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日蓮大聖人・池田大作

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人間らしい生き方〈2〉 十界論をめぐって 

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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17  北川 いままでのところで、仏の生命の様相が、ほぼわかりかけてきたような気がします。そして、時間的にも、空間的にも、宇宙生命と一体化し、融けあった仏の生命が、私自身の生命にも実在している、という事実も知りました。
 だが、それを現実の私たちの生命活動の源泉にしなければ、ただ実在するというだけでは、私たちは人間らしい人生を送ることはとうてい望みえません。迹化の菩薩などは、利他の行動をとおしての自我の錬磨によって、仏の生命のもつ偉大な力をひきだそうとしましたが、その修行はきわめて困難でもあり、また、現代の世相にも適応しない面もあります。
 このことは、先ほど話しあいましたが、仏の生命を外からではなく、直載に、生の内奥からわきいだす方途とは、いったいどのようなものでしょうか。つまり、仏界顕現の鍵ですが……。
 池田 鍵といっていいかどうかはわからないが、日蓮大聖人の仏法では、仏の生命の涌現を、「信ずる」という一点に定めている。何を信ずるかといえば、宇宙生命そのものとしての妙法だというほかはない。
 「御義口伝」には「地獄餓鬼の己己の当体其の外三千の諸法其の儘合掌向仏なり」とあります。つまり、私たち人間生命をも含めて、宇宙のすべての生命的存在は、それらが、いかなる境涯を現じていようと、そのまま仏に向かっている、との意義と解せられます。
 私たちの生命の内奥には、理性も愛も欲望も衝動もあった。権力欲や欲望の魔性なども渦巻いていました。だが、そのような生命の内容には、もう一つ、もっとも根源的なものとして、仏の生命に向かい、それを希求するという衝動を、加えねばならないのではなかろうか。いいかえれば、宇宙生命との融合を求め、生の根源に憩いたいとの衝動です。
 仏界を求めるという衝動は、生存欲のもういちだん深い層に実在すると思われます。ゆえに、たとえ、すべての人の生の深層にうずいてはいても、容易に自覚することもなく、また、ふだんは生命の魔性に覆われて、その姿をあらわにすることも、少ないのかもしれない。だが、私は、このような衝動を、あらゆる他の欲望――そのなかには、精神的欲望さえも含めるのだけれども――それらと区別する意味で、ずばり、「宗教的欲望」と呼んでみたいのです。
 川田 その宗教的欲望ですが、人間、万物におけるもっとも根底をなす欲望という意味で、本源的欲望といえないでしょうか。つまりこの欲望がなければ、生存欲さえもありえない。この欲望をはらむがゆえに、現在の私がある。まあ、こういった感じですが……。
 池田 宗教的欲望は、即、本源的なのです。だから、本源的欲望という言葉を使うならば、それでもいいが、とにかくこの欲望が、仏界への信をさしていることだけは忘れてはなるまい。そして、人間のみならず万物の生の深層に、仏界を希求する衝動を見いだし、その力を十二分に発現する道が、日蓮大聖人の仏法における実践法だといえないだろうか。
 川田 日蓮大聖人の仏法は、生命本源の欲求というか、生命のうずきみたいなもの、それにのっとっているのですね。
 池田 宗教のなかには、さまざまな欲求や良心や愛情などを発現させる方法を示しているものもある。いかなる生命内容をあらわすかで、宗教人としての境涯も規制されてくるであろうが、とにかく日蓮大聖人の仏法は、宗教的、そして本源的な欲望の追求と発現、つまり仏界涌現のうえに成立していることだけは、強調しておきたいと思う。
 さて、ここらで私たち自身のなかに仏界という生命が実在するということ、そして、人間らしい生き方とは、仏界を顕現した菩薩の道ではあるまいか、とする私たちの結論を示して、十界論を終えることにしよう。

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