Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

終論 法華経は師弟不二の経典

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
2  「増上慢」との戦いが法華経
 須田 勧持品(ユング第十三章)の「三類の強敵」には、すべて「増上慢」と付いています。(俗衆増上慢、道門増上慢、僣聖増上慢)
 「増上慢」こそ「法華経の敵」ということだと思います。
 とくに僣聖増上慢は、人々から聖人のように尊敬されながら、内面は悪心に満ち、「人間を軽賎する者」と呼ばれています。
 遠藤 日顕宗ですね。経文通りです。
 法華経は「人間を尊敬する」仏の心と、「人間を軽視する」魔の心との戦いです。「第六天の魔王」との戦いが、法華経であると思います。
 池田 その通りだ。その戦いを「師弟一体」で断行していくとき、はじめて、わが身の上に「仏界」が涌現する。「妙法蓮華」の花が咲いていくのです。
 「妙」は師匠、「法」は弟子。一体です。「蓮華」は因果倶時を表す。因は九界で弟子、果は仏界で師。師弟不二です。妙法も蓮華も「師弟不二」を表しているのです。それが妙法蓮華経(法華経)です。この妙法を広宣流布していく「信心」を指して「仏界」という。
 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり(中略)此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」の仰せを、かみしめなければならない。
 (この御本尊は、まったくよそに求めてはなりません。ただ、私たち衆生が、法華経を信受し、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしゃるのです。〈中略〉この御本尊も、ただ『信心』の二字に収まっているのです)
 「信心」とは「実行」です。「戦い」です。戸田先生も、最後の最後まで、「広宣流布」へ、命を燃やされた。牧口先生も、そうであった。世界的大学者で、大人格者の牧口先生が「獄死」ですよ。日本の権力に殺されたのです。
 牧口先生は入獄される年(昭和十八年〈一九四三年〉)、「今こそ国難を救うべき時だ」と叫ばれ、春ごろから学生に「立正安国論」の講義を始められた。その年の七月六日に投獄です。
 それまで「牧口先生」「牧口先生」と言っていた弟子たちが、手のひらを返したように「牧口の野郎」とか「牧口のせいで」とか罵倒した。人の心は、恐ろしい。
 その反対に、戸田先生だけは「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」と感謝しておられた。天地雲泥です。
 牧口先生は、投獄の翌年十一月に逝去された。「安国論」を身で読まれての獄死です。
3  獄中で「思い出した」──戸田先生
 池田 そして不二の弟子・戸田先生は、同じ獄中で「法華経」を読まれ、その真髄を覚知されたのです。それは「仏」とは、宇宙に遍満する「大生命」のことであり、久遠の昔から常に、この世界に「永遠の命」として働き続けている──自分もその「永遠の大生命」の子どもであり、仏子であるという自覚です。
 「生命」についての、この悟達は、今後、人類の探究が進めば進むほど、正しさと偉大さが証明されていくに違いない。もう、すでに、そういう時代に入りつつある。
 戸田先生はよく、「勉強したんじゃない、思い出したんだ」と言われていた。獄中でのご苦労のため、先生の目は極度の近眼になっていた。御書を読まれるときなど、眼鏡をはずして、目を細め、鼻をすりつけるようにして読んでおられた。「私は目がこんなだし、みんなのように御書を読んではいないよ。大聖人様の仏法は、思い出すのだ」と言っておられた。
 仏法の質問を受けられて、先生は「私は、こう思う」と言われ、「大聖人様も、きっと、そう教えておられるはずだ。どこかにあるはずだ」と言われる。調べてみると「御義口伝」などに、ちゃんと出ている。
 「分からないところを思索していると、ふうっと分かることが、たびたびあった」とも言われていた。
 戸田先生の悟りも「師弟不二」の悟りです。久遠以来、日蓮大聖人の弟子として、一体で活躍してきた、その事実を「思い出した」のです。これが分かれば、何で命が惜しかろうか。
 ただただ感謝して、広宣流布へ向かうはずです。永遠に広宣流布へ「向かっていく」──その「信心」以外に、末法の悟りもなければ、仏界もない。
 これが戸田先生の教えです。
4  本因妙の仏法は「希望の仏法」
 斉藤 向かい続ける──というのが「本因妙」ですね。
 池田 今が「久遠元初」なのです。今が「始まり」なのです。
 過去は、もうない。未来も、まだない。あるのは、この現在という瞬間だけです。その現在も、あっという間に過去になっていく。有ると言えば有るし、無いと言えば無い。空です。空の状態で、生命は瞬間瞬間、連続していく。「瞬間」以外に、生命の実在はない。瞬間に幸福を惑じたり、不幸を惑じたりしているのです。
 この瞬間の生命を、過去からの因果の「結果」と見たら「本果妙」の考え方になる。ああなって、こうなったから、今、こうなんだ、と。しかし、それだけでは「希望」は生まれない。この瞬間の生命を、未来の結果をつくる「原因」と見るのです。その原因も、生命の奥底に達した「本因」です。表相の原因ではない。
 タテに、根を久遠の生命まで下ろし、ヨコに、法界に徹した「本因」です。それが「南無妙法蓮華経」です。宇宙の一切を動かし、生々発展させている「永遠の大生命」であり、大法則です。ゆえに、御本尊を信じ、妙法を唱え、行ずるとき、その時はいつも「久遠元初」なのです。
 久遠の清らかな、「はたらかさず・つくろわず・もとの儘」(御書七五九ページ)の大生命力がわいてくる。現在も未来も、自由自在になっていく。日蓮仏法は「希望の仏法」なのです。
 法華経の文底に、この御本尊がしまわれているから、法華経は尊いのです。その一点を忘れたら、何にもならない。
 斉藤 いつも「久遠元初」であり、いつも「さあ、これから!」なのですね。
 池田 それが本因妙の仏法の「信心」です。信心とは無限の希望です。たとえ状況がどんなに悪かろうと、すべて負け戦のように見えたとしても、その中から「何くそ!」と思って立ち上がり、妙法の無限の可能性を実証していくのです。それが、信仰の本義ではないだろうか。無から有を生み出していくような、生死をかけた戦いなくして、本当の「信心」はわからない。損を得に、悪を善に、醜を美に変えていく──価値創造の壮絶な戦いが、「創価」の心です。それが「信心」です。
 「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり」です。
 (億劫という、きわめて長遠の時にわたって尽くすべき辛労を、今の一念に尽くして〈広宣流布に戦って〉いくならば、もともと自分の身に備わっている無作三身の仏の生命が、瞬間瞬間に起こってくるのである)
 ちょっと状況が悪くなったくらいで、へこたれたりだれかを批判して、自分を防御しようとしたり、そんな卑怯な人間になってはならない。状況が悪ければ悪いほど、団結していくのが、まことの同志です。
 かりに何ひとつ報いがなかろうとも、広宣流布に、民衆の幸福の犠牲になる覚悟で、殉じていく。それが「信心』です。
 この地球上に、妙法を広宣流布している団体は創価学会しかない。この尊き学会を守り抜くことだ。それ以外に、人類の光はないからです。
5  「創価学会の大いなる使命」
 須田 アイトマートフさん(キルギス出身のロシアの文豪)が、昨年(一九九八年)、沖縄で講演された時、こんな風に言われたそうです。
 「人間主義という言葉は、非常に大事な言葉です。これまでの時代で一つの民族だけを結びつける、団結させる思想というのはありました。しかし、友情をもって、民族同士に心を開いていく、そうして心のつながりを築いていくというような団結は、これまでにない全く新しい団結の心です。
 そういった団結が実現するためには、究極の、非常に崇高な思想がなければ、なりません。その崇高な思想は時代が生んだ偉大な人物が広めていかなくてはなりません。そして、池田大作氏と長年にわたってお付き合いをさせていただくなかで、この人こそ、その偉大な思想を広める偉大な人物である、と私は確信いたします」
 「私が二十世紀をどういう時代であったかと問われたならぱ、恐ろしい残酷な『戦争の世紀』であったと言いたいと思います。
 また、ある人は共産主義の誕生と崩壊というかもしれません。また、ある人は西側が生んだ『大衆文化の時代』であったというかもしれません。つまり、二十世紀とは、『西洋化の時代』であったという人もあるでしょう。
 そして二十世紀を総括しつつ、それらの諸特徴のすべてを超えた存在として、つまりイデオロギー、政治を超えたものとして、この『創価学会の運動』をあげたいと思います。創価学会は二十世紀に生まれ、あらゆる試練、苦難を乗り越えて、また、前進を遂げて発展をしてきました。そのおかげで私たちは新しい世界観を見つけることができました。皆さんは、本当に誇りを持っていただきたいと思います。
 今、全体の傾向として、グローバル(地球)化が進んでいます。それは経済においても、技術の分野でも、通信の分野でもそうです。しかし、それに加えて『精神のグローバル化』がなければ、人類の未来はないと思います。二十一世紀がグローバル化の時代であり、それこそが本当の進歩であると考えるならば、創価学会の皆さんは二十一世紀に向けて、大変、大きな使命を持っておられるのです」
 「もしも、青年が将来に向かって人間主義の理念に触れ、人間主義を標榜する人たちに接していくならば、人類はさらに前進を続けていくことができる。二十一世紀も『人類の進歩の世紀』となる、そういった希望を私は持っています。
 最後に、私が創価学会に対して思っていることを申し上げたいと思います。創価学会の人たちは自由であるとともに、創価学会の理念を実現しようとし、それを信じておられます。普通宗教の教義というのは、どこかで人間の内面世界を限定してしまいます。
 その限定されるところが、創価学会には全くない。一人一人が全く一個の人格として自由でありながら、なおかつ共通の一つの思想を信奉している。このようなすばらしい現象を私は世界でまだ見たことがありません」
 「地球というのは、未来の私たちの子孫に渡さなければならない遺産であります。これ以上、地球上で戦争やそのほかの紛争、対立など、破壊的なことを人間がやってはならないということです。二十世紀が終わり、二十一世紀を前にした今、人間の理性が、宇宙的な規模を持ちつつあります。つまり、人間が宇宙的な思考、宇宙的な自覚を持つ時代に入ったということです。海も山も平野も土も空気も、みんな人間が責任を持って守っていかなくてはいけません」(「聖教新聞」一九九八年十一月二十五日付)
6  「不軽」の実践に徹せよ
 遠藤 明快ですね。この連載の冒頭で「宇宙的ヒューマニズム」を論じていただきましたが、本当に時代は、その方向に向かわざるを得ないと思います。
 池田 宇宙から地球を見たら、この美しき星を二百近くもの「国家」に分断して、いがみ合っているのが、どんなに愚かなことかわかるでしょう。
 人間は、日本人である前に、アメリカ人である前に、ロシア人である前に、人間です。その当然のことがわからなければ、二十一世紀は暗い。動物的な、暴力の世紀になってしまう危険性がある。
 人間が人間らしく、助け合って生きていく社会、人間が人間らしく幸福に生きていく平和を追求しなければならない。その根本が、法華経の真髄である日蓮仏法の「不軽の精神」です。「一人の人を徹底的に大切にしていく」哲学です。このことは何度も言ってきた。しかし大事なことは、具体的な「実行」です。
 一人の青年でもいい、一人のお年寄りでもいい。ともかく、その人のもとへ飛びこんで、徹底的な愛情を注いでいくことだ。中途半端や無責任は、仏法にはない。それでは、尊い「如来の使い」の仕事を、「世間」の低い次元に変質させてしまう。
 「だれかがやるだろう」「何とかなるだろう」という無責任は、信心にはない。そこには、本当の喜びはない。生々世々、侮いが残るだけです。創価学会は、現実に、「一人の人を幸福にする」苦闘を重ねてきたから偉大なのです。
 須田 亡くなった、フランスのルネ・ユイグ氏(=美学の大思想家。池田名誉会長と対談集『闇は暁を求めて』〈本全集第五巻収録〉を発刊)は物質至上主義の現在は、人類にとって最低の事態であると言わざるを得ないと憂えておられました。そして今こそ精神文明を呼び起こすべきである。人類と世界の危機を救えるのは、生命次元の哲学をもち、人間精神を正常な軌道に乗せるための実践を展開している池田会長とSGIしかない、と言っておられたそうです。
7  「差別する」一切と戦う、人間は、どこまでも人間!
 池田 ともあれ、どんなきらびやかな言葉も、民衆の現実の苦しみに背を向けたのでは、偽善にすぎない。自分が「高い所」にいて、安穏に暮らしているだけなら、もう仏法は死んでいる。
 法華経の真髄を弘めるために出現された大聖人が、あえて社会的に最も「低い所」にお生まれになり、御自身を「旃陀羅が子」と宣言なされた深義を、かみしめなければならない。大聖人は、あえて、一番苦しんでいる民衆の中に生まれ、「差別される側」に生まれて、大迫害を受けながら、「差別する人間」たちとの人権闘争を展開されたのです。この戦いこそが法華経なのです。
 須田 比叡山で学ばれたのですから、経歴としては、いわば当時のエリートコースです。故郷の寺院で安穏に暮らそうと思われたら、むずかしいことではなかったと思います。しかし、あえて大聖人は安穏な人生を捨てられました。
 池田 次元は達うが、「自分を低い所におく」ということで思い出すのは、パール・バック女史(ノーベル文学賞受賞者)の著書『母よ嘆くなかれ』(伊藤隆二訳、法政大学出版局。以下、引用は同書から)です。
 知的障害者として生まれた娘さんを抱えて、苦闘した軌跡を、ありのままに綴ったものです。どれほど心がずたずたになり、どれほど絶望と希望の間で心が揺れたことか──。
 彼女が、一人娘のためにふさわしい施設(学園)を探していた時のことです。彼女が直面したのは、障害をもった子どもたちを世話する人たちが「この子どもたちもまた人間である」ことを理解していないという事実だったという。
 「この、知能の発達が困難な子どもたちは人間であり人間としての苦しみ──自分ではよくわからない深い深い苦しみを味わっているのです。人間はどんなことがあっても、単に動物ではないのです」「このことだけは絶対に忘れてはならない、とわたしは思います。人間は永遠に獣以上のものなのです。たとえ知能の発達が困難で、ことばを話せず、そして人との意思の疎通にこと欠くことがあるにしても、人間としての本質はあるのです。あくまでも人間は人類家族に所属しているのです」。
 肺腑をえぐるような言葉です。
8  「まず第一に幸福を。すべてのことは幸福から」
 池田 やがてパール・バックさんは、娘を託せる学園を見つけた。そこの園長先生は「まず第一に幸福を。すべてのことは幸福から」を、モットーにしていた。
 「そのことばは決して感傷ではないのです。長い経験から生まれたものなのです。子どもの魂と精神が不幸から解放されない限り、わたしたちはなに一つ子どもたちに教えることができないのだ、ということをわたしは経験から学んだのです。幸福な子どもだけが、学ぶことができるのです」
 牧口先生の「教育の目的は、生徒の幸福」との哲学にも通じる。
 ともあれ、パール・バックさんは、「自分の娘からたくさんのことを学ぴました」と言う。「人はすべて人間として平等であること、また人はみな人間として同じ権利をもっていることをはっきり教えてくれたのは、他ならぬわたしの娘でした。(中略)もしわたしがこのことを学ぶ機会を得られなかったならば、わたしほきっと自分より能力の低い人に我慢できない、あの傲慢な態度をもちつづけていたにちがいありません。娘はわたしに『自分を低くすること』を教えてくれたのです」。
 「自分を低くすること」──すばらしい言葉だ。今は、「他人を低くすること」しか考えない世の中になっている。他人のあら探しに狂奔し、少しでも貶めようと躍起になっている。嫉妬社会です。
 遠藤 パール・バックさんは、文学者であるとともに、平和運動家としても知られています。「人間の内なる尊厳」に目覚めた人は、それを他の人に訴えずにはいられないものなのですね。
 池田 その通りです。彼女は、「自分を低くする」指導者でなければ人を幸福に導くことはできないと知った。
 「指導者とは、生来親切で、愛情深く、直接手をくださなくても、子どもたちに好かれながら子どもたちに規律を教えることのできる人でなくてはなりません。その人が、高等教育を受けているか否かは、重要なことではないのです。子どもの下に立つ人(子どもを本当に理解する人)でなければならないのです。なぜかというと、その人の毎日のつとめは子どもに奉仕することなのですから」
 これは教育だけでなく、すべての指導者に言えるのではないだろうか。
 「子どもの下に立つ」人であって、はじめて「子どもの心がわかる」し、導くこともできるのです。
 斉藤 感動的な話です。「万人が仏」と説く法華経の「行者(実践者)」が、だれよりも「低い」、「施陀羅が子」として出現なされたことも、考えれば考えるほど深い意義があると思います。
 池田 永遠に「民衆の一人として」「民衆とともに」「民衆のために」生きるのです。その心を忘れて、将来、もしか自分は特別に皆より偉いと思うような指導者が出たら、皆で追放していきなさい。
9  「地涌の菩薩」は「永遠の行動者」
 池田 ともあれ、「万人が仏である」というのは口先ではない。「万人を仏にする」広宣流布の戦いがなければ「理」です。本門は「事」です。事とは「行動」です。
 先ほど迹門で「師弟不二」が説かれていることを見たが、本門は本格的に、事実のうえで「師弟不二」の実践者が登場してくる。それが「地涌の菩薩」です。
 須田 はい。本門は、無数の「地涌の菩薩」の出現で幕を開けます。「地涌の菩薩」とは、内証は「仏」です。
 池田 内証が仏なのだから、釈尊と「師弟不二」です。しかも、仏でありながら、弟子の「修行」の立場を貫いている。菩薩仏です。永遠に前へ前へ、広宣流布へ「向かっていく」──本因妙の仏法の象徴です。
 大聖人が御自身を「法華経の行者」と呼ばれたことが大事なのです。
 遠藤 大聖人は釈尊のことも「法華経の行者」と呼んでおられます。(御書九六六ページ)
 斉藤 「行動者」ですね。本果ではない。「もう、これでいい」とは言わない。
 池田 さあ、そこで、大聖人は、御自身が「法華経の行者」かどうかを厳しく検証されていく。それは大迫害のまっただ中であった。
 須田 佐渡流罪の時ですね。
 遠藤 この時も「千が九百九十九人」退転してしまいました。門下の疑いは、「法華経の信心をすれば現世安穏であると言われたのに、難が続くのはおかしいではないか」「大聖人に諸天の加護がないのは、大聖人が法華経の行者ではないからではないか」などでした。
 池田 その疑問を打ち破るために、大聖人は、佐渡に着いてすぐに開目抄の御執筆に着手される。そこでは大聖人がなぜ難に遭うのか、理由を明快に示されている。そのうえで、大聖人の大境涯が拝されるのは、理由を挙げられた直後のお言葉です。
 斉藤 有名な「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」の御文ですね。
 (続いて「身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」)
10  法華経の「魂」を生きる
 池田 門下の疑いを解くために、いろいろ語ったけれども、大聖人のお心から言えば、諸天の加護があるとかないとか、そんなことは問題ではない、と。
 ひたすら身命をなげうって妙法を弘通していく。日本国の位を譲ろうという「誘惑」にも、父母の頭を刎ねるという「脅迫」にも、断じて屈しない──。一切衆生を救うという「誓い」は絶対に破らない、と。
 日寛上人は「一たびこの文を拝せば涙数々降る。後代の弟子等、当に心腑に染むべきなり」(文段集二〇五ページ)と言われています。
 斉藤 それまでは、「法華経の経文に照らして」、御自身が法華経の行者か否かを、極限まで検証しておられた。そのうえで、ここで大きく転換なされているわけですね。
 池田 そう。「広宣流布」という法華経の「魂」を生きる御自身のお立場を、鮮明に宣言されている。
 経文に照らして正当か否か、ではない。反対に、法華経に正当性を与えている──いわば法華経の「魂」となるものを示してくださっているのです。それは、自分がどうなろうが、何があろうが、民衆救済はやりとげるのだという「心」です。
 遠藤 法華経を「基準」として、御自身を規定される立場から、逆に、人類を救いきるとの御自身の誓願を「基準」として、法華経を使っていく立場への転換ですね。
 斉藤 私は、この御文こそ、古今東西で最も深い「法華経論」だと思います。絶対に軽々に読んではならない、と思います。また「日蓮と同意」の広布への戦いがなければ、読めるはずもありません。日顕宗には、絶対に読めません。
11  妙法の流れは「大風」のごとく
 池田 「広宣流布」こそが法華経の魂であり、「南無妙法蓮華経」という大生命のリズムなのです。人類の境涯を仏界にまで引き上げる戦いです。
 とどめようと思っても、時は止まらない。冬は必ず春となる。人類も必ず、生命の本源の妙法の方向へ、仏界の方向へ向かっていく。その推進を担える私たちは、人間として最高の名誉です。
 大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは大風の吹くが如くなり」と仰せだ。風は見えない。しかし、だれも風は止められない。風は、たとえビルにぶつかっても、すき間をぬって向こうに出ていく。水も、たとえ障害物があろうと、すき間をぬって流れていく。
 南無妙法蓮華経の「大風」は、だれが止めようとしても止まらない。必ず人類は、自分が大宇宙と一体であるという真理に目ざめていきます。
 個人で言えば、題目を唱え抜いていく人は、帆に大風を受けたように、必ず人生航路を所願満足の軌道へと乗せていける。信心が弱いのは。″弱い風″です。信心が強ければ。″大いなる風″が起こるのです。全部、一念で決まる。
 大聖人は、生きて帰れないといわれた佐渡に流され、最低の状況のなかで、それでも「自分を迫害した日本の人たちを救ってあげよう」「人類を救ってあげよう」と立ち上がっておられる。これが「仏界」です。これが「法華経の魂」です。
 御本尊は、この御本仏の「日蓮が魂」をしたためられたのです。この大慈大悲が「南無妙法蓮華経」という「久遠の大生命」の脈動なのです。
12  「アヘン」でない宗教
 池田 マルクスは「宗教はアヘンである」と論じた。たしかに「アヘンとしての宗教」はある。
 それは権力悪の″手先″となって、民衆を現状に満足させ、死後の幸せだけを願わせるような「魂を眠らせる宗教」です。民衆を愚かなままにしておこうという宗教です。
 しかし、すべての宗教が「アヘン」なのではない。民衆を「目ざめさせる」ために、いかなる権力にも屈服しない宗教、人間らしく、自由に生きるためには、命をかけて圧迫と戦う宗教もある。
 それが「法華経」です。それが「二十一世紀の宗教」です。
 須田 民衆を「目ざめさせる」──閉じている生命の「法の華」を一人一人の上に咲かせていくのが「法華経」ということでしょうか。
 池田 仏界の開花です。自分が最高に尊貴な存在と目覚めさせるのです。「ブッダ」というのも、もともと「開く」「目覚める」という意味です。
 須田 はい。「ブッドゥ」という動詞から来ています。「ブッドゥ」というのは、目がさめたり、つぼみが開くことをいいます。ブッダは「目が覚めた人」のことであり、蓮華の花が「開いた」生命のことを言います。
 池田 法華──「法の華」は、「人間」の中に咲く。「人格」の中に咲く。どこまでも「人間のための宗教」が法華経です。
 一人の人間を「幸福」にするために宗教はあるのです。しかし、人間を幸せにするためにあったものが、反対に、人間を縛り始める。
 法華経でさえ、悪しく利用すれば、「差別」を正当化するための「権威」として使われてしまう。その「転倒」の危険に打ち勝つには、何が必要か。それが「師弟」なのです。「断じて、人を救いきっていく」という師匠の「心」を「信心」を受け継いでいくことです。
 遠藤 宗門には、師弟の精神がなくなったから、邪教になってしまったんですね。
13  師匠の「信心」を受け継ぐ
 池田 創価学会も、それがなくなったら大変です。
 仏法でいう師弟の「不二」とは、何か。もちろん肉体は別々です。「心」「精神」、その人のもつ「法」が不二であるということです。ゆえに「法」を正しく行じている師匠を求めること、その師との「不二」を目指して向上していくことが大切なのです。
 「法」や「精神」と関係なく、親分・子分みたいに「自分につけ」とか、形式的に、私はだれだれの弟子なんだとか、それは仏法の正しい在り方ではない。広宣流布へと限りなく向かっていく師匠の「信心」を継承することです。師弟がなければ、「向上」はなく、堕落してしまう。
 斉藤 言うまでもなく、私たちの信仰の対象は、日蓮大聖人であり、大聖人が根源の師匠です。それを大前提にして、日興上人も、仏道修行していくうえで師弟が必要なことを訴えておられます。
 「このほうもんは、しでしをただして、ほとけになり候、しでしだにも、ちがい候へば、おなじほくぇを、たもち、まいらせて、候へども・むけんぢごくにおち候なり」
 (この〈大聖人の〉法門は、師弟の道を正して、仏になるのである。師弟の道を誤ってしまえば、同じく法華経を持ちまいらせていても、無間地獄に堕ちてしまうのである)
 須田 そして、仏法の師弟が形式論でない証拠に、日興上人は遺言として「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」と明確に、釘をさしておられます。大事なのは、正しき「法」を実践しているかどうかです。
14  「いよいよ」の信心で!
 池田 師匠の「信心」を、まっすぐに継承していってこそ「弟子」です。
 増上慢になるのではなく、「いよいよ」の信心が大事なのです。大聖人のお手紙にも、「いよいよ」とか「相構えて相構えて」とか、何度も何度も使われている。
 斉藤 池上兄弟に対しても、そうです。
 信心に反対する父・康光によって兄が勘当されるという試練に直面した時、二人は大聖人の仰せ通りに戦い、見事に乗り切りました。
 大聖人は、それを賛嘆されるとともに、「此れより後も・いかなる事ありとも・すこしもたゆむ事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし」と厳しく指導されておられます。
 池田 そうです。一瞬たりとも油断できない。悪に対しては、なおさらのことだ。「いよいよ」の思いで責めていかなければならない。
 遠藤 やはり難の渦中にあった四条金吾に対しても、同じです。「いよいよ強盛の信力をいたし給へ」、「いよいよ道心堅固にして今度・仏になり給へ」、「これに・つけても・いよいよ強盛に大信力をいだし給へ」と仰せです。
 須田 乙御前の母・日妙聖人は、佐渡におられる大聖人を母子二人で訪ねた女性です。その信心強盛な日妙聖人に、大聖人は「各各は日蓮が檀那なりいかでか仏にならせ給はざるべき」と励まされたうえで、「いよいよ強盛の御志あるべし」と言っておられます。
 池田 長年、信心してきた門下に対しても、「いよいよ」の信心に立ちなさいと教えておられるのです。
 南条時光の母(上野殿後家尼)に対しては、「れをかせ給いて後は・いよいよ信心をいたさせ給へ、法華経の法門をきくにつけて・なをなを信心をはげむを・まことの道心者とは申すなり」と言われている。
 (この法門を聞かれた後は、いよいよ信心に励まれるがよい。法華経の法門を聞くにつけて、ますます信心に励むのを、まことの道心者というのです)
 「なをなを信心をはげむ」──これが「本因妙」の信心です。この「信心」のあるところに「仏界」があらわれる。だから、大功徳がある。
 斉藤 大聖入御自身が、この「いよいよ」の模範を示してくださっています。
 身延に入られてからの御生活も決して「隠棲」などという消極的なものではありませんでした。
 何十人もの門下に対して法華経、摩訶止観等の講義をされるかたわら、膨大な数の論文・御消息を執筆して法門を残され、門下一人一人を、きめ細かく激励されています。
 遠藤 身延におられた八年四ヵ月の間に書かれた御書は、約三百編にのぼるといわれます。単純に平均しても、十日に一編の御述作です。そのなかには「撰時抄」や「報恩抄」などの長編の御書もあります。
 また、この間に、現存しているだけでも百二十幅近い御本尊を御図顕されていることを考えれば、すさまじいばかりの大闘争の日々であられたことがわかります。
 池田 そして最後、御入滅の寸前まで「立正安国論」を講義されておられた。
 斉藤 はい。ご入滅の約一ヵ月前、9月8日に大聖人は身延を出発され、18日に、池上兄弟の兄・宗仲の館に到着された。今の東京・大田区です。
 須田 十一日間の旅というのは相当大変であったでしょうね。馬を利用しておられたとはいえ、高齢で、しかも、病身であられた。旅の疲れも激しかったに違いありません。
 遠藤 しかし、大聖人は病身を押して、門下に最後の講義をされたのですね。
15  「つねに伸びていくのだ!」──牧口先生
 池田 そう。渾身の力を振り絞っての講義であったに違いありません。
 師匠というのはそういうものです。大切な弟子のために、後世の人たちに道を開くために、わが身を惜しまないのです。
 それが「仏」です。仏とは、最後の最後まで戦う人なのです。
 熱原の法難のさなかに教えてくださった「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」。この一句こそ、「信心」の精髄です。
 牧口先生は、晩年まで「われわれ青年は!」と言われ、「暦の年じゃない。つねに伸びていくのだ」と言われていたという。
 仏法に年齢はない。法華経の功力は「不老不死」です。いな、一般の世間であっても、人生の達人には停滞はない。
 ゲーテは言っている。
 「わたしは人間だったのだ。そしてそれは戦う人だということを意味している」(高橋健二訳『ゲーテの言葉』彌生書房)。
 また、ロマン・ロランは「苦悩と戦いと、これほど正常ノーマルなものがあるだろうか? それは宇宙の脊柱だ」(山口三夫訳『ロマン・ロランの言葉』彌生書房)と。
 私は青年時代、ホイットマンを愛読したが、彼もうたった。
 「今こそ、私の言うことをよく了解し給え──どんな成功の成果からも、それが何であろうと、さらに大きな苦闘を必要とする何ものかが出現することは、万物の本質のうちに具わっているのだ」(「大道の歌」、『ホイットマン詩集』〈長沼重隆訳〉所収、角川書店)
 広宣流布も同じです。人間革命も同じです。これを二十一世紀を担う若き諸君は胸に刻んでもらいたい。安逸は滅びの因だ。「建設は死闘、破壊は一瞬」です。
 これから二十一世紀にかけて、いかなる思想、いかなる運動が、民衆をリードしていくか。熾烈なデッドヒートが始まっていることを忘れてはならない。
 斉藤 四年半の長きにわたって、法華経について語っていただき、無量無辺の宝をいただきました。そして私が驚嘆するのは、池田先生が二十歳(数え年の二十一歳)の時、戸田先生の法華経講義を聴いて書かれた感想の中に、「真髄」は、すべて入っているということです。
 そこで、最後に、この一文を掲載させていただきたいと思います。
 池田 分かりました。法華経を論じたと言っても、まだまだ浅いし、十分ではない。日蓮大聖人の仏法は限りなく深いものです。だから、これまでの研鑚をもとに、将来、さらに完璧な法華経論を目指してもらいたい。
 妙法を広宣流布しているわれわれにしか、法華経の真髄は決してわからないからです。
16  法華経講義(第七回法華経講義)の感想(昭和二十三年〈一九四八年〉九月十三日)
 ああ、われ、法華経の深遠偉大なるに驚嘆す。
 人類を、真に救い得る道は、法華経に非ずや。
 宇宙と、生命の根源を、覚悟せし法義。
 全人類に、最高の人格と、幸福とを、必ずや得さしめんと、教示給いし根本原理。
 ああ、われ、二十一歳なり。
 人生を船出せしより、何を思索し、何を為し、何をわが幸福の源泉と為せしや。
 今日よりは、雄々しく進まん。
 今日よりは、確固として生きなん。
 大法の生命の中に生きん。苦悩に打ち勝ちて。
 真の悲しみは、偉大なる人生を鼓舞する。
 われ今、真実の大道、しかして、生命を自覚せり。
   
 厳粛に黄昏れる富士の山。麗しき、多彩なる雲。東に昇る賞月。そして、自己の実在。
 吾れに、生きゆく生命の活動あり。ゆえに、美の極致、この生命の中に存するなり。
 ああ、甚深無量なる法華経の玄理に遇いし、身の福運を知る。
 戸田先生こそ、人類の師ならん。
 祖国を憂え、人類に必ずや最高の幸福を与えんと、邁進なされ行く大信念。
 そして正義の、何ものをも焼くが如き情熱。
 唯々、全衆生を成仏せしめんと、苦難と戦い、大悪世に、大曙光を点じられた、日蓮大聖人の大慈悲に感涙す。
 若人は、進まねばならぬ。永遠に前へ。
 若人は、進まねばならぬ・令法久住の為に。
   
 妙法の徒。吾が行動に恥なきや。吾れ、心奥に迷いなきや。信ずる者も、汝自身なり。
 祖国を救うのも、汝自身なり。
 宗教革命、即人間革命なり。かくして、教育革命、経済革命あり、真の政治革命とならん。
 混濁の世。社会と、人を浄化せしむる者は誰ぞ。
 学会の使命重大なり。学会の前進のみ、それを決せん。
 革命は死なり。
 われらの死は、妙法への帰命なり。
 真の大死こそ、祖国と世界を救う大柱石とならん。
 若人よ、大慈悲を抱きて進め。
 若人よ、大哲理を抱きて戦え。
 われ、弱冠二十にして、最高に栄光ある青春の生きゆく道を知る。

1
2