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日蓮大聖人・池田大作

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序論 民衆に呼びかける経典  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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6  「二十一世紀の宗教」は民衆の宗教
 須田 宗教は「民衆を、自分の考えをもたない幼児的な状態に押しこめておこうとする傾向」を乗り越えねばならない──。こう主張されたのが、池田先生と会われたハーバード大学のコックス博士です。(聖教新聞一九九五年二月二十八日付「二十一世紀の宗教を考える──識者の声」)
 また博士は『民衆宗教の時代』という著作で、こう強調されました。
 「究極的分析において宗教の本当の担い手は、いつも一般民衆である」(野村耕三・武邦保訳、新教出版社)
 池田 コックス博士は、マーティン・ルーサー・キング氏(アメリカ公民権運動の指導者)と学友であった。パークス女史の″勇気の「ノー」″から始まったバス・ボイコット運動のさなかに、初めて二人は出会われたようだ。
 遠藤 同じバプテスト教会に所属し、キング氏が暗殺されるまで十二年間、非暴力の同志として戦われたともうかがいました。一緒に牢に入ったこともある、と。
 池田 初めて創価大学で語り合ったときの、コックス博士の言葉が忘れられません。
 「創価学会が根幹としている仏法の思想は、キングがそのために生き、そのために死んだ『理想』と、軌を一にしています。またその理念、価値体系は、私自身が人生の中で達成したいと願っている目標でもあります」(『聖教新聞』九二年五月四日付)
 斉藤 博士は、キリストの教えを学んだ方です。宗教は異なるのに、これほどまでに仏法と響き合う。「正見」の人かどうかを、宗派によって、教条的に見ることはできませんね。
 池田 ″仏教以外の思想や哲学を縁として「正見」に入る人もある″と、大聖人は述べられている。たとえ法華経に出あっても、誤った考えに執着して、法華経の真実の素晴らしさを分かろうとしない者は、これら仏教以外の賢人・聖人に劣るのであると(「観心本尊抄」御書二四二)
 また「法華を識る者は世法を得可きか」と大聖人は仰せです。
 「法華経の智慧」とは、社会をよくして、民衆を幸せにしていく智慧です。そうでなければ仏法の智慧とは言えない。開いて言えば、民衆を幸せにする智慧は、すべて「法華経の智慧」であるとさえ言えるのではないだろうか。
 大聖人は、民衆を苦しめた悪王を討って世を治めた周の太公望や前漢の張良などについて、こう述べられています。
 「此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人は・しらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり
 仏教が中国に渡る以前であっても、これらの人々は仏法の智慧をもって民衆を幸せにしたのだ、と。「民衆中心」とは「人間中心」と同じです。それは「宗派性」も「僧俗の区別」も超えて輝くものです。
 赤裸々な一個の人間として、他者に対し、社会に対し、何ができるか──その意識や力を絶えず湧きあがらせていく源泉が、「民衆の宗教」であり「二十一世紀の宗教」であるはずだ。それが法華経の魂です。
 民衆の詩人、ホイットマンは謳いました。
 「ところで君は君自身をどんなふうに思ってきた、
 それでは自分を劣っていると思ったのは君なのか、
 大統領が君よりえらいと思ったのは君なのか、
 あるいは金持ちのほうが君より裕福で、教育のあるほうが君より賢いと思ったのは君なのか」(「仕事を讃える歌」、『草の葉』酒本雅之訳、岩波文庫)
 「わたしが手を変え品を変え君の悟らせようとしているのは、
 男も女も神と同じという以外の何だと君は思うか、
 いっそ神だとて『君自身』以上にいささかも神聖ではないということ以外の」
 何であろうか──と。(「創造のための法則」、同)
 「君自身」とは「生命」と言ってもよいでしよう。これはまさに仏法であり、法華経の世界です。″あなた以上に尊いものはないのです″──法華経は民衆の一人一人に、こう呼びかけているのです。

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