Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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人間らしい生き方〈1〉 十界論をめぐって 

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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22  川田 生命が充実するから、寿命も延びるのですね。この寿命もとうぜん、生命的時間で測定したものだと考えられますが――。
 池田 たとえば、先ほども述べたように、人界では、生命の時間感覚は、物理的時間の速度に、ほぼ一致している。人界の平静な生命は、地球の一回転をほば、そのまま一日と感じることができる。それより、速くもなければ、遅くもない。ところが、天界の「我」は、物理的時間が瞬時に去っていくように感じるのだね。だがその間の出来事を思い返してみると、ずっと長い時間生きてきたように感じられる。
 これが、時間のもつパラドックス(逆説)とでもいえようが、どうしてこういうことが起きるかといえば、それは、生命の発動力と能動性が高まっているからです。そこで、具体的に考えると、天界での一日の生命体験には、人界における数百年にもあたる内容が含まれている。したがって、天界の「我」の寿命も、物理的時間では百歳ぐらいでも、生命的時間で測ると、千歳にも一万歳にもなりうると考えられる。
 川田 最後に、天界の住所についてですが、「三重秘伝抄」には「天は宮殿に依って住し」(六巻抄16㌻)とあります。天界が「官殿」に住するというのは、めぐまれた環境にあるということをあらわしているのでしょうか。
 池田 生命論からいうと、人間的自我の営みに、もっとも良好な環境を与えられている事実をさしているのではなかろうか。「依正不二」の原理からすると、生命流の流出をいささかもさまたげることのない環境、依報を「宮殿」という。そのなかで、人間の生は、あらゆる欲望を満足させ、理性と良心と愛情に満ちたりた営みを享受することができよう。
 しかし、依報としての天界の「官殿」は、たやすく崩れ去ってしまいがちである。同時に天界の「我」は、三悪道や修羅界へと転落していくでしょう。天界は「五衰をうく」といわれるとおりだと思う。
 こうして考えてくると、天界という境涯は、人間の生にとって、まことに望ましい境地のように思われるであろうが、天界の「我」を支える「宮殿」にしても永久の実在ではない。では、なぜ「宮殿」は夢のごとく消え去り、自我の苦しみが始まるのか、といった点の深い思索から、人と天の世界を超えた、新しい境涯の確立への道が開けるのだと思う。
 仏法では、そのような境涯を、天界までの世界、つまり六道と区別する意味で、四聖と定義しているのだが、今回は、このあたりでいちおう話を打ち切っておこう。

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