Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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人間らしい生き方〈2〉 十界論をめぐって 

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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16  川田 ここで、ちょっと論議が逆転するかもしれませんが、一つの疑問があります。
 それは、二乗との関係についてですが、二乗のうちで縁覚でさえも、自己中心性はぬぐいきれなかった。そして、生命の魔性の胎動をも許してしまった。ところが、どうやら菩薩は、先ほどからの話によりますと、欲望の魔性とかエゴなどもすでに乗り越えているらしい。とすると、なぜ乗り越えられたのでしょうか。
 池田 何度も繰り返すようだが、利他の実践にある。他者を救うことは、自分の利己心への真正面からの戦いなのだよ。私たちの身体ぜんぶをぶっつけて、慈悲の行為に邁進する。身も心も、生命のすべてが、慈悲という行動の塊りみたいになっている。
 日々の生活自体が、どの一瞬をとっても、慈悲でないものはない。こうなってくると、利己心が働こうとしても、少しのチャンスもないであろう。たとえ、魔性をはらんでいても、その力は、たえず打ち破られている。と同時に、私たちの生命の奥から、利他という行動に触発されて、あらゆる生をはぐくむ、生命本源の力が、慈悲や英知のエネルギーとなって、絶え間なくわきあがってくるのです。
 このような過程を経て、私たちの、ともすれば利己的になりやすい「我」も、しだいに利他の性格をおび、それにつれて、ますます理性、良心、愛、精神的な欲望などの発動力が強まってくると思われる。
 北川 経文には、文殊師利、観音、薬王、普賢、弥勒、妙音などの菩薩が活躍しています。これらは、利他の具体的な姿を示しているのですね。
 池田 文殊師利は知恵です。薬王は医術、普賢は学理、弥勒は慈悲、そして、妙音は音楽、まあ芸術一般が入るでしょう。観音は世相、つまり、政治や経済や世の中の動きを察知する働きです。
 人によって個性も独自だし、才能にも向きとか不向きがあるからね。でも、どんな行いをしようと、そのすべてが利他の実践であることに変わりはない。このようにして、迹化の菩薩たちは、みずからの人格を磨き、生命本源のエネルギーの流出を強化しよう、とつとめたのだと思う。
 北川 しかし、迹化の菩薩の行い、仏法的にいえば修行ですが、それによって、生命の「我」の状態をすっかり変えてしまうのは、じつに大変なことではないでしょうか。ちょっと油断すれば、すぐ、利己心が顔を出す。きわめてエゴイスティックな行動に、走りがちになります。また、自分の行いが無慈悲だとわかっていながら、やめられないこともあります。むしろ、どんなに意志の強い人でも、そのほうが多いかもしれません。自分ながら、始末におえないと思うこともたびたびです。
 そこで、仏法ではどういう修行をせよ、と説いているかといいますと、たとえば別教などでは菩薩の修行を、五十二位の段階に分けています。
 その修行が、根本的には、エゴとの戦い、魔性ヘの挑戦だということは理解できるのですが、その内容をみますと、私たちにはとてもやりとおせるような自信がありません。途中で、投げだしてしまいそうです。そんなに苦労するぐらいなら、少しぐらいの不幸のほうがましだなんて……。地獄の境涯におちれば、そうもいつていられないでしょうが……。
 池田 迹化の菩薩の修行はたしかに厳しいし、また、人間形成への本格的な修行であるからには、厳しさも必要だとは思う。だが、途中でくじけては、修行の意味をなさないからね。本当の幸福も、人間らしい生き方も、実存主義の言葉を借りれば「本来的自己」の確立も、見果てぬ夢に終わってしまうでしよう。
 では、どうすればよいかというと、利他の行動によって自我を錬磨しつつ、同時に、私たちの生命の内奥から、利他におもむかざるをえないような慈悲のエネルギーをわきいだす方途を、見つけだすことです。つまり、生命の外側から働きかける行動――いいかえれば利他行だけれども――とともに、それをみごとに実らせる生命本源のエネルギーを、生の奥底から噴出させる。その両者が相まって働けば、いかなる困難があってもたじろがないし、また着実にして、主体的で、充実しきった人生を送るための、生命的基盤をも築けるでしょう。
 釈尊の仏法における迹化の菩薩に対して、いま述べたような二つの側面からの実践、すなわち、生命の内と外からの魔性への挑戦を、現実社会のなかで行おうとしている人間群像を、日蓮大聖人の仏法では、地涌の菩薩と呼んでいる。また、経文には、地涌の菩薩の主導者というか、リーダーを四人あげて、上行、無辺行、浄行、安立行と名づけている。
 「御義口伝」のなかには、この地涌の菩薩の境涯が明確に説かれているところがある。「常楽我浄」という四つの徳に配しての記述だけれども「此の四大菩薩の事を釈する時、疏の九を受けて輔正記の九に云く「経に四導師有りとは今四徳を表す上行は我を表し無辺行は常を表し浄行は浄を表し安立行は楽を表す(後略)』」とあります。
 さて、上行菩薩とは、「我を表し」とあるように、確固とした生命の「我」の確立です。環境の激変にも耐え、あらゆる困難をさえ、かえってみずからの試練のチャンスとして活用するような、まったく主体的な自我のことです。
 無辺行菩薩とは、「常を表し」とあるから、永遠の生命を信じ、そのうえに立てた目標に向かって、どこまでも挑戦していく働きを意味しています。しかもその慈悲の働きは、隣人を変え、地域を変え、日本と世界の歴史をも動かしていこう、とするふるまいを示すのです。
 つぎに浄行菩薩というのは、「浄を表し」とあるように、清らかな生命の輝きを意味するのだけれども、清らかとは、醜い利己心やエゴをまったくぬぐい去っていることをさします。エゴや増上慢の心ではなく、利他に染められた生命は、本然的な英知と理性の光を放つと思われる。
 そして安立行菩薩は、「楽を表し」とあるように、充実し楽しみきった生命の大地、つまり基盤に立脚している事実をさします。
 「観心本尊抄」に「上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩なり」とあるように、このような菩薩の境涯を、私たち自身の生命に築きあげることができるのです。
 川田 地涌の菩薩の境涯に、私たちが十界論の初めに設定した客観的な基準を適用しますと、地涌の菩薩という境涯は、真実の力強い主体性をたもち、まったく自由自在にふるまい、しかも生命はかぎりなく充実している。生命エネルギーの発動力も、また能動性も、最高の高まりをみせています。
 こうしてみますと、人間らしい生き方を求めて開始した十界論の探索もようやく、その目的を達せられそうです。ずばりいって、人間が人間らしく生きる境涯――それは、地涌の菩薩の生き方であると結論してもよさそうに思われてきました。
 池田 私も賛成です。地涌の菩薩そのものについては、ごくかんたんにふれただけだが、しかし、その具体的な行動はことごとく、利他の実践に連なっている。そして、四徳で示されているように、この菩薩の生命には欲望の魔性とか利己心などには、もはや屈服しないだけの力と知恵を無限にはらんでいることは、認められそうです。
 川田 社会や文明などに入りこんだ魔性と戦うだけの能力も、そなえています。すべての人が、四菩薩の境地を現実に体得するにつれて、血なまぐさい硝煙の臭いも、この世の中から消えていくと思われます。つまり、人類の心の中に、平和の砦が一つずつ築かれていくのでしょう。
 そこで、不思議に思うのですが、地涌の菩薩を支えるかぎりなく豊かな生命のエネルギーは、どこからわきだしてきたのでしょうか。むろん、人間生命の深部からでしょうが、私たち自身の生命にも慈悲の力を満々とたたえた泉の本源が実在する、と考えてよいのでしょうか。
 池田 経文では、地涌の菩薩は、大地より涌出したと記されている。大地とは生命の内奥であり、宇宙生命としての妙法をさします。妙法そのものが、私たちの生命のなかに、実在している。仏法では、それを仏の生命といいます。この仏の生命が現実の活動面に偉大な力をあらわすがゆえに、地涌の菩薩の行動も可能になるのだといえましょう。
 北川 つまり、地涌の菩薩は、行動面からとらえると利他に徹する菩薩の働きですが、その本質というか、生命そのものは、すでに仏の生命、いいかえれば仏界なのですね。
 池田 地涌の菩薩という生命は、迹化の菩薩とは違って、すでに仏界を顕現していると考えてよい。逆にいえば、その仏の生命が、地涌の菩薩における四徳をもたらしたのです。
 北川 では、仏の生命自体を具体的に述べると、どういうことになるのでしょうか。
 池田 そこにくると、きわめてむずかしい設問になる。「観心本尊抄」にも「但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ」とあるように、このような菩薩の境涯を、私たち自身の生命に築きあげることができるのです。
 つまり、仏界のすべてをあらわすことはきわめてむずかしいので、私たちの生命に九界の境涯がそなわっている事実から、仏界の実在をも信じてほしいとの意味です。だが、ひとまず、仏の生命を知るための一つの手がかりとして、仏法に記された「仏の十号」を取り上げてみよう。
 むろん、仏界の境地を推測することは、この生命論全体にかかわる重要なポイントとなることだが、説明不足になる個所も若干あるとは思う。それはあらかじめ了承してもらうとして、仏の十号とは、仏の生命にそなわった偉大な力とか英知とか、福徳とか慈悲力とか資格などをあらわしたものと考えていいでしょう。
 そこでまず、仏つまり仏陀とは、知者、覚者と訳す。その知恵は宇宙と生命の根本原理を悟りきわめている。つぎに、如来ともいうのだけれども、これは瞬間瞬間の仏の生命活動が、すべて宇宙生命と一体であり、融合していることをさす。つまり永遠の生命の体得ともとれる。
 北川 仏の別名のなかには、正徧知しょうへんち調御丈夫じょうごじょうぶ善逝ぜんぜい明行足みょうぎょうそくなどというのもあります。このうち正徧知というのは、等正覚ともいいますから、仏の智慧が、すべての衆生を照らすことですね。
 池田 平等ともとれるし、また、宇宙のすべてを覚知するだけの英知をそなえている、とも考えられる。
 北川 調御丈夫は原義からしますと、丈夫の力をもってすべての衆生、つまり生命的存在すべてを調伏制御する、という意味だそうですが……。
 池田 他の人々を幸福へと導くだけの力をもっている。そして利他の行為を実践するということだが、それと同時に、仏の生命は、自己の生命の変革をも成し遂げるのです。というより大丈夫の力、強烈な生命のエネルギーによって、自己の生命に食い入った魔性の働きを調伏するのだ、と表現したほうがよさそうだね。他の生命への利他の働きかけは、自己の生命変革と同時なのです。
 川田 そうしますと、次の善逝ですね。これは、もともとの意味は、煩悩を断じて仏の境涯に達することだそうですが、調御丈夫の解釈とも関連して考えますと、煩悩は断ずるのではなく、利他の方向というか、実践へと振り向けていく。つまり昇華させるとか、方向転換させていく――こういった意味あいになりますね。
 池田 煩悩の質を変える。いいかえれば昇華しつつ、利他に向ける。これが、コントロールという現代語の内容だろう。とすると、煩悩はコントロール、つまり制御ということがポイントになる。そして、明行足の明らかとは、永遠の生命を見とおす智慧だが、行足は実践です。
 北川 民衆の中に飛び込んでいって戦う、行いですね。その修行のなかで、英知も磨かれる――。
 池田 実践のまっただなかで光を増した英知は、生命についてはもちろんのこと、人生、社会、文化から政治や経済、学問、教育にいたるまで、すべてを見とおすことができる。物価がなぜこうも高くなるのだろうかとか、小学校での教育の問題点とか、また土地の価格とか、とにかくすべてにわたっての、鋭い洞察眼をもっている。だから、世間解というのです。
 川田 昔流にいいますと、下世話のこともぜんぶ知っているというのが、どうやら名君だったらしいですが、これと比較するのもどうかと思いますけれども、しかし、仏は宇宙や生命の偉大な哲理を知るとともに、世間のことにもなみなみならぬ関心をもち、しかも、だれよりも明快な答えを、用意しているのですね。また、それを、実践に移す力もある。
 池田 だから、天人師という名前もあるのです。
 川田 天人師のもとの意味からしますと、天界とか人界の衆生を指導するということですが、天とは指導者で、人とは庶民といったふうになります。
 むろん、指導者と庶民が分かれているという意味ではありません。だれでも、その境涯とか境地とかによって、指導者としての役割を果たすときもあれば、また庶民とか、大衆の一人として働くこともあります。だから、天人師というのは、すべての人をリードしていくということでしょうか。
 池田 この場合、指導するとか、師と仰がれるなどと表現していても、何も特別な状態をさしているのではないと思う。その人の人格や個性や能力が、しぜんのうちに、人々の心をとらえるという意味に解することはできないだろうか。
 北川 応供にも通じてきます。応供は応受供養と書きますが、人界と天界の衆生から供養を受ける資格がある、ということですね。
 池田 この供養を受けるとの表現も、その人の行為が、人々の賛同を集め、しぜんのうちに庶民の心に支えられるという意味でしょう。
 ゆえに、仏とは世尊なりとある。つまり、世の中でもっとも尊い人として慕われ、愛され、そして尊敬される。また、世雄ともいわれる。それは、人々を根底から慈しみ、救いきるだけの力をもっているからです。
 北川 たしかに、これだけの生命内容をそなえていれば、ただ、その人がごくふつうのふるまいをするだけで、人望を集め、社会を変え、時代をさえ動かしていくでしょう。
 池田 仏の生命を体現した人も、一見すれば、ごく平凡な常識人に見えるでしょう。誠実で、責任感が旺盛で、また、信念の人であり、友好的な態度を示し、思考が柔軟で、慈悲と英知と創造性に富んでいる。
 また、「観心本尊抄」に「堯舜等の聖人の如きは万民に於て偏頗無し人界の仏界の一分なり」と記されているように、すべての人々を平等に包容していくことも、必須条件の一つです。
 川田 ちょっと考えますと、人界の境涯に似ていますね。
 池田 もっとも人間らしい人間の姿だからです。だが、平凡な常識人として本当に生きぬこうとすれば、やさしいようで、きわめてむずかしい人生道です。たとえば、平等という一点だけでも、よほどの知恵と慈愛と主体性がなければ、決してつらぬけることではないでしょう。
 川田 ふつうの人なら、すぐに、えこひいきします。顔の形が気にいらないとか、趣味があわないとか、なんとなく好きになれないといった、ごく、つまらないことで……。
 池田 それは、心が硬直しきっている証拠です。肉体でたとえると、動脈硬化でしょうが、むろん年齢との関係はない。生命の動脈硬化を起こしてしまって、柔軟性にまったく欠けているようだね。
 川田 仏界の境涯にある人の生命を、表面から見ますと、しごく平凡でありながら、しかもその行動が、そのまま地涌の菩薩の働きになっているのですね。
 池田 地涌の菩薩としての利他の行いを、仏の生命が支えているのです。宇宙と生命の源流に達し、世の中の推移、メカニズムをも含めて、あらゆる生命活動の様相と、その根源の法理を悟った境涯だからです。
 すべてを悟り、宇宙をさえ動かす生命のエネルギ―を体得しているのだから、生命流はかぎりなく充実し、また生命のもつ自由も、宇宙全体にまでおよぶことも可能だと思う。
 北川 仏界を顕現した生命ですね。むろん行動面からすると、菩薩の働きですが、その人の生命感は、人天の境涯や二乗や迹化の菩薩とはくらべものにならないほど深い、生命全体の、いわば喜びみたいなもの……。
 池田 歓喜のなかの大歓喜です。生命の底の底から、地響きを立ててわきあがってくる、どうしようもない歓喜――とでも表現しておこうか。この世の中に生きていること、それ自体が歓びなのです。
 自然も大地も、草も木も、人の顔もその動きも、すべてが、歓びの色に染められている。そして、一つの呼吸、一挙手一投足が、歓びと感謝と生の尊厳感の源泉をなしている。生老病死が、そのまま歓びに化すといった境地ではないだろうか。
 この知恵の光は、宇宙をあまねく照らし、「元品の無明」つまり、生命の魔性の当体を打ち破っていく。仏の生命空間は、宇宙そのものと融合し、一体なのです。「宇宙即我」の体得だと思う。また、その生命流は、一瞬のうちに、無限の過去と未来へとおよんでいく。とまったく同時に、現在の瞬間の生に、永遠に流れゆく宇宙生命の潮流が、巨大な噴水と化してわきあがってくる。こうして、仏の生命は、現実に、瞬間を永遠に生きるのです。
 北川 たとえ、瞬間の生であっても、そのなかに宇宙大の生命力を秘めているということでしょうか。
 池田 「宇宙即我」の法理からいくと、大宇宙根源の力が、そのまま、仏の生命に凝縮しているといえよう。また、時間論からいくと、永遠の宇宙流転をもはらんでいる。したがって、仏の境涯にある生命は、瞬間に永遠を感じ、また、永遠も瞬間の生のように実感するのでしょう。
 これを、日常的に表現すると、歓喜に満ちた時間は、考えられないほど速く過ぎていく。物理的時間の経過を、ほとんど意識することもないのではなかろうか。それでいて、一瞬の生が、もう永遠に近いほど生きる歓びを享受した、という充実感と満足感にひたりきれるのではないかと思う。
17  北川 いままでのところで、仏の生命の様相が、ほぼわかりかけてきたような気がします。そして、時間的にも、空間的にも、宇宙生命と一体化し、融けあった仏の生命が、私自身の生命にも実在している、という事実も知りました。
 だが、それを現実の私たちの生命活動の源泉にしなければ、ただ実在するというだけでは、私たちは人間らしい人生を送ることはとうてい望みえません。迹化の菩薩などは、利他の行動をとおしての自我の錬磨によって、仏の生命のもつ偉大な力をひきだそうとしましたが、その修行はきわめて困難でもあり、また、現代の世相にも適応しない面もあります。
 このことは、先ほど話しあいましたが、仏の生命を外からではなく、直載に、生の内奥からわきいだす方途とは、いったいどのようなものでしょうか。つまり、仏界顕現の鍵ですが……。
 池田 鍵といっていいかどうかはわからないが、日蓮大聖人の仏法では、仏の生命の涌現を、「信ずる」という一点に定めている。何を信ずるかといえば、宇宙生命そのものとしての妙法だというほかはない。
 「御義口伝」には「地獄餓鬼の己己の当体其の外三千の諸法其の儘合掌向仏なり」とあります。つまり、私たち人間生命をも含めて、宇宙のすべての生命的存在は、それらが、いかなる境涯を現じていようと、そのまま仏に向かっている、との意義と解せられます。
 私たちの生命の内奥には、理性も愛も欲望も衝動もあった。権力欲や欲望の魔性なども渦巻いていました。だが、そのような生命の内容には、もう一つ、もっとも根源的なものとして、仏の生命に向かい、それを希求するという衝動を、加えねばならないのではなかろうか。いいかえれば、宇宙生命との融合を求め、生の根源に憩いたいとの衝動です。
 仏界を求めるという衝動は、生存欲のもういちだん深い層に実在すると思われます。ゆえに、たとえ、すべての人の生の深層にうずいてはいても、容易に自覚することもなく、また、ふだんは生命の魔性に覆われて、その姿をあらわにすることも、少ないのかもしれない。だが、私は、このような衝動を、あらゆる他の欲望――そのなかには、精神的欲望さえも含めるのだけれども――それらと区別する意味で、ずばり、「宗教的欲望」と呼んでみたいのです。
 川田 その宗教的欲望ですが、人間、万物におけるもっとも根底をなす欲望という意味で、本源的欲望といえないでしょうか。つまりこの欲望がなければ、生存欲さえもありえない。この欲望をはらむがゆえに、現在の私がある。まあ、こういった感じですが……。
 池田 宗教的欲望は、即、本源的なのです。だから、本源的欲望という言葉を使うならば、それでもいいが、とにかくこの欲望が、仏界への信をさしていることだけは忘れてはなるまい。そして、人間のみならず万物の生の深層に、仏界を希求する衝動を見いだし、その力を十二分に発現する道が、日蓮大聖人の仏法における実践法だといえないだろうか。
 川田 日蓮大聖人の仏法は、生命本源の欲求というか、生命のうずきみたいなもの、それにのっとっているのですね。
 池田 宗教のなかには、さまざまな欲求や良心や愛情などを発現させる方法を示しているものもある。いかなる生命内容をあらわすかで、宗教人としての境涯も規制されてくるであろうが、とにかく日蓮大聖人の仏法は、宗教的、そして本源的な欲望の追求と発現、つまり仏界涌現のうえに成立していることだけは、強調しておきたいと思う。
 さて、ここらで私たち自身のなかに仏界という生命が実在するということ、そして、人間らしい生き方とは、仏界を顕現した菩薩の道ではあるまいか、とする私たちの結論を示して、十界論を終えることにしよう。

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