Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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序論 民衆に呼びかける経典  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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5  仏教の本質は僧俗の平等
 遠藤 民衆性といえば、「法師」という言葉もそうです。
 法華経では、釈尊滅後に法華経を弘通する人を「法師」と呼んでいます。法師というと、普通は出家のように思われますが、「法を説く者」という意味で、出家・在家の両方を含んだ言葉です。この法師に、仏が「善男子、善女人」と呼び掛けています。
 須田 「法師」は、言葉の起源からいうと、むしろ在家者を指しているという説もあります。
 サンスクリットでは「ダルマ・バーナカ」といい、「ダルマ」は「法」です。「バーナカ」というのは「経典を暗誦し、誦する者」という意味で、ある経典(大事経など)では舞踏家、楽器演奏者などとともに音楽家の一種とされています。出家仏教である当時の小乗仏教教団では伎楽の演奏や歌舞の鑑賞を禁じられていますから、「バーナカ」は小乗仏教の範疇には入らない在家者であると考えられています。(塚本啓祥「インド社会と法華経の交渉」、坂本幸男編『法華経の思想と文化』〈平楽寺書店〉所収、参照)
 斉藤 仏教には出家・在家の区別のあることが、大前提のように考えられている傾向があります。とくに日本では、仏教ヒいえば僧侶が担うもの、という先入観が強い。在家は僧侶に布施をして拝んでもらう──それが仏教だと考えられています。
 しかし、僧俗の区別は本来、仏教が成立した当時のインド社会の文化状況を反映したもので、仏教の教理に基づく本質的なものではないことが明らかになっています。
 たとえば次のような仏教学者の指摘があります。「サンガの形成に当っても、サンガのめざす究極目的に対しては同一であったが、出家道と在家道とを二つに分けたことは、全くブッダがその中に生活した当時の時代思潮に順じたからに外ならない」(早島鏡正『初期仏教と社会生活』、岩波書店)
 遠藤 堀日亨上人も「僧俗と両様に区別することは、古今を通しての世界悉檀にしばらく準ずるものであって、あるいはかならずしも適確の区分でもなかろう」(『富士日日興上人詳伝』)といわれています。
 僧俗の区分は時代・社会によっては的確な区分ではなくなる場合もあるということです。
 須田 在家者に宗教に関する専門的な知識がなく、専門家としての聖職者に依存せざるを得ない時代には僧俗の区別も意味があったかもしれません。しかし現代は、知識・教育が社会全体に一般化し、出家が独占的な権威を主張できる時代ではありません。
 斉藤 出家と在家、聖職者と信徒という区分は、「実体」ではなく「働き」として、「身分」ではなく「役割」としてとらえるべきではないかと思います。
 池田 創価学会においては″身分としての聖職者″は存在しない。教義の研鑚はもちろん、布教も儀式の執行も、社会に根差した在家者である会員が一切を担っている。民衆が担う宗教です。
 牧口初代会長は「信者ではなく行者であれ」と叫ばれたが、その通りの行動をしています。一部の聖職者が権威を独占し、信徒はその権威に従属していくという伝統教団のあり方では、二十一世紀を目前にした現代社会には、とうてい適応できないことは確かでしょう。
 遠藤 聖職者中心の行き方をとってきたカトリックでも、現在は信徒に大幅な権限を認め、その意見が教団全体に反映できるようになっているようです。信徒を尊重し、その役割を認めていくことが、引き返すことのできない、宗教の方向性と考えられます。
 また、日本のバプテスト連盟に属している教会が、牧師制を廃止しました。そのことをとらえて、ある神学博士は、こう述べています。二十五年ほど前(一九七〇年)のことです。
 「牧師制度の中に座して、信徒をとおして間接にしか現実にふれない牧師はみずから社会の矛盾や動きにぶつかろうとしない。(中略)人々が日常の生活の中で担っている不安や苦悩に直接にふれることもないところでつくられる説教が人々の心にふれえないのも当然である。しかも、その説教には反論も許されない。このような牧師の権威に従い、精神的に依存してしか生きられないキリスト教徒からは、社会を動かしうるような信仰は生まれてこない」(熊沢義宣『明日の神学と教会』日本基督教団出版局)
 その後、聖職者中心でなく、信徒中心を掲げる「在家キリスト教」という考え方も、聖職者の側から提起されています。
 池田 社会で現実と格闘している人間にしか、社会で生きる人々の心は分からない。宗教が、本気で民衆のなかへ開いていこうとすれば、一部の特権階級中心ではなく、民衆中心を志向するのは、必然の流れではないだろうか。
 須田 「出家は不可欠か」。中国仏教協会の趙樸初会長は語られています。
 結論として「仏法の因縁と衆生利益の因縁を保てば、出家してもしなくてもよいのです」(『仏教入門』圓輝原訳、趙樸初先生著作刊行会監訳、法藏館)と。また「(=僧侶は)人にかわって福を祈り災をはらったり、神にかわって福をまねいたり罪を免がれさせることもできません」「歴史的にみれば、仏教が最も隆盛したのは、僧侶が一ばん多かった時代ではありません。僧侶の多すぎた時代は、むしろ仏教が衰退した時でした」(同前)
 信徒が自分の幸福や安穏を、僧侶に代わりに拝んでもらっても意味がない。僧侶が多いことは、かえって仏法の発展にマイナスになる。仏法をたもち、それを人々に教えていくという実践があれば、必ずしも出家する必要はないのだ、と。
 池田 趙樸初ちょうぼくしょ会長は、第一次訪中(一九七四年)以来の友人です。著名な書家であり、政治協商会議の全国委員会副主席でもあられる。
 中国で、東京で、法華経をめぐって何時問も語り合いました。法華経の文々句々を掌にされている方で、「爾時世尊」と、こちらが言うと、会長から「従三昧」と返ってくる。
 斉藤 じつは、私も四年前(九一年)、第一回の青年文化訪中団の一員として、天台山に行かせていただきました。
 池田 大聖人が「天台山に竜門と申す所あり其の滝百丈なり」と述べられたところだね。
 斉藤 はい。石梁瀑布といって、滝の途中に石橋がかかっているのですが、下から仰ぐと、まさに竜が石の門をくぐって登っていく姿に似ています。
 その近くにある古跡に、趙樸初会長が書かれた額が掲げられていたのです。
 そこには「法乳千秋」とありました。鮮やかな筆跡から、″仏法の滋養が、いつまでも民衆を潤し、育んでいくように″との願いが伝わってくるようでした。
 池田 会長は何度も語っておられた。「仏教とは本来、民衆と結びついたものです。それゆえに人間のなかに、衆生のなかに入っていくことが正しい」
 そして「私が日本を訪問したとき、皆さん方の文化祭の映画を見せていただきましたが、そこに躍動する人間の姿は、まさしく皆さん方が、衆生のなかで活躍している証拠であると感銘を深くしました」と(七八年、第四次訪中のさい)。
 在家である学会員の姿に、″人間のなかに入っていく″という仏法本来の精神を見ておられる。昨年(九四年)、学会の代表が表敬訪問したときも、変わらぬ友好の思いを語ってくださいました。ともあれ、二十一世紀の宗教は、民衆が自分で考え、自分で賢明に生き方を決める「自立」の智慧を与えるものでなければならないでしょう。
6  「二十一世紀の宗教」は民衆の宗教
 須田 宗教は「民衆を、自分の考えをもたない幼児的な状態に押しこめておこうとする傾向」を乗り越えねばならない──。こう主張されたのが、池田先生と会われたハーバード大学のコックス博士です。(聖教新聞一九九五年二月二十八日付「二十一世紀の宗教を考える──識者の声」)
 また博士は『民衆宗教の時代』という著作で、こう強調されました。
 「究極的分析において宗教の本当の担い手は、いつも一般民衆である」(野村耕三・武邦保訳、新教出版社)
 池田 コックス博士は、マーティン・ルーサー・キング氏(アメリカ公民権運動の指導者)と学友であった。パークス女史の″勇気の「ノー」″から始まったバス・ボイコット運動のさなかに、初めて二人は出会われたようだ。
 遠藤 同じバプテスト教会に所属し、キング氏が暗殺されるまで十二年間、非暴力の同志として戦われたともうかがいました。一緒に牢に入ったこともある、と。
 池田 初めて創価大学で語り合ったときの、コックス博士の言葉が忘れられません。
 「創価学会が根幹としている仏法の思想は、キングがそのために生き、そのために死んだ『理想』と、軌を一にしています。またその理念、価値体系は、私自身が人生の中で達成したいと願っている目標でもあります」(『聖教新聞』九二年五月四日付)
 斉藤 博士は、キリストの教えを学んだ方です。宗教は異なるのに、これほどまでに仏法と響き合う。「正見」の人かどうかを、宗派によって、教条的に見ることはできませんね。
 池田 ″仏教以外の思想や哲学を縁として「正見」に入る人もある″と、大聖人は述べられている。たとえ法華経に出あっても、誤った考えに執着して、法華経の真実の素晴らしさを分かろうとしない者は、これら仏教以外の賢人・聖人に劣るのであると(「観心本尊抄」御書二四二)
 また「法華を識る者は世法を得可きか」と大聖人は仰せです。
 「法華経の智慧」とは、社会をよくして、民衆を幸せにしていく智慧です。そうでなければ仏法の智慧とは言えない。開いて言えば、民衆を幸せにする智慧は、すべて「法華経の智慧」であるとさえ言えるのではないだろうか。
 大聖人は、民衆を苦しめた悪王を討って世を治めた周の太公望や前漢の張良などについて、こう述べられています。
 「此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人は・しらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり
 仏教が中国に渡る以前であっても、これらの人々は仏法の智慧をもって民衆を幸せにしたのだ、と。「民衆中心」とは「人間中心」と同じです。それは「宗派性」も「僧俗の区別」も超えて輝くものです。
 赤裸々な一個の人間として、他者に対し、社会に対し、何ができるか──その意識や力を絶えず湧きあがらせていく源泉が、「民衆の宗教」であり「二十一世紀の宗教」であるはずだ。それが法華経の魂です。
 民衆の詩人、ホイットマンは謳いました。
 「ところで君は君自身をどんなふうに思ってきた、
 それでは自分を劣っていると思ったのは君なのか、
 大統領が君よりえらいと思ったのは君なのか、
 あるいは金持ちのほうが君より裕福で、教育のあるほうが君より賢いと思ったのは君なのか」(「仕事を讃える歌」、『草の葉』酒本雅之訳、岩波文庫)
 「わたしが手を変え品を変え君の悟らせようとしているのは、
 男も女も神と同じという以外の何だと君は思うか、
 いっそ神だとて『君自身』以上にいささかも神聖ではないということ以外の」
 何であろうか──と。(「創造のための法則」、同)
 「君自身」とは「生命」と言ってもよいでしよう。これはまさに仏法であり、法華経の世界です。″あなた以上に尊いものはないのです″──法華経は民衆の一人一人に、こう呼びかけているのです。

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