作仏す菩薩・凡夫も亦是くの如しと釈するなり、故に天台の云く二乗根敗す之を名けて毒と為す今経に記を得る即ち是れ毒を変じて薬と為す、論に云く余経は秘密に非ず法華は是れ秘密なり等云云、妙楽云く論に云くとは大論なりと云云、問う是くの如し之を聞いて何の益有るや、答えて云く始めて法華経を聞くなり、妙楽云く若し三道即是れ三徳と信ぜば尚能く二死の河を渡る況や三界をやと云云、末代の凡夫此の法門を聞かば唯我一人のみ成仏するに非ず父母も又即身成仏せん此れ第一の孝養なり病身為るの故に委細ならず又又申す可し。

  建治四年太歳戊寅二月二十八日          日蓮花押

   富木殿


可延定業書

                    弘安二年 五十八歳御作

                    与 富木常忍妻

夫れ病に二あり一には軽病二には重病・重病すら善医に値うて急に対治すれば命猶存す何に況や軽病をや、業に二あり一には定業二には不定業、定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す何に況や不定業をや、法華経第七に云く「此の経は則為閻浮提の人の病の良薬なり」等云云、此の経文は法華経の文なり、一代の聖教は皆如来の金言・無量劫より已来不妄語の言なり、就中此の法華経は仏の正直捨方便と申して真実が中の真実なり、多宝・証明を加え諸仏・舌相を添え給ういかでか・むなしかるべき、其の上最第一の秘事はんべり此の経文は後五百歳・二千五百余年の時女人の病あらんと・とかれて候文なり、阿闍世王は御年五十の二月十五日に大悪瘡・身に出来せり、大医耆婆が力も及ばず三月七日必ず死して無間大城に堕つべかりき、五十余年が間の大楽一時に滅して一生の大苦・三七日にあつまれり、定業限りありしかども仏・法華経をかさねて演説して涅槃経となづけて大王にあたい給いしかば身の病・忽に平愈し心の重罪も一時に露と消えにき、仏滅後一千五百余年・陳臣と申す人ありき命知命にありと申して五十年に定まりて候いしが天台大師に値いて十五年の命を宣べて六十五までをはしき、其の上不軽菩薩は更増寿命ととかれて法華経を行じて定業をのべ給いき、彼等は皆男子なり女人にはあらざれども法華経を行じて寿をのぶ、又陳臣は後五百歳にもあたらず冬の稲米・夏の菊花のごとし、当時の女人の法華経を行じて定業を転ずることは秋の稲米・冬の菊花誰か・をどろくべき。

されば日蓮悲母をいのりて候しかば現身に病をいやすのみならず四箇年の寿命をのべたり、今女人の御身として病を身にうけさせ給う・心みに法華経の信心を立てて御らむあるべし、しかも善医あり中務三郎左衛門尉殿は