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日蓮大聖人・池田大作

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人間らしい生き方〈1〉 十界論をめぐって 

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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21  北川 そうしますと、天界のなかの欲界の喜びというのは、たとえば、おいしいものが食べられた場合などの感覚ですね。
 池田 それと、本能的欲望だけではなく、支配欲、名誉欲、所有欲などが満たされたときも、天界の喜びをもたらすといえよう。これらが、欲界での喜びだね。
 次に、色界の喜びだが、これは肉体活動に関する喜びだと思う。つまり、肉体の織りなす生のリズムがじつに快調で、生命の力がみなぎっているときの生命感だね。
 この喜びは、欲望が充足した場合の生命感情よりもいちだんと深いようです。健康で、生きいきした肉体の営みは、生の奥からわきあがる身体流が旺盛であることを示している。身体の流れは、環境とよく適合しながら、その流れをさえぎられることもなく、たくましい生命をたえず創造していく。その創造の働きが、人間的自我に深い喜びを与えるのでしよう。
 北川 すると、無色界の喜びというのは、精神流の営みにともなう実感でしょうか。
 池田 精神流といってもいいし、心的エネルギーの流れともいえます。無色界の喜びには、その深さとか質とかは別にして、いちおう生命充実の喜びとか自由拡大の喜びとか、自己実現と創造の喜びなどが入るのだろうね。
 川田 欲界や色界での喜びもそうですが、とくに無色界では、生命は非常に充実していますね。
 池田 四悪趣や人界などとくらべると、生命はたしかに充実している。その証拠に、経文では、天界の一日は、人界での何百年、また、それ以上にも相当すると説いている。また、天界の寿命は非常に長いと記されている。
 北川 たとえば、四天王は、人の五十歳を一昼夜として、五百歳の寿命をもち、忉利天は人の百歳を一昼夜として一千歳にもおよぶとあります。他化自在天あたりになるともっと長いですね。これを物理的時間だとすると、ちょっと常識では考えられません。
 池田 生命的時間を使っての表現だ、と考えるとよくわかる。天界での生命流の速度は速く、また、積極的に外界へと働きかけていくでしょう。そのとき、生命の「我」は、物理的時間が、飛ぶように過ぎ去っていくように感じるものだ。
 つまり、楽しいとき、生命が充実しているときには、同じ物理的時間であっても、そのなかに多くの生命的時間の単位を含んでいるからです。だから、天界の一日における生命の充実度は、人界での数百年にも相当するといえるのだと思う。
22  川田 生命が充実するから、寿命も延びるのですね。この寿命もとうぜん、生命的時間で測定したものだと考えられますが――。
 池田 たとえば、先ほども述べたように、人界では、生命の時間感覚は、物理的時間の速度に、ほぼ一致している。人界の平静な生命は、地球の一回転をほば、そのまま一日と感じることができる。それより、速くもなければ、遅くもない。ところが、天界の「我」は、物理的時間が瞬時に去っていくように感じるのだね。だがその間の出来事を思い返してみると、ずっと長い時間生きてきたように感じられる。
 これが、時間のもつパラドックス(逆説)とでもいえようが、どうしてこういうことが起きるかといえば、それは、生命の発動力と能動性が高まっているからです。そこで、具体的に考えると、天界での一日の生命体験には、人界における数百年にもあたる内容が含まれている。したがって、天界の「我」の寿命も、物理的時間では百歳ぐらいでも、生命的時間で測ると、千歳にも一万歳にもなりうると考えられる。
 川田 最後に、天界の住所についてですが、「三重秘伝抄」には「天は宮殿に依って住し」(六巻抄16㌻)とあります。天界が「官殿」に住するというのは、めぐまれた環境にあるということをあらわしているのでしょうか。
 池田 生命論からいうと、人間的自我の営みに、もっとも良好な環境を与えられている事実をさしているのではなかろうか。「依正不二」の原理からすると、生命流の流出をいささかもさまたげることのない環境、依報を「宮殿」という。そのなかで、人間の生は、あらゆる欲望を満足させ、理性と良心と愛情に満ちたりた営みを享受することができよう。
 しかし、依報としての天界の「官殿」は、たやすく崩れ去ってしまいがちである。同時に天界の「我」は、三悪道や修羅界へと転落していくでしょう。天界は「五衰をうく」といわれるとおりだと思う。
 こうして考えてくると、天界という境涯は、人間の生にとって、まことに望ましい境地のように思われるであろうが、天界の「我」を支える「宮殿」にしても永久の実在ではない。では、なぜ「宮殿」は夢のごとく消え去り、自我の苦しみが始まるのか、といった点の深い思索から、人と天の世界を超えた、新しい境涯の確立への道が開けるのだと思う。
 仏法では、そのような境涯を、天界までの世界、つまり六道と区別する意味で、四聖と定義しているのだが、今回は、このあたりでいちおう話を打ち切っておこう。

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