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創価学会の目指すもの 二〇〇一年への四半世紀

「池田大作講演集」第7巻

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1  四半世紀の展望
 野崎 池田会長が、第二次訪中のさい、周恩来首相と会ったときに、周首相が「二十世紀の最後の二十五年は、大事な時期だと思います。全世界の人々が、お互いに助け合い、努力が必要です」と述べ、会長も深く同意したとうかがっておりますが、この最後の四半世紀のスタートにあたって、この二十五年を、人類は、どうとらえ、またなにをめざしていくべきか、このことは、創価学会がどう行動していくべきか、ということと深いかかわりあいがあると思えてなりません。
 そこで、この四半世紀のとらえ方について、対話していきたいと思います。
 北条 正本堂建立のいつさいの事業計画も終了し、創価学会も新しい目標に進むことになりました。会長は、すでに昭和四十七年の完工式のときに、広布の第ニ章に入ったといわれ、それからというもの、会長の死闘ともいうべき活動によって、道は大きく世界に開かれてまいりました。
 一方、世界的には、食糧問題や核兵器の問題、人口問題、先進国と発展途上国とのアンバランスの問題、公害問題など、人類的な視野と展望に立って解決しなければならないことが、山積しております。二十一世紀を「生命の世紀」とするためにも、この最後の四半世紀に、なにかが変革されなければならないことは、目に見えていますね。
 会長 周首相との会談は、短い時間でしたが、二十世紀の最後の二十五年が、大事な時期であるといっていました。私も同感です。
 それは、この二十五年で、二十一世紀以後のいつさいのレールが敷かれてしまうといって過言でないからです。いま、時代の重大な転機であり、この二十五年は、激動の時期でしよう。この時を見事に乗りきり、人類に大きな根本的な活路が開かれれば、そのあとは試練錯誤しながらもその路線で進んでいくことができるでしよう。それができるかどうかの試練の二十五年間とみたい。
 すでに機会あるたびに私は申し上げてきましたが、この間に、なんとしても、全人類の絶減の運命だけは転換させたい。そのためには、人類の良心を呼び起こし、それだけの平和勢力を結集しておきたい。この二十一世紀への基盤をつくっていくのが、私どもの使命であり、創価大運動であると訴えておきたいのです。
 二十五年後というのは、いま生まれた赤ん坊が、二十五歳の青年になることです。あたりまえといってしまえばそれまでですが、しかし、そう考えると、きわめて切実感がわいてきます。野崎君などは五十代になっているでしよう。
 この期間が、もっとも大事なんです。というのは、北条さんもいったように、人類全体が生きのびるかどうか、非常に困難な問題が、テンポを速めて、私たちの前に立ちはだかりつつあるからなのです。
 しかし、これは、あせって解決できるものではない。まず、できることから始めなければならないわけです。
 大事なことは、現在、世界に欠けているものは、人類を運命共同体としてとらえる強い意識であるということです。これも、識者によって叫ばれてはいますが、実際にそれが政治家や庶民のなかに息づいているかというと、決してそうではない。
 過日の本部総会でも話しましたが、あいかわらず、国家のエゴイズムが吹き荒れ、しかも各国はそれぞれ、国家主義的な方向で民衆の力を利用しています。たとえば、核兵器をもつことを、国家の威信の象徴みたいに思わせるといったところに、そうしたことがあらわれています。世界には、まだ、偏狭なナショナリズムが、あまりにも強い。その壁が圧倒的に強力であるために、世界市民的な民衆の力の結集がなされないでいるのです。
 八矢 会長は、十年前、「人間革命」の主題として「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、更に全人類の宿命の転換をも可能にする」と書かれましたが、まったく、会長の行動は、その主題そのままと、私は思うのです。
 会長 私にばかり責任を負わせないで、皆さんもしっかり頼みます。(笑い)
 私の場合は、この一個の人生を御本尊と戸田先生にかけました。十九歳のときから人生は決まっております。ともかく、必死に動きます。本年も、世界を駆けめぐります。
 とにかく、人間が動かなければ、時代は回転しません。
2  教育・家庭の年
 八矢 ところで、本年は、家庭の年、教育の年と銘打ちましたが、こうした世界的な問題とのあいだに、多少、やはり距離感といいますか、いってみれば、家庭とか、教育というものが、あまりにも基本的なことであるので、世界的な動向とのあいだに、関連というものを感じにくい面もあるように思うのですが……。
 会長 その基本的な場、いわば人間の生存の土台ともいうべきものに、亀裂が生じていることに、現代の危機の深刻さがある。そこから変えていかなければ、社会は変わりません。
 北条 家庭の年も、教育の年も、決してこの一年間のことだけではないと思います。息の長い、持続の変革運動であり、いってみれば、創価学会が、社会的存在として、まずここから、地についた運動を展開していくとの、責任性と行動性に裏づけられた船出だと思うのです。
 会長 仏法上、こういうこともいえるのではないだろうか。現代は「主師親」の崩壊の時代であるということです。これは、なにも封建的な道徳観をいうのではなく、人間の向上をうながすものとして展開すれば、「主」というのは社会的人間関係、「師」というのは教育的人間関、「親」というのは家庭的人間関係、その基本的な人間関係の絆がボロボロに切れてしまっている。そのいわば、生きるうえでの、もっとも基本的な人間関係から、復興していくということではないだろうか。
 野崎 そうですね。これこそまさに文化革命ですね。生き方の変革だと思うのです。
 八矢 そうすると、家庭の年、教育の年というのは、人間革命の延長線上にある文化革命の第一歩であると認識すべきなのですね。
 会長 そう。人間一個といえども、それは内なる広がりもあれば、外への広がりもある。また、歴史的な流れも脈打っている。その総体の変革が人間革命であり、それは、必然的に文化革命に直結していきます。
3  昭和――50年の歩み
 北条 話題を日本のことに移しますが、昭和五十年ということで、世間にはこの激動の半世紀を振り返ってみようというふんいきが強いようです。確かにこの五十年間、日本は振幅の激しい道を歩んできました。軍国主義への傾斜の果てに戦争へ突入し終戦。戦後は借りものといわれつつも民主主義を定着させようと進んできた。しかし、それは十分に根を下ろしたとはいえません。経済進出が、新たな世界侵略として問い直されている状況にあります。
 会長 昭和五十年といっても一つの区切りにすぎないが、五十年の来し方がしきりに振り返られるということ自体、現在の世界的不況下のもとで今後の日本の進路が憂慮され、混沌のなかに未来への指標が模索されている一つの証左といえるでしよう。
 野崎 激動の半世紀の末になにが残ったかということですね。海軍兵学校にいっていて「お国のために」といっていた北条理事長には、この仏法が残りましたが。(笑い)日本人は総体として、戦後三十年、再びなにかむなしい気持ちを感じているのではないかと思います。それどころか、時代は昭和初期の社会不安の様相すら呈してきている。これでいいのかといった漠然とした危惧を、多くの人々がいだいているようですね。
 八矢 私たち学会員としてこの五十年を振り返ると、昭和三年には牧口初代会長、戸田前会長が相次いで入信しています。池田会長が生まれたのもこの年ですけど。(笑い)昭和五年には創価教育学会が創立され、やがて戦時下で軍部の弾圧にあい、初代、二代の会長が獄中に入られた……。
 会長 そう。学会は、戦争との対決のなかから壮絶な試練を越えて、戦後に羽ばたいていったわけです。軍国主義権力との戦いのなかで、創価学会は平和への使命をいちだんと掘り下げつつ再建へと進み、今日にいたっている。行動する平和団体としての創価学会の存在は、後世の歴史家の判断にゆだねるとして、ともかく激動の半世紀における学会の軌跡をいろどるものは平和であり、民衆自発の意志によって平和運動を推進してきたという事実でしよう。
 特に無残な戦争が、学会の使命をいちだんと鮮明にしている。もし戦争、敗戦という歴史の動きがなかったならば、信教の自由も確立されず、運動の展開もここまではいかなかったであろう。ともかく初代、二代会長が生命を賭して仏法流布の基礎をつくり、時きたりて、創価学会が平和勢力として、日本のみならず世界の舞台に登場したといえる。
 北条 さきほど海軍兵学校の話が出ましたが、当時は「日本は神国にして皇上は高貴の聖裔に御座す現神なり」が一切の価値観となって、皇民化教育の一つとして神道が徹底された。完全な思想、信教の統一です。これに異を唱えることが、いかに勇気と信念のいったことか、当時に青春を生きた一人としてよくわかります。
 会長 戦争という最大の民衆圧迫の歴史のなかから創価学会は生まれ、民衆の願望を担いつつ、幸福と平和を呼びあう人間の本性にもとづいて、ここまで伸長してきたといえる。
 私個人のことになるが、四人の兄が次々と戦争にとられ、家業のノリ製造は働き手を失って傾く一方であった。長兄はビルマで戦死しています。戦争の無残さは身にしみて知つていますし、この原体験に根ざして、私は平和というものを模索していた。もう必死だった。私が十九歳で入信したのは、牧口初代会長が壮烈な死を獄中で迎え、戸田前会長が軍部権力と戦いぬいたという事実からでした。
 この両会長の体験は、創価学会という有機体にとって、永違の原体験として語り継がれていかなくてはならない。

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